ユートピア「19話 正義の勝算」


 見えない学校は無数の部屋が迷路のように入り組んでいて、学校というより城砦のようだ。中でもお気に入りの部屋がひとつあって、真吾はそこを研究室兼寝室代わりに使っていた。今にも崩れ落ちそうな羊皮紙を慎重に広げ、黙々とメモを取る。使っているのはラテン語で、鏡文字だった。異質な自分自身を知られないために、仮に見られたとしても容易には解読されないように、幼いころから気を張り詰めているうちにすっかり習慣となってしまったのだ。
 顔中に退屈と書いてある百目に横から覗きこまれ、真吾は手を止めた。
「悪魔くん、みんなのところに行こうだもん」
 シャツの裾を引っ張られ、真吾は名残惜しそうに書物の山を一瞥してから立ち上がった。
 ファウスト博士は「あとは頼んだぞ、悪魔くん」と言い残してまた温泉にいってしまったし、今は僕がこの見えない学校を管理しなければならない。いくら常人の目には映らないとはいえいつまでも小学校の校庭に置いておくわけにもいかず、十二使徒と力を合わせてひとまず安全と思われる山中まで動かしたのだ。

「本当でやんすよ、悪魔くん」
 こうもり猫は得意げに胸をそらし自分の手柄を披露している。真吾は広げられた地図を見ながらじっと考え込んだ。
 各地へ放ったこうもり猫の使い魔たちの情報は信憑性があり、もっともらしく、調査するに値するように思えた。だからこそ真吾は迷った。
 どう考えても、罠だ。だけど……。
 自分の判断をじっと待っている十二使徒の視線は少し重荷だなと真吾は思う。でも今は目の前の問題に集中するんだ、僕は悪魔くんなんだろ。
 ドイツ中部、ハルツ地方の最高峰ブロッケン山か。真吾の思考は静かに絡み合いながら正しい道筋を求めて動き出した。
 緑の悪魔レラジェはいった。「ゲームをしよう」と。
 逆五芒星の男は笑った。「退屈だから」と。
 真吾は十二使徒を見渡し、十分すぎるほどの間を空けてから口を開いた。修辞学上の効果を狙った無意識の行動だった。
「僕は行ってみようと思う。奴らは必ず接触してくるはずだ。なぜなら、ゲームには舞台が必要だからだ。プレイヤーもね。だから何らかの方法で必ずそれを示すと思う」
 真吾はそこで少し息を継いだ。
「少なくとも、僕ならそうする」
 しばらく誰も口をきかなかった。
「つまり罠か」
 真っ先に沈黙を破ったのは普段は寡黙なユルグだった。
「うん、たぶんね。でもどの道対決は避けられない。だったらこっちから行ってやる。虎の子を捕まえに行こう」
「でも、闇雲に突き進むのは危険よ」
 たしなめるようにいう鳥乙女に、真吾は笑ってみせた。
「大丈夫、おおよその見当はついているから。今日は四月二十五日だろう?」
 十二使徒は訳が分からないという顔で真吾をみた。
「これはメフィスト2世のほうが詳しいかもしれないね。四月三十日の夜、ブロッケン山では何がある?」
 メフィスト2世ははっとしたように真吾に目を向けた。
「ヴァルプルギスの夜か」
 真吾は満足そうに頷いた。
「奴らにとっても、僕らにとっても、まさにうってつけの日さ。なにを企んでいるにしても、この時期、あの場所でなにかが起こるとしたら、この祭りを置いて他にないよ」
 自信たっぷりにいい切る真吾に、十二使徒は安心したようにめいめい話し出した。
 僕の推理は、判断は正しいだろうか? 際限なく湧き出てくる迷いに真吾の胃はきりきりする。だがそれを悟られぬよう、これで間違いはないんだという振りをした。僕は自信に満ちあふれた指揮官でいたほうがいい、例え見せかけだけであっても、臆面もない嘘であっても。
「じゃが百目の魔力にも限界がある、人目につかぬよう調査するにしても人の多い祭りの中では効率が悪かろう」
 妖虎の指摘に、真吾は抜かりなく答えた。
「その点は心配ないよ。ヴァルプルギスの祭りでは、人間たちは魔女や悪魔に扮して町を練り歩くんだ。だから君たちはそのままの姿で行動できる。悪いけどサシペレレは僕の身代りになってくれないかな。あまり長く家を空けるわけにはいかないから。メフィスト2世、百目、ユルグ、鳥乙女、こうもり猫、妖虎、幽子は僕と一緒に家獣に乗ってドイツへ、残りのメンバーは何かあったときのために見えない学校で待機していてくれ」

 出発に向け見えない学校の最深部にある自室で準備をしていると、ユルグが現れた。
「びっくりした。こんな夜遅くに、何かあったの?」
 いつものように両目はゆるく伏せられたままで、表情を読み取ることはできない。ユルグは沈黙を守ったまま目を開いた。深い知性と静寂をたたえた瞳が真吾を鋭く射抜く。
「ひとつ聞きたい。勝算はあるのか?」
 思いがけない言葉に、真吾は戸惑った。真吾が黙っていると、ユルグは更に続けた。
「俺は悪魔くんの使徒で、仲間だ。もちろん共に闘うとも。だが負け戦だけはごめんだ。確かに正義は悪魔くんにあるだろう、だが常に正義が勝つとは限らない。東嶽大帝に勝てたのは奇跡みたいなもんだ。魔界の大半の悪魔を敵に回していたにもかかわらず、俺たちは一人も欠けることなく生き延びた。あの時、時代は正義を、生の道を、悪魔くんを求めていた。世界は滅びを欲していなかった、だから悪魔くんは勝利した、俺はそう思うぜ。だが今回はどうだ? あの逆五芒星を作った男は、別に世界を滅ぼす気なんてないんだろ。平和を愛する者は多いだろう、だが混沌と安易な快楽に喜びを見出すものもまた多い。それは悪魔も人間も同じだ」
 ユルグは一息にそれだけ言うと、再び口を閉ざした。おそらく頭の中で何度も繰り返された言葉なのだろう、いつか真吾にぶつけるために。真吾は俯いた。
 僕は取り返しのつかない過ちを犯した。あの逆五芒星の魔術を見過ごしただけでなく、あと一歩のところまで追いつめたのにみすみす取り逃がした。ユルグが不安に思うのも当然だ。真吾はすっと顔を上げてユルグと目を合わせた。こんな風にユルグと二人で話すのは初めてかもしれない。ほんの数日前の真吾なら、ユルグの言葉に動揺し、十二使徒の不安を更にかき立てたことだろう。だけど今は違う。
「戦力でいうなら、僕らのほうがまだ上だ。僕らは強い、一度は世界を救った身だ、そうだろ? 油断さえしなければ絶対に勝てる。その上さらに奇跡が必要だというなら、僕が起こしてみせるよ」
 真吾の自信に、ユルグは目を瞬かせた。
「わかったよ、悪魔くん。それなら俺も異存はない。がんばれよ、総大将」


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2008/01/23

見えない学校からヴァルプルギスの夜への流れはなんか書くのにも調べるのにも時間かかっちゃって更新が遅くなってしまいました。ユルグが別人とか気にしないでください。かっこいい真吾くんが大好きです! 強気真吾くんにも萌ゆる。