ユートピア「22話 ヴァルプルギスの夜 3」Walpurgisnacht 3


 いつまで経っても予想した衝撃は来なかった。おそるおそる目を開けると、生ける屍は冷たい床の上であるべき姿に戻っていた。扉は固く閉まったままで、慣れ親しんだ使徒の気配もない。いったい、誰が。漂って来た甘い香りに、真吾は身体中の筋肉がこわばるのを感じながらゆっくりと首を巡らせた。
「どうして僕を助けたんだ、レラジェ」
「ゲームはまだ終わってない。こんな雑魚相手にリタイアされてはおもしろくないからな。別に貸しを作るつもりはない、せいぜい我々を楽しませてくれればいい」
 真吾は歯ぎしりした。
 事実そうなんだろうな、奴らにとっては午後のお茶のひと時のカードゲームのようなもの、ただの遊びなんだ。思いきり睨みつけてやると、レラジェはにたにた笑いを顔に張り付けて真吾を見返した。チェシャ猫みたいだ、ワンダーランドのアリスの。
 みんなは僕のことを人がよすぎるというけど、でも僕だって男なんだ、いつまでもこんな奴らに馬鹿にされてたまるもんか。
「ふざけるな! お前たちのせいでどれだけの人が苦しんでいると思ってるんだ。みんなを苦しめて、死者を冒涜して、この上まだなにかするつもりなら、僕だって容赦しないぞ。あの男に伝えろ。お前の遊びはもう終わりだって」
「勇ましいな。そう熱くなるなよ、坊や」
 レラジェはくつくつと笑った。
 真吾は体勢を整え、ふうっと息を吐いた。
 逆五芒星の男はどこかでこの阿鼻叫喚のヴァルプルギスの夜を楽しんでいる、レラジェに突っかかってみたところでどうしようもない。
「……一応、お礼は言っておくよ。ありがとう」
 レラジェはひらひらと手を振ってから、空間に直線を描く。黒い裂け目にひょいと片足をかけながら思い出したように言った。
「そうそう、私がシンゴを助けたことは秘密にしておいてくれ。表面上は契約主に従わないとまずいのでね。それで貸し借りなしでいい」
 レラジェが完全に姿を消すと同時に扉が開き、メフィスト2世と百目が飛び込んできた。
 メフィスト2世は殺気立っていた。あれだけの数を相手にしたのだから当然だ。百目も健闘してくれたようで、小さな肩を大きく上下させている。
「悪魔くんが倒したのか」
 横たわる死者にステッキを向け問いかけるメフィスト2世に、真吾はかぶりを振った。
「……ううん、この人は自分の力で自分の魂を救ったんだよ」
 意味を測りかねたのかメフィスト2世は眉をひそめたが、そうか、と言ったきりそれ以上は追及してこなかった。真吾はそれがありがたかった。今は話したい気分じゃない。なにかを感じ取ったのかメフィスト2世はさきほどまでレラジェがいたあたりの空間に目をやっていたが、真吾がなにも言わないので諦めたように目をそらした。
 約束は約束だからな、レラジェ。それにしても、敵には違いないのにどうも調子が狂う。なんとなく憎めない、変な悪魔だな。
 メフィスト2世がなにかを言ったが、ぼうっと考え込んでいた真吾はそれを聞き洩らした。
「え? なに?」
「遅くなって悪かったな、って言ったんだよ」
「いや、僕の作戦が甘かったせいだよ。二人とも無理させてごめんね」
「悪魔くん! ぼく、がんばったんだもん!」
 胸を張る百目に、真吾は「偉いぞ百目、よくやったな」と微笑んだ。少しオーバーなくらい褒めると大はしゃぎする百目は可愛くて、もし弟がいたらこんな感じかもしれないなと真吾は思う。

