ユートピア「52話 もうひとつの結界」


 真吾はしばらく呆けたように悪魔たちの織りなす戦争を眺めていたが、ふいに弾かれたように駆けだした。目的地は海であり、いますぐ飛び込むつもりである。雨あられと降り注ぐ火の粉が、いまや真吾の隠れる天幕近くまで迫ってきていたからだ。魔の炎が真昼の白い空を赤く染め上げ、悪魔たちの喜悦に満ちた顔を照らしている。彼らの戦法は至ってシンプルだった。遠距離の敵には魔力を放ち、近距離の敵には各々の武器を叩きつける、その繰り返しなのだ。そしてこれは、前哨戦に過ぎない。
 こうなった以上、真吾にできるのは自分の身を守ることだけだ。もうもうと渦を巻く煙の中、真吾は手探りで海を目指し続ける。幾筋もの魔力の矢が地面に穴を空け、その一筋が前髪を焦がしたが、無我夢中で進む真吾は気付きもしなかった。

 こんな状況だというのに、僕は怖気づいている。唐草マントをひるがえしながら飛ぶように走り、胸元でかちゃかちゃ揺れるソロモンの笛を片手で押さえ、辿り着いた崖の上で、東嶽大帝を倒した英雄は恐怖に足をすくませているんだ、そんな自虐的な思いに囚われている。とはいえ、これは真吾に勇気があるかないかの問題ではなく、現実的な不安だった。崖から海面までは思った以上に高さがある。その上、魔界の海が人間にとって有害か無害か、まったくわからないのだ。高さの問題はさておき、はたして人間の僕が身体を浸して大丈夫だろうか? 一か八かで飛び降りるか、背後から迫りくる煙と炎に巻かれて死ぬか、
「そうだ、コイントスで決めよう。表が出たら飛び降りる、裏が出たら全力で走って逃げ……」
 真吾の独白はそこで途切れる。崖っぷちでハムレットばりの葛藤を見せていた少年の背中を、突如湧きおこった爆風が押してくれたからだ。三十五キロ強しかない真吾の身体は、あっさりと吹き飛ばされ宙を舞う。真っ逆さまに海に吸い込まれていく真吾の背後で破裂した魔力の塊は、ほんの数秒前まで真吾が立ちすくんでいた岩棚を跡形もなく吹き飛ばした。喉の奥で悲鳴を上げながら真吾は思う。僕の強運はまだ尽きてなかったな。

 真夏のぎらつく太陽に照らされた生ぬるい海は火傷寸前のほてった肌をやさしく包んでくれたが、十分な準備もできないままいきなり放り込まれたせいで海水が一気に口の中に入り込んできた。視界を妨げる気泡を必死で掻き分け海面に顔を出し、海水を可能な限り吐き出してから人気のない岩棚の陰を目指して慎重に泳ぎ始める。ずぶ濡れのマントが身体にまとわりつき動きを妨げたが、脱ぎ捨てるわけにもいかない。波にさらわれないようバランスを取りながら岩棚を這い上がり、熱い岩肌にどさりと身体を横たえるとようやく人心地ついた。泳ぎが得意で本当によかった。鼻と喉はつんと痛み身体中ひりひりしていたが、とにもかくにも生きている。腹は海水で膨れているし、状況を整理するまでしばらくは走りたくない。今日の収穫、魔界の海は人間にとって有害ではないようだという知識。

 十二使徒を責めるわけにはいかない。真吾は肩で大きく息をついた。彼らは悪魔だ、僕がどれほど脆弱な肉体を持つ種族なのか、ぴんとこないのも無理はない。でも、それでいいんだ。いざ戦となれば平時の温和な顔は吹き飛び生き生きと戦場を闊歩する僕の愛しい悪魔たち、僕は君たちの牙を抜いたりはしないよ。世界を変えるために、時には自分自身のために悪魔の力を使う、そんな身勝手な僕を受け入れてくれたのだから、僕も君たち十二使徒のありのままを愛することに決めたんだ。

