ユートピア「21話 ヴァルプルギスの夜 2」Walpurgisnacht 2


 夕闇は徐々に膨れ上がり、町を覆いつつあった。黄昏時のゴスラーの町で、人々は悲鳴を上げながら逃げ惑っている。鎧戸は固く閉ざされ、瞬く間に通りから人間の姿が消えていく。永遠に続くかと思われた平穏は一瞬で崩れ去り、いまや生ける屍が生者の町を我が物顔で闊歩している。真吾は素早く行動に移った。
「みんなを呼び戻す」
 第一、第六使徒に早口でそれだけ告げると、真吾は裏道に入って魔法陣を描いた。その隣でメフィスト2世は死出のメロディーを奏で、生ける屍たちはあるべき姿へと戻っていく。
「くそ、数が多すぎる」
 毒づくメフィスト2世に、真吾は頷いた。
「そうだね、元を断たないとだめだ」
 言いながら真吾は赤紫の雲が広がる空を見上げる。遥か向こうには濃い霧に包まれたブロッケン山があった。瘴気はあの山から湧いている。

 集まった仲間たちに、真吾は矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「鳥乙女とこうもり猫は逃げ遅れた人がいないか空から確認してくれ。幽子は招魔鏡でこの町をくまなく照らしてほしい。何か見つかったら豆幽霊を寄こしてくれ。妖虎とユルグは幽子の護衛に当たってほしい。僕とメフィスト2世、百目はブロッケン山を登る」
 このまま行かせてしまうのがなんだかたまらなくて、真吾はとっさに付け加えた。
「それから……無理はしなくていい。危険だと思ったら僕を呼んで。君たちのほうが大切だから」
 二手に分かれた使徒たちを見送り、真吾は歩き出した。右手にはメフィスト2世が、左手には百目がいる。大丈夫だ、きっと上手くいく。

 黒い森に足を踏み入れ、緩やかな傾斜の小道を登っていくと、木々の隙間から教会と思しき尖塔が見えた。近づくにつれ、その全貌が見えてくる。ドーム状の入り口の扉は半開きになっていて、ぎいぎいと耳障りな音を立てていた。
「入ってみよう」
 真吾はそう宣言すると、返事も待たずに扉を押した。やはり教会のようで、入ってすぐのところに礼拝堂があった。正面の壁には紋章を抱えた天使が描かれている。十字に葡萄の蔦が絡みついたデザインの紋章を、真吾は興味深げに眺めた。美しいステンドグラスから投げかけられる柔らかい夕方の光のなか、その紋章はひときわ輝いていた。
「きれいなところだもん」
 物珍しそうに見まわす百目に、気をつけろよと言いながら真吾は更に歩を進めた。
 突然強く腕を引かれて振り返ると、メフィスト2世がステッキを振りかざして魔の言葉を叫ぶところだった。
「魔力、稲妻電撃!」
 ステッキからほとばしった雷撃が前方の古びた扉を直撃した。目の眩む閃光がおさまると、そこには何人もの生ける屍が横たわっていた。背後で勢いよく扉が閉まり、真吾は小さく肩をすくめる。
「……どうする、退路を断たれたぞ」
 メフィスト2世はぼそりと呟いた。真吾は状況を把握すべく礼拝堂をくまなく見渡す。入口付近は生ける屍で埋め尽くされていた。残るは、たった今メフィスト2世が雷撃を放った扉しかない。真吾は左右にいる二人の使徒にだけ聞こえる声で囁いた。
「今から、ワン、ツー、スリー、で走るよ。メフィスト2世を先頭に一気にあのドアをくぐり抜ける。百目は閃光を放って後ろの奴らを足止めしてくれ」
 二人が頷いたのを確認し、真吾はすっと右手の人差し指を立てた。ワン。続いて中指を立てピースサインを作る。ツー。スリーを表す薬指が立つと同時に、真吾と二人の使徒は勢いよく床を蹴って走り出した。
 両開きの扉を突風のように駆け抜けると、古びた床がたわみ耳障りな音を立てる。通路の正面、そして左右にいくつも扉があった。一番手前、右側の扉が軋んだ音と共に開き、朽ちていく肉の臭いが漂ってきた。一瞬遅れて洪水のように湧いて出た死者たちに、真吾は思わず息を止めた。メフィスト2世は真吾の前に立つと叫んだ。
「隠れてろ!」
 真吾はほんの一瞬ためらってから走り出した。僕がいても戦力にはならない。とっさに左手の扉を開けて転がり込むと、そこは書庫と思しき小部屋だった。背後では、百目の閃光とメフィスト2世の魔力が炸裂するけたたましい音が鳴り響いている。後ろ手で扉を閉め、真吾はほうっと息をついた。

