ユートピア「23話 ヴァルプルギスの夜 4」Walpurgisnacht 4


 館の悪魔?
 そうだ、確かに僕はあのとき約束をした。百目を助けてもらう代償として、いつか僕の力を貸すって。だけどよりによってこの日、このタイミングで来るなんて。
「は、初めまして……」
 ひとまず礼儀正しく挨拶を返し、真吾はかたく握りしめていた拳を開いた。手のひらにくっきり残った爪の跡がじくじくと痛み出す。生暖かい瘴気に当てられ、頭がぐらぐらした。無意識のうちに胸元のソロモンの笛に触れると、吐き気がすっと治まり、足の震えもぴたりと止まった。こんなとき真吾は強く感じる。やっぱり僕はメシアでいいんだと。

 時計の針がかちりと進み、真吾は焦りを顔に出さないよう注意を払いながら使者の言葉に耳を傾けた。メフィスト2世と百目は真吾の両脇に静かに控え、成り行きを見守ってくれている。
 館の悪魔より遣わされた使者は、よく通る心地の良い声で語り続ける。背後の闇に蠢く悪魔の軍勢は相変わらず強い瘴気を放ち続けていたが、真吾はもうひるまなかった。
「我が主は魔界で勢力を伸ばしつつある不埒な輩どもを一掃するおつもりです。敵の頭は大した悪魔ではありません、だがなにぶん数が多い。嘆かわしいことです。あのような下品な輩にそそのかされる者のなんと多いことか」
 くそ、厄介だな。魔界の勢力争いなんかに付き合ってる暇はないのに。やっぱり僕は甘かったのかな。でも百目を助けるにはああするしかなかった、僕は……間違ってはいない。

 ヴァルプルギスの夜にかけられた暗黒の術、そして館の悪魔の使者、その軍勢。この状況で僕はいったいどうしたらいいと思う?
 真吾は親友でもある二人の使徒に問いかけたかったが、なんとか踏み止まった。ここでは真吾が十二使徒側の主として振る舞う必要があり、決定権と責任をその身に担っている。重荷だったが、得体の知れない悪魔の前でつけ入る隙を見せるほど真吾は馬鹿ではなかった。いまこの場では、思い悩む弱々しい少年の姿など見せるわけにはいかないのだ。

 使者が話し終えたときには、太陽は完全に姿を消し、ヴァルプルギスの闇が教会をすっぽりと包みこんでいた。話の途中で使者が生み出した光が狭い書庫をこうこうと照らしている。

 館の悪魔は密偵を放っていた。その密偵からあるものを受け取って戻ってくる、想像していたほど困難な要求ではないように思えた。だが……。
「僕にはわかりません」
 真吾の言葉に、使者は穏やかに頷いて先を促した。
「なぜ部外者の、しかも人間の子供でしかない僕に戦局を左右するような重要な役目を?」
「それが理由ですよ。お互い主要な悪魔の情報はすでに握っているのです。必要なのはどの勢力にも属していない者。そこで我が主は、悪魔くんこそ適任だと判断なさったのです」
「決行はいつですか?」
「今夜、日付が変わるその時に奇襲をかけます。その混乱に乗じて潜り込んでください」
 真吾は唇を噛みしめた。何気ない風を装って時計をちらりとみやる。午後七時十五分。もうあと五時間弱しかない。
 メフィスト2世が気遣わしげな視線を投げかけてきたが、真吾はそれに応える余裕がなかった。
 断ることは論外だった。館の悪魔の軍勢と一戦交えることにでもなったら、この状況ではとても勝ち目がない。メフィスト2世は強いし、上手くいけば活路を開けるかもしれないが、そんな危険は冒したくなかった。それに真吾は確かに約束をしたし、使者は礼儀正しい。ここで逃げたら僕は大嘘つきの礼儀知らずの腑抜けになる。
 真吾は用心深く言った。
「少し時間をくれませんか」
「我が主は予定の変更がお嫌いです。約束を反故にするつもりならばそれもよいでしょう、仕方ありません。ただし、あなたの第六使徒の身柄は引き渡して頂きます。それが道理というものでしょう」
 不安そうにマントにしがみついてきた百目の手を軽く叩き安心させてやりながらも、真吾は内心気が滅入っていた。
 確かにその通り、使者の言葉は正しい。くそ、選択肢なんてはじめからないも同然なんだ。ヴァルプルギスの夜を乗り切ることで手一杯のいま、僕にできることは限られている。僕が不在の間に逆五芒星の男は見えない学校を狙うかもしれない。でも僕にはどうすることもできない、ただ一刻も早くヴァルプルギスの闇を払い、日本に戻るしかないんだ。
 そこまで考え、真吾の頭に電流のようにあることが閃いた。頬にうっすらと赤みが差し、瞳に英知のきらめきが宿る。
 まてよ、上手くするとこの状況、使えるかもしれない。いや、利用してみせる。
 知らず知らずのうちに笑みがこぼれた。子供らしい無邪気な、だが自信に満ちあふれた表情を見せる真吾に、使者は不思議そうに首を傾げる。
「わかりました。僕、埋れ木真吾は、館の悪魔に助勢します」
「おいおい、本気かよ、いまはそれどころじゃ……」
 言いかけたメフィスト2世を目で制し、真吾は使者をひたりと見据えた。
「決行までまだ時間があります。僕の要塞、見えない学校を使ってください。あそこなら、どこの空間に行くにも道を開けやすいはずです。僕の使徒を案内につけましょう」
 信じられないという表情で真吾の脇腹を小突いてきたメフィスト2世に力強く微笑んでみせてから、真吾は使者に向き直った。
「いかがでしょうか」
 もちろん、異存はなかった。
 上手く話がまとまり過ぎたことを不審に思っているかもしれないけど、僕の意図に気づいた頃にはなにもかも終わったあとのはずだ。いや、気づきもしないかもしれない。

 真吾は逆五芒星の男を思い浮かべ、心の中で呟いた。
 またなにか仕掛けてくるだろうけど、今回は僕の勝ちだ。僕は怒ってるんだ、自分でも驚くくらい身体中の血が沸き立っている。これ以上なにかするつもりなら、後悔することになるよ。なぜなら、お前たちはみんなを苦しめ、死者を汚し、そして僕を敵に回したからだ。
 真吾の顔に深い憂鬱と歓喜と興奮が入り混じったような奇妙な表情が浮かんだ。ほんの一年前にはなかった顔のひとつだった。東嶽大帝やその配下の悪魔たちと血みどろの戦いを繰り広げてきたのだ、いつまでも小さな男の子のままではいられない。真吾の幼い少年の時代はゆっくりと終わりに向かいつつあった。


22話へ  戻る  24話へ
2008/2/28

あああああとんでも展開に突っ走りまくってます! 真吾くんの葛藤とか、成長とかもテーマのひとつにしたいなって思ってるので、ちょっとだけ大人びた感じを目指してみました。あとあと、真吾くんがかっこよく敵を出し抜いたり知略を尽くしたりとかいいですよね! 大好き。
追記:ちょっとしたミスに気づいたので、メモで自ら突っ込みを入れてみた!