ユートピア「20話 ヴァルプルギスの夜 1」Walpurgisnacht 1


 出発の朝、真吾は一度帰宅した。ソロモンの笛と魔法の風呂敷をポケットに忍ばせ、やり残したことはないだろうかと部屋を見渡す。必要なものはすでに用意してある。あとはサシペレレがうまくやってくれれば問題はない。
 すっかり非日常生活に逆戻りだ。でも新しい冒険はやっぱりわくわくするな、そんな風に感じるなんてちょっと不謹慎かもしれないけど。真吾は小さく笑い、静まり返った家の中を感慨深げに歩き回った。場合によってはしばらく戻れないかもしれない。
 僕は死ぬかもしれない。志半ばで、誰にも看取られることなく。現実が重く圧し掛かり、真吾は台所の入り口で足を止めた。
 最近の僕はあまり勇敢じゃなかった。いま僕は大切な仲間に支えられ、よろめきながらも前に進もうとしている。
「真吾」
 背中から掛けられた言葉に真吾はぎくりと身体を震わせる。
「なあに、母さん」
 エプロンを後ろ手で結びながら母は言う、朝食はどうするのとか、また変な遊びに夢中になってだとか。真吾は素直に聞いている素振りを見せながら家を出るタイミングを見計らっていた。
「外はまだ寒いでしょ、上着を持っていくのよ」
「うん」

 いつものお小言が終わってほっとしていると、ふいに真吾の頬を母の手が包んだ。額に掛かるくせ毛をそっと指で払われる。
 どう反応していいのかわからなくて、真吾はじっとされるがままになっていた。妹に見られたらどうしよう、恥ずかしいじゃないか。母の温かい手が真吾の額を優しく撫で、その心地よさに思わず目を閉じる。まるで今生の別れのようで怖かった。人の親として理屈ではない何かを感じ取ったんだろうか。
 本当いうと僕は怖いんだ、母さん。でも僕は行く。そして必ず帰ってくるからね。

 十二使徒は真吾の登場を待ちわびていた。ひとまず待機することになったヨナルデパズトーリ、ピクシー、象人と、身代りになってくれるサシペレレに大きく手を振ってから真吾は家獣に乗り込んだ。
「見られるとまずい、急いで上昇するんだ」
 家獣は咆哮を上げると空高く舞い上がった。急激な上昇に真吾は大きくよろめいた。もっとゆっくり飛ぶようにいえばよかったな、家獣に乗るのも半年ぶりですっかり勘が鈍っているみたいだ。激しい気圧の変化に目はかすむし息苦しくてたまらない。そんな真吾とは打って変わって仲間の悪魔たちは久しぶりの遠征にはしゃいでいる。悪魔はやっぱり頑丈にできてるんだな。温かい家獣の内壁にもたれかかりながら真吾はぼんやり思う。

 心地よい振動にうとうとしていると、メフィスト2世に揺り起こされた。
「おい、そろそろ着くぜ。あれがブロッケン山だ」
 真吾は目をこすりながら外を見た。
「霧がすごいね」
「ああ、一年の大半は霧に包まれているんだ、あの山は」
 メフィスト2世の説明に、真吾はへえと頷く。
「終わったらみんなにおみやげ買っていくんだもん」
 はりきる百目に、鳥乙女と幽子は優しく微笑んでいる。そうこうしているうちに鬱蒼と茂る黒い森が近づき、真吾は気を引き締めた。些細なミスが命取りになる、僕は絶対に誰も失ったりしないし、できることなら無傷であの男を捕えてみせる。

 標高千百四十二メートル、堂々たるブロッケン山麓に降り立ち、悲鳴を上げる人々を百目の魔力で落ち着かせ、真吾は辺りを見渡した。家獣が森の中に姿を消すと、人々は何事もなかったかのように思い思いに歩き始める。
「今回は三つのグループに分かれて調査する。第一グループはメフィスト2世と百目、そして僕。第二グループは鳥乙女とこうもり猫、第三グループは妖虎、幽子、ユルグだ。一通り探索して、日暮れにまたこの場所で落ち合おう。あとの指示はその時に出す」
 真吾の指示に十二使徒はブロッケン山麓の町々へ散っていった。

 メフィスト2世と百目を従え崩れかかった石垣を乗り越えると、歴史の重みを感じさせる優美なゴスラーの町並みを一望することができた。
 大通りはかなりの人混みで、真吾は他の使徒たちが心配になった。ヴァルプルギスの夜を控え、露店が所狭しと並んでいる。道行く人に声をかけることもなくのんびり座っている露店主、魔女や悪魔の凝った衣装に身を包んだ人々。大通りに面する家々の窓には滑稽にデフォルメされた魔女の人形がぶら下がり、時折吹く風に押されて静かに揺れていた。やけに存在感のある空をしばらく見上げ、真吾はその理由に気づいた。電線も電柱もないからだ。
「なんだか、観光に来てるみたいだね」
 思わず真吾は呟き、メフィスト2世はそうだなと同意する。百目を見ると、口いっぱいに頬張った焼き菓子をもぐもぐさせていた。
 柔らかい日差しが町を包み込み、かがり火の準備をしていると思しき人々が木材や固形燃料を運んでいた。魔女の格好をした愛くるしい女の子たちが小さな箒を手にくすくす笑いながら通りを駆け抜けていく。これぞ平和の見本とでもいうべき光景だった。

 だけど、何かがおかしい。首の後ろの産毛がざわめき、悪寒が身体を駆け巡る。今まで何度もこの直観に助けられてきたんだ、気をつけろ。真吾は慎重に辺りを観察した。だが真吾の緊張に反して、町は穏やかで邪悪の入り込む余地などないように見えた。
 一度みんなと合流すべきだろうか。焦りに身を焦がし始めたとき、それは起こった。
 まず、甲高い悲鳴が上がった。悲鳴交じりの声で早口にまくし立てているシルバーブロンドの老婦人を、人々は戸惑ったように遠巻きに見ている。
「なんていってるんだもん?」
 震えながら腕にしがみついてくる百目にどう説明したものかと真吾は思う。断片的なドイツ語を聞きとるのに少し苦労したが、要約するとこうだった。
 死んだ私の息子が歩いている。
 老婦人の指さす先には、妙にゆっくりとした足取りで通りを歩いている青年がいた。全身土まみれで、ダークグレイの目だけがらんらんと輝いている。初めて歩き方を覚えた幼児のようなおぼつかない足取りだった。どこからともなくキャベツが腐ったような嫌な臭いが漂ってきた。真吾は素早く通りに視線を走らせる。あの青年だけではなかった。仮装をした人々に紛れていてとっさに見分けがつかなかったが、祭に浮かれた大通りにこの世ならざる者たちがぞろぞろと集まりつつあった。
 死者が歩いている。
 比喩でもなんでもなく、文字通りの意味だと悟り、真吾は身をこわばらせた。
 ヴァルプルギスの夜はまだ始まったばかりだった。


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2008/2/1

なぜか微妙にホラーテイスト。わたしはホラー好きだけど苦手でもあるかも。どっちだ。
家族とのちょっとしたやりとりとかママに甘えてみる真吾くんとか、かわいいなあって思ったり……。
いつもながら重症です。冒険する悪魔くんが好きです!