 生ける屍はブロッケン山で生み出されている。なんとしても術の源を突き止め、そして止めなければならない。真吾はふと壁にかかっている古びた時計に目をとめた。午後五時四十五分。これから先はどんどん闇の住人の領域になっていく。白の魔術の力は弱まり、邪悪の力が増していくのだ。
 太陽はブロッケン山から姿を消しつつあり、古の魔女の饗宴が始まろうとしている。

 ふいに重いものを引きずるような鈍い音が聞こえてきた。音の感じからして扉の外ではない、中だ。腐臭が狭い室内に充満し、真吾は目を見開いた。
 それから先はあっという間の出来事だった。黒魔術によって穏やかな眠りを破られた悲しい死者がそこにいた。湿った墓土の臭いをまき散らしながら、真吾の脇腹をすくうように掴む。そのまま軽々と抱えあげられ、次の瞬間には固い床に叩きつけられていた。全身に走った衝撃に、真吾は喉の奥で小さく悲鳴を上げた。死者の青白い唇が大きく開き、黄ばんだ犬歯がむき出しになった。今夜の夕食にでもするつもりなのか、生ける屍は獣のような咆哮を上げながら真吾の喉元に食らいつこうとしていた。
「離せ!」
 真吾は必死に身をよじって死者の腹を蹴り上げたが、当然たいしたダメージは与えられない。メフィスト2世と百目が来るまでとても持ちこたえられそうになかった。無意識のうちに真吾の手は床を這いまわり、なにか口を塞げるものはないだろうかと探していた。最初に掴んだ棒きれを力任せに死者の口に押し込むと、沸騰したヤカンに水をかけたような、じゅっという音がした。死者は雷に打たれたようにのけぞると、小さく唇を動かしてそれきり動かなくなった。
 この程度で倒せたとはとても思えない。急にどうしたんだ?
 ずっしりと重い死体をどうにか押しのけ、真吾はおそるおそる立ち上がった。とっさに突き立てた棒を改めて観察し、真吾は驚いた。それは長さ三十センチほどの十字架だった。

 真吾はそっと死者を横たえ、胸の前で両腕を交差させてやった。襟についている紋章に真吾ははっとした。十字に葡萄の蔦が絡みついたこの図柄、この人はこの教会の信徒だったんだ。
 真吾はその場にひざまずくと、死者のために詩篇二十三を唱えた。たとえ死の影の谷を歩もうとも……。僕は信徒じゃないけど、いまこの場に漂っているかもしれない魂が少しでも安らぐのならなんでもよかった。
 たぶん、十字架そのものに力があったわけじゃない。この人は生前カトリックだった、だから十字架に畏敬の念を持っている。この人は自分が邪悪な存在にさせられたことを本能、魂のレベルで感じていたのかもしれない。推測でしかないけど、自分の力で術をはねのけ自らの魂を解放したんだ。生前の信仰がこの人を救い、結果的に僕も助かった。
 自分でもぎょっとするほど強い怒りが胸の奥で膨れ上がっていくのを感じ、真吾はいらいらと前髪をかき上げる。滅多に感じることのない純粋な怒りだった。これ以上死者を汚すことはこの僕が絶対に許さない。

 決意を新たにする真吾の上に、長い影が重なった。真吾は振り向いた。
 くそ、もう一体いたのか。
 生ける屍は手ぶらではなかった。右手に握られた鎌は鈍い光を放ち、ぎこちない動作で真吾に振り下ろされようとしていた。
 まさかここでゲームオーバーなのか? 僕にはまだ、やらなくちゃいけないことがあるのに。
 避けることも防御することもできず、真吾はかたく目を閉じた。


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2008/2/12

やっぱり悪魔くんはかっこよくスリリングに冒険ですよね!
趣味丸出しですがそんな悪魔くんが好きです。