ユートピア「8話 断罪の間」


「メフィスト2世。百億円貸して」
「……いいけどよ。別の方法を考えたほうがよくないか?」
 頼むよお願いと手を合わせる真吾だったが、やっぱりそうだよねえと頷く。ある程度の時間稼ぎをすることはできるが、断罪そのものを止められるわけではないのだ。
「いずれにしても早くしたほうがいいぞ。皆殺気立っておるからな」
 メフィスト老の言葉に真吾は下唇を軽く噛み、居心地が悪そうに身をすくめた。断罪の間で縛られた百目の姿を確認したはいいが、真吾に気づいた百目が嬉しそうに「悪魔くん!」と叫んだものだから、たちまち真吾の正体が悪魔たちの知るところとなってしまったのだ。あの少年が東嶽大帝を倒した救世主「悪魔くん」なのかと四方八方から悪魔たちの好奇の視線に晒され、真吾はいたたまれなかった。
 一万年に一人地上に現れるという「悪魔くん」がメフィスト家の悪魔二人とこんな場所にいるのだから、それは確かに珍しい光景だろう。僕だってもし部外者だったら興味を持つよ。真吾はどこか人事のように思う。急激に変化していく日常に、真吾の心と身体はまだついていけなかった。

「決して汚してはならない尊い悪魔の果樹園じゃ。魔界のある特定の地にしか育たず、実をつけるのは千年に一度だけ。皆が怒るのも無理はないわい」
 しょうがない奴だとぼやきながらメフィスト老は腰をとんとん叩いている。
 百目はそんな厄介な場所から盗み食いをしたのか。相変わらずうっかりやさんだなあ。真吾はおびえる百目を安心させるように微笑んでみせた。また面倒を起こしやがってと肩を怒らせるメフィスト2世を真吾はやんわりなだめる。
「百目だって悪気があったわけじゃないよ。それより、どうやって助けるか一緒に考えよう」

 ふいに騒がしかった広間が水を打ったように静まり返った。館の悪魔が姿を現したのだ。不思議な光沢を放つ橙色の衣を纏ったその悪魔は、迷わず真吾を見つけると面白そうに喉を鳴らした。尖った耳の上から山羊のような角が生えていて、皺のないつるりとした顔と底なしの深い闇をたたえた目のせいで幼子にも老人にも見えた。やたらと力を誇示するようなタイプではなさそうだったが、妙な威圧感を真吾は感じる。
「僕、話をしてみるよ」
 第一使徒とその父親に告げると、真吾は幾分緊張した面持ちで歩を進めた。気をつけろよ、メフィスト2世の言葉を背に受け、真吾は力強い目で前を見据える。悪魔たちがさあっと道を開け、真吾と館の悪魔の間を遮るものは何もなくなった。威圧感がますます強くなり、耳の奥で脈打つ血管の音がうるさいくらいだった。落ち着くんだ、大丈夫だ、僕は一人じゃない。
「君が悪魔くんか」
 地の底から響くような低い低い声だった。真吾はひるむことなく答える。
「そうです。少なくとも、みんなはそう呼んでいます」
「いい答えだな。想像していたよりずっと幼い、可愛らしい坊やではないか。メフィスト家の悪魔を引き連れていることから見ても、どうやら本物のようだな。高位の悪魔を二人も従え、私の屋敷で何をするつもりだ。事と次第によっては血を見ることになるぞ」
 背後でメフィスト2世がさっと身構えるのを感じ、真吾も無意識のうちに身体を硬くする。
 館の悪魔が静かに右手を持ち上げた。長く弧を描く爪が真吾を指すと、ふわりと身体が宙に浮く。館の悪魔の得体の知れない奇妙な魔力が全身に絡みつき、真吾は総毛立った。気持ちが悪い、頭の中をめちゃくちゃにかき回されているみたいだ。真吾の中の幼い子供の部分が恐怖を訴えてきたが、彼はいつものようにそれを無視した。今はそれどころじゃない、黙るんだ。後で好きなだけ泣いていい、怖がっていいから、今はしっかりしないと駄目だ。
「悪魔くんに何しやがる!」
「待つんだ、メフィスト2世!」
 ステッキを振りかざしたメフィスト2世を、間髪入れずに真吾は制止する。かつて幾度も繰り返された温和な真吾のお馴染みの言葉に、メフィスト2世はしぶしぶステッキを下ろした。
「どうか僕の話を聞いてください、館の悪魔。僕は、大切な友達の百目を助けたいだけなんです。許可もなくあなたの屋敷に侵入してしまったことは謝ります。どうか、百目を許してほしいんです。百目の代わりに、僕にできることなら償いはします」
 真吾は落ち着いた声で館の悪魔に語りかける。命の危険にさらされているとはとても思えない、穏やかで心に染み入るような声だった。ソロモンの笛があったなら直接館の悪魔の心に語りかけているところだったが、今はまだない。だから真吾はその身一つで挑むしかなかった。ここは試練の間でもなんでもない、だからソロモンの笛も見えない学校も真吾を助けてはくれないだろう。今真吾が対峙している悪魔は、この場においては決して悪ではなく理にかなった当然の裁きをしようとしているだけなのだから。だからこれは真吾らしからぬ大胆な賭けだった。救世主としての真吾は本来もっと慎重なはずだった。だが真吾は、今まで何度も逆境を切り開いてきた自分の力と強運と運命を信じた。
 館の悪魔はにいっと唇の端を持ち上げた。
「よかろう」
 宙に捕らえられていた真吾の身体がそっと下ろされる。背後に控えていたメフィスト2世が真吾を素早く受け止めてくれた。
「何かおかしいぜ、悪魔くん。欲深い悪魔がこんなに気前がいい訳ねえよ」
 メフィスト2世の言葉に、真吾は内心こっそり同意する。
「おやおや、ご挨拶だな」
 館の悪魔は大げさに眉を顰めてみせた。
「これはすまない。わしの息子は見ての通りまだまだ子供じゃ。ここはわしに免じて大目に見てやってくれんか」
 メフィスト老はシルクハットを軽く持ち上げてみせた。
 けっと面白くなさそうに横を向くメフィスト2世の背中を真吾は軽くぽんと叩くと、再度館の悪魔に向き直った。
「悪いけど、あまり時間がないんです。無条件で解放してくれると思うほど僕は子供じゃありません。単刀直入にいってください」
 悪魔の欲深さについてはよく心得ているつもりだったが、背に腹は代えられない。二人のメフィストが何かいいたそうに真吾を見たが、他に穏便に済ませられる方法が思いつかなかった。僕は甘いのか? 僕はまた過ちを犯そうとしているのか? 分からない。信用してくれているのかメフィスト2世は何もいわない。メフィスト2世にはそんなつもりはないだろうけれど、この決断の責任の全ては僕にあるということになる。
 まるで恐れを知らぬ様子の真吾に、館の悪魔は腹を抱えて笑い出した。ひとしきり大笑いした後、館の悪魔は真吾の曇りのない目を覗き込んだ。
「分かった。では、こうしようか」
 館の悪魔が提案した意外な条件に、真吾は戸惑いながらも受け入れるしかなかった。

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2007/11/01

悪魔くんは勇気があって優しくて賢いけど、全く迷わないわけじゃないし恐怖を感じないわけでもないと思う。悪魔くんとしての真吾は、自分の中の子供らしい(人間らしい)弱さとどうにか折り合いをつけながら決断をしたり、先に進もうとしたりしてるんじゃないかなと思った。と、たまには真面目に語ってみる! 前回ギャグだったけどシリアスに戻れた〜そして連続更新できた!