ユートピア「24話 ヴァルプルギスの夜 5」Walpurgisnacht 5


 ユルグと妖虎に案内を頼み、使者を見送り、真吾は目を閉じて深呼吸をする。幽子はこの手の任務には向いていないので残すことにした。ユルグと妖虎の顔にはりついていた困惑を思い出し、真吾は一瞬後悔しかけたがすぐにそれを振り払う。館の悪魔の使者を前にして事情を説明するわけにはいかなかった、仕方がない。やるしかないんだ、僕の方法は穏やかな最善ではないけど、最悪というほどでもない。この極限の状況でとっさに思いついたにしてはまあまあだ。
「そろそろ説明してくれてもいいんじゃねえのか」
 メフィスト2世の言葉に、真吾はほんの数分前まで黒い穴があった辺りを凝視したまま答えた。
「見えない学校が危ないかもしれない。用心に越したことはないだろ?」
 メフィスト2世は眉をひそめた。真吾は慎重に言葉を選ぶ。
「ここに来たことで、僕らの戦力は分散され、見えない学校はいつもより手薄になっている。だから館の悪魔の軍勢を利用させてもらうことにしたんだ。あの軍勢がいれば逆五芒星の男も迂闊に手を出せないはずだよ」
「館の悪魔は曲者だぞ」
 メフィスト2世は呻くように言った。真吾はそんな第一使徒を振り返った。
「仕方なかったんだ。相談もなしにごめん。気が済むなら殴ってもいいよ」
 真吾と第一使徒は無言のまま見つめあった。不穏な空気を感じ取ったのか百目が心配そうに身を縮める。その隣では幽子が大きな目を不安そうに潤ませていた。
 先に目をそらしたのはメフィスト2世だった。
「……別に、怒ってねえよ。悪魔くんが決めたことならそれでいい。俺は信用できない奴に従うほど間抜けじゃないさ」
「本当に? 殴るかと思った」
「俺はそんなに短気じゃねえよ」
「でも君に殴られたことあるような気がするな、一度だけ」
「あれは気絶した奴に水ぶっかけるようなもんだ。敵を前にして悪魔くんがぼやぼやしてるからだぜ。気に入らなきゃやり返せよ」
 メフィスト2世の軽口に応酬しようとした真吾は、ふと真顔になった。
「そう思う?」
「なにがだよ」
「僕は甘いかな。そのせいで余計な犠牲を出しているのかもしれない」
 メフィスト2世はにやりと笑うと、部屋の隅で可愛らしく並んで話をしている百目と幽子に向かって声を張り上げた。
「おい、気をつけろよ。これからはちょっとでもミスしたら悪魔くんにどやされるぜ」
 第四、第六使徒の純粋な瞳に射抜かれ、真吾は第一使徒を軽くにらんだ。
「そういう意味じゃないだろ」
「お、早速怒られちまったぜ」
 百目と幽子が愛らしいくすくす笑いを洩らし、真吾もつられて微笑んだ。まったく、メフィスト2世にはかなわないな。真吾は気を取り直して言った。
「とにかく! あまり時間がないんだ。幽子、奴らの一味を捕らえたと言っていたね。すぐにそこに案内してくれ」
 メフィスト2世の背中に無理やり三人乗り込むと、さすがに重いらしくぶつくさ言っていたが、真吾はあとでラーメンをおごるからとなだめた。

「ここよ。ここにユルグと妖虎がそいつを閉じ込めたの」
 狭い裏通りの突き当たり、赤煉瓦造りのその建物は三階建てで、窓からは大きな魔女の人形がぶら下がっていた。グリーンのビー玉の瞳が真吾たちを見つめている。
 幽子が指し示した扉には簡単な呪がかけられていた。普通の人間なら扉があることすら気付かないだろう。
 部屋の隅には、後ろ手に縛られた男がうつ伏せに転がっていた。真吾は慎重に近づくと、猿轡を外してやった。
「術の源と、それを解く方法を素直に言えば解放してあげるよ」
 男が顔を上げた。濃いブルーの瞳が真吾を捉える。同じ質問を今度はドイツ語でしてみると、男は顔を真っ赤にしてもがきはじめた。慣れない言語に舌が上手く回らなかったが、どうやら通じたらしい。
 暴れまわるたびに男の上腕筋が盛り上がり、嫌な音を立てて縄がきしんだが、それだけだった。あのユルグと妖虎がその程度で外れるようなやわな縛り方をするわけがない。
「さっき君をここに閉じ込めた悪魔はね、僕の使徒……いや、君にもわかりやすく言うと部下なんだ」
 真吾はそこでメフィスト2世にちらりと目をやった。
「彼もそうだ。悪魔なんだよ、高位のね。子供の姿をしているからって馬鹿にすると痛い目をみるよ。僕が命じれば君なんて簡単にバラバラにできる。あの男にそこまで忠義を尽くす義理はないんじゃないかな」
 男はきつく口を結んだまま横を向いた。
「君から聞きださなくたってその気になればわかるけど、僕の手間を省いてくれないか。嫌だというなら僕にも考えがある」
 真吾は淡々と男に告げた。可能な限り低い声を出してはみたが、あまり迫力はないだろうな。
「ガキ相手にびびるかよ」
 男が吐き捨てるように呟いた。まあそうだろうなと真吾は思う。なにしろ僕は見たままの子供だし、メフィスト2世も外見上は僕と同じ年頃の少年にしか見えない。おまけに幽子もどう見ても幼い少女で、百目もまあ似たようなものだ。とはいえ、いまは悠長に説得している時間的余裕はない。ぐずぐずしていたら死人がでるかもしれないんだ。多少手荒な真似をしてでも吐かせる必要があった。
 男は真吾たちを完全に舐めてかかることにしたらしく、歯をむき出しにして口汚く罵り始めた。彼の人格に多大な影響を及ぼしたらしい者たちへの恨みつらみ、自分自身をも含めたすべてに対する憎悪、厭世的な戯言をこれでもかというくらいがなりたてている。逆五芒星の男に利用されたのも頷ける。身勝手な悪口雑言にさすがの真吾も嫌気がさしてきた。男の言葉に素直に従うとしたら、僕は今すぐこの世から消えてなくなるか、大好きなみんなを苦しめて世の中を引っかき回すか、とにかくろくな選択肢がない。

