ユートピア「9話 日常へ」


 涙で顔をぐしゃぐしゃに濡らして駆け寄ってきた百目をそっと受け止めてあげるつもりが、思った以上に無理をしていたようだった。本来なら入念な下準備が必要な結界を無理やり張り、気力を使い果たしたところで魔物に食い殺されそうになり、その上かなり手加減されていたとはいえ館の悪魔の魔力を全身に浴びたのだ。疲労感は相当なものだった。真吾は肉体的には人間の子供なのだから。勢いよく飛びついてきた百目に、真吾の身体はぐらりと傾く。何とか踏み止まったが、気づかれただろうか。
「悪魔くん、ごめんだもん。ぼく、また迷惑かけたんだもん」
「いいんだよ。誰だって間違うことはあるよ。さあ、一緒に帰ろう」
「また悪魔くんの家に行ってもいいのかもん?」
「もちろんだよ。エツ子も喜ぶよ。メフィスト2世とメフィスト老もね、百目を助けるためにここまで来てくれたんだよ」
 いいながら真吾は第一使徒を振り返って器用に片目を瞑ってみせた。
「俺は何もしてねえよ」
 館の悪魔は気が遠くなるほど長い時をこの謎の饗宴に費やしている、得体の知れない存在だ。その悪魔を敵に回しかねない状況だったのに迷うことなく味方をしてくれたのは、真吾が契約を交わしたメシアだからというだけではないはずだ。
「メフィスト2世は、友達を見捨てたりなんか絶対にしないんだよね」
 優しいんだね。毎度のことながらためらうことなく素直に感情を口にする真吾に、メフィスト2世はシルクハットを目深に被ってそっぽを向いた。
「悪魔くん、メフィスト2世、メフィストのおじちゃん、ありがとうだもん! 大好きだもん!」
 ぴょんぴょんと可愛らしく飛び跳ねる百目の小さな手を真吾はそっと握った。懐かしくて温かい感触に、自然と笑みがこぼれる。その隣でメフィスト老がわしはおじちゃんではないわいとぼやいていた。
「僕もみんな大好きだよ。またよろしくね」
 手を取り合って無邪気にはしゃぐ真吾と百目を、お前らガキ過ぎるぜとメフィスト2世は横目で見やる。お前もガキじゃろうがとメフィスト老がいいだしたところで、慌てて真吾は止めに入った。


 人間界の空は拍子抜けするほど穏やかだった。
 学校を欠席していたにも関わらずこっそり家を抜け出した上、丸二日以上帰らなかった真吾は母親にこっぴどく叱られたが、これくらい慣れたものである。母親のお説教を神妙な顔で聞き流しながら、真吾の意識はあの逆五芒星の男へと飛んだ。
 小学校で全児童が一時意識不明になるという前代未聞の事件に「光化学スモッグのせいではないか」「集団ヒステリーでは」などなど様々な憶測が飛び交った。しばらくは人々の口を賑わわせることだろうが、その内話題にものぼらなくなるだろう。
 みんなは知らないから。真吾は目を伏せた。みんなは知らない。あれは子供たちの生命エネルギー、魂の力を奪っていったのだということを。あの後ヨナルデパズトーリの力を借りて導き出したその事実に、真吾は愕然とした。真吾の結界内にいた子供たちは辛うじて難を逃れたはずだが、救えたのはせいぜい十数人程度だ。他の子供たちもとりあえず今の所はまだ問題ない。だが近い将来異変に気づき始めるだろう。それは数週間後か、数ヶ月後か、数年後かは分からないが。
 そうなる前に、再び十二使徒の力を借りて何としてでもみんなを助けてみせる。
 だが、教師と思われたあの男、結局正体は分からず仕舞いだったのだ。本物の代理教員は自宅で意識不明の状態で発見されたため、真吾は再び振り出しに戻ることとなった。
「真吾、分かったらもう部屋に戻って勉強でもしてなさい」
 待ってましたとばかりに階段を駆け上がっていく真吾の背中を、母親の静かにしなさいという声が追いかけた。

 あの逆五芒星の男も気になるが、それよりもある意味厄介なのがあの館の悪魔だ。
「いつか、僕の力を貸してほしい、か……」
 あの「悪魔くん」ならば、ここで一つ恩を売っておくのも悪くはない。館の悪魔はそういって笑いあっさり百目を解放してくれた上、真吾たちを人間界へと通じる扉まで送ってくれたのだ。
 何しろ悪魔との取引だ。一体いつ何を要求されることやら。真吾は気が重かった。
 まあ、何とかなるかな。何とかするしかないな。真吾はこつんと壁に寄りかかると、座布団を枕にすやすやと眠る百目を眺めた。もごもごと何か寝言をいいながら寝返りをうっている。また、こんな日が来るなんてな。まだ現実とは思えない。
 胃袋を刺激する香りに、真吾は顔を上げた。ベランダから長く伸びた影がゆらゆらと蜃気楼のように動いている。
「何だ、百目は眠っちまったのか。のびるといけねえから、俺が二人前食うか。ほらよ、これ悪魔くんのぶん」
 ひょいと渡されたラーメンの熱さに、これは紛れもない現実だ、僕は悪魔くんで、メフィスト2世と百目は僕の夢の中だけでなく実体を持ってここにいるんだと真吾は感じる。
「百目を起こしてあげようよ」
「ええ、可哀想だろ」
「そんなこといって、二人前食べたいだけだろ」
 ばれたか、あっけらかんとメフィスト2世は笑い、眠そうに目を擦りながら起きた百目が、ラーメンだもん! と目を輝かせて走り寄ってくる。真吾は満ち足りた気分でそれを眺めていた。

 僕は、これから何年経っても、今のこの瞬間の幸せな気持ちをきっと忘れないだろうな。悲しい時や孤独な時、僕はこの光景を色鮮やかに思い出すだろう。この思い出はきっと僕の心に強烈に焼きついて離れない。僕は今、分不相応なくらい幸せだ。こんな日がずっとずっと続けばいいのに。でもメシアであるはずの僕がこう望むのはおかしいかもしれない。だって、今日と同じ日が続くことを願うということは、つまり今が僕にとっての一番の理想ということになる。僕の理想は人間と悪魔、誰もが平和に暮らせる、争いのないユートピアのはずだ。でも今の僕は泣きたくなるくらい幸せで、他にはもう何もいらないくらいだ。僕は変革を望んでいないのか? 僕はメシアじゃなかったのか? 今更こんなこと、一体誰に聞けばいいんだ?
 心の奥底に生まれた小さな黒いかげりに、真吾は戸惑っていた。

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2007/11/04

悪魔くんの迷いはまだちょっと続く感じです。
やっと百目とも合流できていつもの仲良し三人組になった!