 肌に張り付いてべたべたするシャツを脱いできつくしぼってから、真吾は仕方なくもう一度頭から被る。味方の陣営に戻ろうにも戦渦は激しくなるばかりで、身動きが取れない。
 ひとり途方に暮れていると嗅ぎ覚えのある甘ったるい香りが漂ってきたので、真吾はゆっくり振り向いた。この悪魔はまるで狙っているかのように僕の単独行動時に現れる。レラジェは涼しい顔で言った。
「前言は撤回するよ、坊や。お菓子を上げるからこっちへおいで」
 真吾の脳裏では、二か月前にレラジェと交わした会話が色鮮やかにリピートされていた。別れ際にレラジェは『次に会うときは敵としてだろう。残念だよ』と言い、真吾は『僕も残念だよ』と答えたはずだった。
「ということはつまり、いまの君は僕の敵じゃないってことか、レラジェ」
 言葉通り真吾に向かってお菓子の包みを放り投げながら、レラジェは薄く笑った。
「とりあえず、この戦場ではな」
 あいかわらず食えないやつだな。逆五芒星の男の仲間だというのに、真吾はどうしてもこの悪魔を嫌いにはなれなかった。断る理由もないので、貰ったお菓子は今日のおやつにすることにする。
「しかし驚いたよ、シンゴ。まさかいきなり開戦とは」
 真吾は曖昧な笑みを浮かべながら海水でべとべとの靴を脱ぐ。
 真吾はおぼろげながら理解し始めていた。他でもない、自分自身が開戦の火蓋を切ったのだと。なぜ館の悪魔の使者は真吾に弓を渡したのか? 真吾はたいして重要なものだと思っていなかった――だって誰も僕に教えてくれなかった。総大将が敵陣に矢を射る。すなわち開戦の合図だということくらい、端倪すべからざる知能を持つはずの「悪魔くん」なら心得ていて当然なんだろうか。でも、僕は知らなかったんだ。
 長らく停滞していた魔界の歴史も、変化の時がくれば瞬きひとつする間に動き出す。少年のちょっとしたいたずら心が引き起こした変化の大波は、こうして始まったのだった。

 靴を逆さにして水分を切っている真吾に、レラジェはなおも話しかけてくる。
「戦の最中にひと泳ぎとは、坊やの行動は予測がつかないな。人間の習性はよく知らんが、水浴びをするなら服を脱いだほうがいいんじゃないか」
「……人間界では服を着たまま泳ぐのが流行ってるんだよ、はは……レラジェこそ、こんなところでどうしたんだよ」
「祭り好きが災いしてね。南方勢力を見物するつもりが、少々近づき過ぎた。やつらに勘付かれてしまったよ。さすがの私も多勢に無勢、まともに戦うのもつまらんから巻いてきたところだ。どうやら坊やとは縁があるらしいな。……しかし、それにしても例の最果ての国は妙だな」
 ただの挨拶代わり、話の接ぎ穂だと、流していてもおかしくはなかった。しかし真吾は反射的に聞き返していた。
「妙って、どんなところが?」
「坊やも、館の悪魔たちも、あの最果ての国のこととなると目の色が変わるからさ。単に、新たな土地の覇権を争っているだけだろう? 珍しくもなんともない。こんな単純な話、わざわざ複雑にして考えるほどのことでもないと思うがね」
 まあそれなりに愉快な暇つぶしになるのなら私はなんでも構わんがね。あっけらかんとのたまうレラジェの言葉は、過度の集中に入った真吾の耳を素通りしていく。
 昼夜を問わず頭を悩ませていた問題も解けるときは一瞬で、拍子抜けするほどだった。無駄な思考を一切省き、真吾は一直線に結論に辿り着く。脳裏に閃いたあまりに単純な答えに、真吾は眩暈に似た興奮を感じていた。

 そうだ、その通りだ、見間違いようのない道しるべがあちこちにあったのに、どうしていままで誰も気づかなかったんだ? 館の悪魔も、僕も、十二使徒も、他の多くの悪魔たちも、ずっと目隠しをさせられていたんだ、知らず知らずのうちに。
 単純な話を、複雑に考えている……違うな、もっと正確に表現するならば、「考えさせられている」。
 レラジェの何気ない言葉がなければ、これに気付くまで――すなわち、本当の結界を破るまでひどく遠回りをしていたことだろう。

 結論から言うと、最果ての地の結界は解けていなかった。外界からの侵入を防ぐだけの結界は確かに解けている。けれど、それは本当に重要な結界を隠すためのカモフラージュに過ぎない。物理的な結界が消えれば、もう障壁はないと思い込まされてしまう。つまり、最果ての結界に対するそれ以上の追求を止めてしまう。結界は依然として最果ての地を深く覆っていたというのに。
 隠された結界の役目は、僕たちの目を曇らせることにあった。すぐ目の前にあるはずの、すぐに気付くはずの答えに意識を向けさせないための結界。僕らの目を眩ませるための結界、それに気付かない限り永遠に解けない結界。
 誰が最果ての国を造ったのかわかった。だから僕の役目は「王」なのか!

