ユートピア「18話 見えない学校」


 突如小学校の校庭に巨大な建造物が現れた。日の光は完全に遮られ、小学校は薄闇に包まれる。急に曇ったなとノートから顔を上げた真吾はぎょっとして鉛筆を取り落とした。
 しばらくぽかんと口を開けて懐かしい学校を眺めていたが、目の錯覚でも白昼夢でもないと分かった真吾の行動は素早かった。真吾は授業を抜け出すコツを小学生にしてすでに熟知していた。屍がごろごろ転がっている腐臭漂う戦場、おぞましい血の世界を記憶のよどみから呼び起こせばいい、実体験なのだから簡単だ。あとは自分の顔が十分青ざめたであろう頃合いを見計らってこう言えばいい。
「先生、ぼく気持ちが悪いです」

 校庭の木陰からそっと様子を窺い、一瞬ためらったが構うもんかと一気に見えない階段を駆け上がった。チャイムの音を心待ちにしている生徒がぼんやり窓の外を眺めているかもしれないけれど、いざとなったら百目に頼めばいい。
 見えない学校の内部はいつも不思議と暖かく、真吾たちを包んでくれている。館の悪魔の屋敷とは対照的だ。壁に手を当てると微かに脈打つ鼓動が感じられる。この学校は生きている、心があるのだ。
「僕に何かいいたいのか?」
 真吾はゆっくりと歩を進め、見えない学校の心臓部、六芒星の小部屋で大きく深呼吸をする。深い森の中にいるかのような清浄な空気に、真吾は満足げに微笑んだ。天井には丸い穴が開いていて、見えない学校の生命玉と繋がっている。懐かしい、何もかもあの時のままだ。ぶらぶらと学校内を散策しながら、さてどうしたものかと思う。初めて悪魔召喚に成功した広間で真吾は足を止めた。
 全てはここから始まった。僕はこの世に幸せをもたらしたかった。僕のやり方は決して最善ではない、これからもそうだろう、でもそれでいいんだ。かつて世界を救った僕、そしてせっかくの平和を自らの判断ミスで壊した僕、みんな同じ僕なんだ。僕は完璧じゃないし聖人でもない、だけどそれでも僕は悪魔くんで、自分の心のままに行動することはできる。

 悪魔との約束は絶対だからな。メフィスト2世の言葉が脳裏をかすめ、真吾は右の手のひらを見た。ほとんど消えかかっている小さな傷跡は真吾の胸を熱くした。もう完全に消えているかもしれないが、メフィスト2世にも同じ傷があるはずだ。僕は自分の幸せも考えなければならない。そうでなければメフィスト2世に、僕を信じて戦ってくれたみんなに申し訳が立たない。
 真吾はマントをはおりポケットからペンを取り出すと、床に大きな魔法陣を描いた。初めての召喚のように心が踊った。僕はもう一度大切な十二使徒と歩き始めたい、それにはこの場所こそふさわしい。見えない学校は僕の心に応えてここまで来てくれたんだろうか。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。集え、我が友よ!」
 真吾は魔力を一点に集中させた。初めてこの手で悪魔を呼び出した時の胸の高鳴りが蘇る。呼びかけに応え全ての十二使徒が集まり、真吾は幸福感に泣きそうになった。