 いつの間にかお互いの顔が判別できないほど暗くなっている。真吾はもやもやと胸のうちでわだかまる不安をどうにかしたかった。
「メフィスト2世。ちょっと考えごとをしたいんだ。悪いけど、少しのあいだ辺りを見張っていてくれないか」
「ん? ああ、いいけど」
 真吾はさっとその場にあぐらをかくと、今回の事件を最初から順にたどり始めた。
 僕はあえて奴らの手の中に飛び込んだ、僕らはすでに奴らの術中にいる。だけど僕はできる限りの安全策を取った。十二使徒の特性を考えてグループ分けをしたし、本拠地である見えない学校の守りも固い。
 真吾は無意識のうちに腕を組み、とんとんと指先で二の腕を叩く。退屈そうに小さく童謡を口ずさんでいる百目、くるくるとステッキを回して窓の外を眺めているメフィスト2世、なにもかもを意識の外に締め出し、真吾の精神は極度の集中に入っていった。
 僕はまんべんなく十二使徒を配置し、まんべんなく守りを固めた。ここは奴らの領域で、僕らの領域は見えない学校だ。奴らは僕が悪魔くんであることを承知の上で戦いを挑んできた。これが戦争なら、ゲームなら、なにをもって勝利とする?
 真吾は呟いた。
「敵の本拠地を落とすことだ。もしくは敵のリーダーを屈伏させること、あるいはその両方」
 幸いその呟きは二人の使徒の耳には入らなかったようだった。真吾は更に考える。
 そう、それは最初からわかっていたことだ。仮に僕が悪の統領だったらそうやって遊ぶだろうから。すぐに攻め入らないのは、ゲームがつまらなくなるからだ。だけど、それでも僕はここに来ざるをえなかった。奴らの悪ふざけを見過ごすわけにはいかない。奴らもそれをわかっている。そうしてゲームは否応なしにはじまり、僕はそのふざけた遊びの相手をせざるを得ない、どんなに苦しくても、馬鹿げていても。
「悪魔くん」
 メフィスト2世に肩を揺さぶられ、真吾は現実に引き戻された。
「なに?」
「気をつけろ、なにか来るぞ」
 真吾はしびれる足をさすりながら立ち上がった。メフィスト2世はペンキの剥げかかった、元は鮮やかなオリーブ色だったであろう書き物机がある辺りを凝視している。真吾も彼にならい必死に目を凝らしてみるがなんの異常もみられなかった。
「別に、なにも見えな……」
 言いかけた真吾の動きが止まった。空間にさざ波が走り、蜃気楼のような波紋が広がっていく。同時に生じた濃厚な瘴気に、真吾の呼吸は浅くなった。
 空間をねじ切り現れたのは初老の紳士だった。少なくとも、外見上はそう見えた。品の良い口髭をたくわえ、皺一つないタキシードを着込んだ悪魔は真吾の前で優雅に一礼する。紳士の背後、ぽっかり空いた黒い穴の向こうには、無数の悪魔が蠢いていた。整然と隊列を組んでいるその様はまるで軍隊のようだ。いや、実際そうなのだろう。
 真吾の背中を冷たい汗が流れた。違う、これは違う、逆五芒星の男じゃない。奴らとは無関係だ。穴から湧き出てくる凄まじい瘴気をまともに浴び、真吾は小刻みに震える足をどうにかなだめようと必死だった。真吾にもそれなりにプライドがあったし、もう使徒の前で情けない姿をさらしたくない。喉元まで込み上げてきた吐き気を紛らわせようと思い切り拳を握る。爪が手のひらに食い込み深く跡を作ったが、そんな小さな痛みなど完全に麻痺していた。
 老紳士の目がすっと細まり、真吾をとらえた。
「初めまして、悪魔くん。我が主、館の悪魔との約束、果たして頂きたく参りました」


21話へ  戻る  23話へ
2008/2/20

館の悪魔は6話8話9話あたりにでてきた悪魔です。段々とんでも展開になってきてしまった!
めちゃくちゃ温和だけどここぞというときに男らしい真吾くんとか、かっこよくていいなあ……。
びしばし頭脳プレーな真吾くんとかいいですよね! めろめろ。