 真吾は内心の興奮を押し隠し、極力ゆっくり答える。レラジェには悪いけれど、完全に味方ではない以上、べらべらと情報を漏らすわけにはいかなかった。
「確かにそうだな……。それより、本当の用件はなんだ? 僕にお菓子をくれるためだけに来たわけじゃないんだろ」
「なかなか鋭いじゃないか、やはりそうでなくてはな。実を言うとひとつ頼みがある。しばらくそっちの陣営に匿ってくれないか。私も館の悪魔側についている。彼とは長いこと懇意にしているしな。私と坊やも広い意味では仲間ってわけだ。そろそろ脱出したいのは山々だが、こうも戦争が本格化してはいますぐ抜け道を見つけるというわけにもいかなくてね」
 真吾がためらったのはほんの一瞬だった。
「いいよ。レラジェにはヴァルプルギスの夜での借りがあるしね。問題はどうやって戻るかだけど――」
「それなら私に任せたまえ」
 緑の悪魔レラジェの手がにゅっと伸び、真吾の右手首を掴む。悪魔の冷たい手のひらは妙に心地よく、真吾を地中の奥深くへ引きずり込んでいった。

 日が昇っている間にやるべきことを、すなわち領内の行政、地理、信仰、この不思議な国のありようを学ぶ。日が落ちると僕はゆったり友と語らう、いつしかそれが日課になっていた――南方勢力と一戦交える前までは。真吾の軽率な行動が原因で幕を開けた前哨戦も落ち着きようやく国に戻ると、気遣わしげな顔の大神官たちに出迎えられた。固く閉ざされた防壁の内側では、人々が足場を組んで二重の壁を築いている。大神官の指示だった。長らく外界から隔絶されていたにも関わらず、未知の脅威に対する順応性がすばらしく高い、捉えどころのない国だ。ほんの少し前の真吾ならそう考えていたところだ。
 しかし真吾にはもうわかっていた。つくづく自分が信じられない。いくらあの人物が造り上げた結界があったとはいえ、どうして僕はこんなにも簡単に惑わされていたんだ?
 真吾は大神官の目をひたと見据え、試しに言ってみた。
「魔界のいざこざは厄介だね。古株の悪魔が相手だと、そもそも言葉からして通じないんだもんな」
 そして大神官の反応は?
「ええ。私どもも、始めは言葉に難儀しました」
 思った通りだった。

 大聖殿の奥深く、だだっ広い寝室で仮眠を取り頭をすっきりさせてから、真吾は前哨戦の事後処理に当たった。疲労はまだ取れないけれど、日が落ちる前に片づけよう。真吾は手早く手記を綴り始めた。
『七月二十九日
 前哨戦は決着のつかないまま終結した。戦いは今後ますます熾烈を極めるだろう。これからレラジェの処遇について十二使徒と話し合うつもりだけれど、その前に状況を整理する。一度は南方勢力がレラジェを捕虜にしかけたが、僕がそれを妨害した。馬鹿げた言いがかりだけれど、南方勢力はそう主張している。レラジェは地中を移動できるのだから、そもそも最初から僕の助けなんて必要なかったんじゃないかとも考えたが、ひょっとすると長距離の移動は困難なのかもしれないし、南方勢力が水も漏らさぬ包囲網でも敷いていたのかもしれない。あるいは、単に退屈を紛らわせるためだったのか。いまとなってはどうでもいいことだ。
 厳密に言えば、僕は十二使徒と話し合いをするわけじゃない。僕の判断を納得してもらうための場を設けただけだ。レラジェは南方勢力に引き渡さない。館の悪魔軍を通して魔界本土へ戻す。僕が主人として下す、十二使徒への命令だ。反対されるだろうけれど、やるしかない』
 真吾は静かにペンを置いた。
(いいか、坊や)
 去り際にレラジェが残した言葉が脳裏に蘇る。
(私はそれなりに古参の悪魔だから忠告しておくが、しばらくじっとしていることだ。なに、南方勢力のやつらはただ遊び足りないだけだ、本気で戦争する気なんてないのさ。それは館の悪魔にしても同じことだ。だから坊やも、ゲームの駒を有利に進めることだけ考えればいい)
 忠告はありがたいんだけどね、レラジェ。僕はただじっと待つのが苦手なんだ。それに僕は人間だ、悪魔の基準で動いてられないよ。