 幽子が歓声をあげ、その周りで豆幽霊がざわざわと優しい歌を囁いている。豊かな髭を指先で撫でながら、妖虎は穏やかに童女の姿をした悪魔を見守っている。狭い円の中で家獣と象人に跳ね飛ばされたこうもり猫が、ちょっとはダイエットしろよと文句をいっていた。バランスよく足を揃えてポーズを決めたサシペレレがやあと陽気に片手を上げ、真吾も手をひらひらさせて挨拶を返す。
 ヨナルデパズトーリは両手いっぱいに抱えた本を床に下ろし、ピクシーを肩に乗せた鳥乙女は艶やかに笑っている。ユルグは相変わらずクールで、隣でころころと笑っている百目をちらりと横目でみてから再び瞳を閉ざした。
「何だ、脅かすなよ。敵かと思ったじゃねえか。何で見えない学校がここにあるんだよ」
 メフィスト2世の言葉に、真吾は肩をすくめる。
「分からない。急に現れたんだ」
 唐突にパイプオルガンの音色が響き渡り、真吾は辺りを見回した。
「久しぶりじゃのう、悪魔くん」
「ファウスト博士……」
 どうして今まで連絡をくれなかったのかとか、あの時僕たちを一度引き離したのはなぜなのかとか、そんな疑問が喉元まで出掛かったが、真吾はそれをすんでのところで飲み込んだ。それはもう分かっているじゃないか。
「お久しぶりです、ファウスト博士。博士が見えない学校をここまで導いてくれたんですね」
「いいや、見えない学校が悪魔くんの元に行くことを望んだからじゃよ。わしはその手助けをしたに過ぎん」
 そういいながらファウスト博士は懐から小箱を取り出し、真吾に差し出した。軋んだ音を立てて蓋が開き、燦然と輝くソロモンの笛に真吾は息を呑んだ。ああ、あの時と同じだ。百目に導かれ魔界に赴き、この不思議な学校で悪魔くんと認められ、ソロモンの笛を授かったあの時と。真吾はおっかなびっくり手を伸ばした。触れたら消えてしまいそうな、まだ夢の続きを見ているような感じがしたが、手にとって首にかけてみても笛は依然として実体を保っていた。

 真吾はそっとソロモンの笛を唇に当て、懐かしい旋律を奏で始めた。高く、低く、近くにいる仲間へ、遠くにいる誰かへ、真吾は魂の旋律を奏でる。十二使徒は静かに真吾を見守ってくれている。ひとしきり吹いてから、真吾は仲間たちに向き直り声を張り上げた。
「みんな、聞いてくれ。これからの戦いはあの頃みたいに世界を破滅から救うとか、そんな大げさなものじゃない。ほとんど人間同士の小競り合い、僕自身の個人的な戦いだ。それでもよければ一緒に戦ってほしいんだ、強制はしない」
 真吾は十二使徒を見つめ、答えを待った。もっと気の利いたことをいいたかったけれど、映画のようにはいかなかった。
 そして結果どうなったかというと、真吾は十二使徒にもみくちゃにされた。見損なうなよだとか、そんなこと一々聞くなんて馬鹿にしないでだとか、そんな言葉の奔流に包まれ、真吾はごめんといいながらわたわたと身体をよじった。やっと解放された時には収まりの悪い癖毛が頭のあちこちで跳ね回り、熱気で頬が真っ赤になっていた。
 僕の選択は正しいだろうか? 戦いによって正義はなされるだろうか。答えはまだ見えないけれど、今この瞬間だけは僕はひとりじゃないという幸福に浸っていたい。でもどうしてだろう、嬉しくてたまらないのに、同時になぜだか胸の奥がきりきりと痛むのだ。自分の中の十二使徒の存在が大きすぎて制御できない感情のうねりに心がパンクしてしまいそうになる、誰かを愛するってこういうことなのかもしれないなと真吾は思う。大好きな十二使徒と触れ合う喜び、それを失うことへの不安や切なさ、ときどきその感情が重荷にもなる、それらがごちゃまぜになったような感覚、僕にはまだ、愛なんて分からないと思っていたけど。
 僕自身の力は弱い、ほとんど無力だといってもいい。でも僕には仲間がいる。僕の盾となり、剣となってくれる十二使徒と共に、必要ならなんだってやってみせる。


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2008/01/23

やっと見えない学校とソロモンの笛ゲット! 真吾くんのソロモンの笛に癒されまくりたいです。
今回は18話19話まとめて更新します。