ユートピア「10話 迷いの中で」


「授業は大丈夫なのか」
「いいよ。さぼる」
 教室の窓から様子を窺っていたメフィスト2世の姿に気づき、真吾は「先生、僕お腹が痛いです」今まで散々繰り返した言い訳を使った。
 僕、もう良い子じゃないな。
 真吾は自分でも、どちらかといえば優等生タイプに属するだろうと自覚していたが、あの初めての悪魔召還以来すべてが変わってしまった。
 でも今は一々迷っている場合じゃない。僕はこの世界にユートピアを造りたい、そう思っていたはずだ。だからそのためなら、僕自身の人生なんて些細なことだ。違うだろうか?
「今の所は問題ないみたいだな」
 真吾は頷き、青々と茂った芝生にあぐらをかいているメフィスト2世の隣に腰を下ろした。
 あの逆五芒星の男は人間のはずだ。少なくとも、真吾が最後にあの男を見た時点では。彼は真吾のようにメシアとしての特殊な魔力を内に秘めているわけではないし、ファウスト博士から直に知識を得たわけでもない。足りない魔力を補うため男は人々から髪を奪い、町を丸ごと使って巨大な逆五芒星を描いた。そして、恐らく本当に偶然の産物なのだろう、男は「何か」を完成させた。その何かの正体はまだ分からない。だが、奪い取った子供たちの魂の力は膨大なものだ。男がそれを悪用したら一体どうなるか。
 そして、恐らく。
「メフィスト2世。本当ならあの逆五芒星は完成するはずがなかったんだ。なのにあれが発動したのは、たぶん僕のせいだ。僕はこの町で何度も君たち十二使徒を召喚し、大きな魔術も使った。そのせいで異界との間の壁が薄くなっていたんだと思う。魔が干渉しやすい土壌を、僕自身の手で作ってしまっていたんだ」
 魔物たちは学校中にあふれ返っていた。術の中心にいたあの男はどうなったんだろう。もしかしたら、彼は。

「僕さ、思うんだ」
 真吾の奇妙なほど穏やかな声に、メフィスト2世はぴくりと眉を上げた。
「ひょっとしたら、あの人、今どうしたらいいのか分からなくて困っているかもしれないって。だってそうだろう、今まで戦ってきた相手と違って、あの人は人間なんだよ。一時的に力を得られて喜んでいるかもしれないけど、何百人分もの子供たちの強い魂の力を、ただの人間が上手く使えるわけないよ。彼は今苦しいんじゃないかな。そう思うと僕、あの人がたまらなく可哀想なんだ」
 しばし沈黙が流れた。
「なあ、悪魔くん」
 メフィスト2世は何かをいいかけ、だが言葉にならずに押し黙り、真吾は再び口を開く。
「十二使徒の力を束ねて六芒星を造るあの瞬間、僕の身体の細胞一つ一つまで力がみなぎって、弾けてしまいそうになるんだ。胸が燃えるように熱くて、破裂してしまいそうになるけど、それでも耐えられるのはみんなの心が僕に流れ込んでくるからだ。僕を支えて励ましてくれる、みんなの魂の声があるから僕は六芒星の膨大な力を操ることができるんだ。でもあの人は違う。大切にしていた髪を奪われた悲しみや憎悪、子供たちの苦悶の力、そんなものをその身に受けて平気でいられるわけないよ」
 どこからかやって来た蝶が真吾の肩にふわりと止まった。
 しばらくお互い何もいわなかった。先に沈黙を破ったのはメフィスト2世だった。
「ならどうする。放っておくのか」
「僕は……あの人を助けてあげたいんだ。でもどうしたらいいのか分からない。あの人の居所も掴めない。十二使徒が、僕らが動いたらいたずらにあの人の中にあるエネルギーを刺激して暴走させてしまうんじゃないかと心配なんだ」
 メフィスト2世は小さくため息をついた。
「助けたいなら止めてやれ、悪魔くん。いや、メシア。メシアなら、一時の苦しみよりも心を救ってやれよ。まだ間に合えばの話だがな。もし手遅れだったなら、魂を救ってやればいい。その時は俺を呼べ。俺がやってやるよ」
 真吾は急に表情の乏しくなったメフィスト2世をまじまじと見つめた。聞きたくなかった。何のことだか分からない振りをしていたかった。そんなことも分からない子供でいたかった。だが真吾は口を開いた。どうして僕はメシアなんだろうという自分自身の戸惑いの声が頭の片隅をよぎり、すぐに消えた。
「殺すってこと?」
 メフィスト2世は一瞬すっと目を閉じ、すぐにまた開いた。
「使徒とはそうやって使うもんだぜ。今までも止むを得ない時はそうして来たはずだ。そうだろ、真吾」
 真吾は言葉を詰まらせた。
 メフィスト2世はふっと表情を和らげると、じゃあなまた今夜邪魔するぜと言い残し青く澄んだ空に消えていった。真吾は呼び止めることもまたねということも出来ず、黒いマントが豆粒のように小さくなるまで見送っていた。

 どうしてメフィスト2世は、あの時僕を「悪魔くん」ではなく「真吾」と呼んだんだろう。
 授業に戻る気にもなれず、真吾は風に押されてぐんぐん形を変える雲をぼんやり眺めながら考え込んでいた。



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2007/11/09

よっぽど信頼関係がないとできないし言えないようなことでも、何でもないことのようにやってのけるメフィスト2世っていいなと思う! ちょっと切ない流れになってしまったけど続くです。