「そんな、危険よ」
「というより、正気の沙汰じゃないぜ」
 鳥乙女、メフィスト2世を始めとする十二使徒の反対意見に真吾は少々めげそうになるが、それを悟られないよう腕組みをしてポーカーフェイスを保った。メフィスト2世がたたみかけるように言う。
「なあ、あの悪魔……レラジェは例の逆五芒星の男の仲間だろ? 知り合いだったのかよ」
 思えばメフィスト2世も、他の使徒たちも、真吾とレラジェがはじめから顔見知りだったことを知らないのだ。レラジェと初めて会ったのは館の悪魔の饗宴で、メフィスト2世とはぐれた直後だった。次は学校の裏庭で、その次は逆五芒星の男の追跡劇で敵として対峙し、ヴァルプルギスの夜では真吾の命を救い、砂漠の町の果てでは奇妙な友情のようなものまで芽生え、そしてこの戦で再び出会った。
「ああ……うん、ちょっとね。あの逆五芒星の男と一戦交える前からの……友だち、かな、一応」
「ちょっと友だちかもしれないやつのために、俺らとこの国のやつらは命を張るのかよ」
 メフィスト2世の言葉は理にかなっていたが、真吾には真吾の言い分がある。
「みんなが反対する気持ちも、理由もわかる。でも僕の話も聞いてほしいんだ。もし僕が自分の道を踏み外したら、あの逆五芒星の男と同じになってしまう。それはぜったいに嫌だ。理由なら他にもある。第一に、レラジェを南方勢力に引き渡したところで状況が好転するとは思えない。第二に、そんなことをすれば僕は魔界中から仁義をわきまえない卑怯者のレッテルをはられる。その評価は妥当だ。第三に、僕はレラジェに借りがある。第四に、僕は南方勢力のやつらに命令されるいわれはない。僕に命令できるのは僕だけだ。第五に、いまさら僕の気が変わってレラジェを引き渡そうとしたところで、もう遅過ぎる。とっくの昔に逃がしたよ」
 僕はたくさんの間違いを犯してきた。東嶽大帝と死闘を繰り広げていたあの頃ならぜったいに犯さないようなミスを繰り返し、逆五芒星の男に出し抜かれ続けた。だからもう二度と、自分の運命の決断を人任せにしたくないのだ。あやふやな態度で十二使徒を惑わせるよりは、毅然とした強さを見せるべきだと真吾は考えていた。みんなを苦しめるくらいなら、みんなに嫌われたほうがまだましだ。責任は僕ひとりが負えばいい。

 真吾が思うにこれは、意地の張り合いなのだ。僕が譲歩すれば南方勢力も面目が保てる。いくら東嶽大帝を退けた者とはいえ、人間の子どもに凄まれたくらいですごすご引き下がっては示しがつかないということくらい、真吾にも理解できる。真吾としても好んで争いをしたいわけではなかったが、問題はどこで譲歩するか、どこに交渉の余地があるかなのだ。まさか、ポーランドよろしくこの国を分割するわけにもいかない。
 真吾の感情は高ぶっていたが、目に見えて顔色が変わることは少ない。いつからポーカーフェイスが十八番になったんだろう?


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2010/01/09(10/05最果ての謎が矛盾いっぱいなのでちょっとだけ修正)

あけましておめでとうございます! 2010年初更新です。悪魔くんは相変わらず体をはってがんばってますv裏のほうで十二使徒もがんばってます。レラジェが当たり前のように出てきます。レラジェと最後に会ったのは35話でした。22話で真吾くんの命を救ってます。初めて会ったのは6話でした。最果ての地の結界について:外部からの侵入を阻んでいた、物理的な結界は解けています。悪魔くんをはじめとするすべての者がもうひとつの隠された結界に引っかかっていました。ということになってます!