 真吾の横を黒い影が通った。メフィスト2世だった。男の襟首を掴むと、唇の端を持ち上げた。ちらりと覗いた、人間には持ち得ない鋭い二つの牙に、男はわずかに身をすくませる。最後に掃除されたのはいつなのかわからない床は埃まみれで、男が暴れた場所だけ妙にきれいになっていた。真吾はそれで母を思い出し、思わず口元が緩んだ。毎日こんなに泥だらけにして、普通に洗濯しただけじゃ落ちないのよ!
 そういえば、ものすごくお腹が空いたな。今日のご飯なんだったのかな。もう、こんなときに僕なに考えてるんだろう。僕は自分で思っている以上に冷静なのか、それとも混乱しているのか。異国の地で次々と起こる異常な状況のなか、少しでも穏やかな日常と繋がりを持ちたいのかもしれない。それとも僕は参ってるのかな。そんなことないと自分では思うけど。ただ、僕は憤っているんだ、そしてひ弱な子供の自分が少し嫌になっている。ヴァルプルギスの夜を生き延びられたのは偶然の産物にすぎず、あの悲しい死者やレラジェがいなければ僕はとっくに死んでいた。

 男はメフィスト2世の牙と、真吾の場にそぐわない微笑をなにか不吉な前兆と捉えたらしく、落ち着かない様子で視線をあちこちさまよわせている。
 そんな男の襟首を締め上げ、メフィスト2世が苛立ちをにじませた声で言った。
「俺は気が立ってるんだ。八つ裂きにしてやろうか」
 ちょっと脅かしてもいいだろ? メフィスト2世の視線に真吾は頷きかけ、止めた。

 気付いたときには、魔力が宿りかけたメフィスト2世の腕をそっと押さえていた。真吾に促されるままメフィスト2世は男から手を離す。乱暴に床に投げ出された男を、真吾はしばらくなにも言わずに眺めていた。それからおもむろに右の拳を固めると、男の左頬に素早く繰り出す。初めて感じる、肉を打つ嫌な手ごたえがあった。メフィスト2世が、ぎょっとしたように真吾を見る。わずかに赤みを帯びてきた男の頬に、真吾は目を背けたくなったがぐっと堪えた。
「子供の力なんだからそんなに痛くないだろ。そろそろ身の振り方を決めてくれないか。返答次第では次を考えなきゃならないから」
 自分でもなぜこうしたのかわからなかった。たぶん、使徒にばかりこんなことをさせるのが嫌だったのだと思う。震える右の拳を左手で押さえながら、真吾は深く息を吐いた。人を殴ったのは初めてだし罪悪感もあったが、後悔はしていないと思う、今のところは。
 そもそも、十二使徒の魔力と僕自身の拳、その間にいったいどんな違いがあるっていうんだ?
 強い魔の力を感じ、真吾ははっと振り返った。メフィスト2世が魔の炎をステッキの先に宿らせ、男に向けていた。心底楽しそうに笑っている、真吾と違って演技ではない。本物の悪魔の笑いに、真吾の肌は軽く粟立った。普段はからりと明るい第一使徒のこんな一面をみると少しどきどきするけれど、真吾は友人の気遣いが嬉しかった。
 僕が無理してるってわかってるんだろうな。
 ステッキの先端から湧き出る熱風が男の前髪をじりじり焦がした。
「さて、俺の主もこう言ってることだし、そろそろ終わりにしようぜ。ここでくたばるか? それとも、大人しく話してみるか? 俺はどっちでもいいぜ」
 焦げくさい臭いと共に、男の歯の根ががちがちと鳴る音が聞こえた。自分がなにを相手にしているのかわかってきたらしい。真吾は男に少し同情したが、メフィスト2世の好きにさせておくことにする。なにしろ、残り時間は少ないのだから。


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2008/3/9

真吾くんの行動、かなり悩んだんですが直すとおかしくなるし、こんな葛藤もあるんじゃないかなと思ったのでこうしました。真吾くんが男を殴った行為とかその他もろもろ、不快に思われたらごめんなさい。

そしてヴァルプルギスの夜はこの話でおしまいです!