ユートピア「25話 戦場の子供たち」


 見えない学校は、館の悪魔の軍勢が放つ濃密な熱気と瘴気に満たされていた。不安そうな十二使徒の視線に、真吾は下唇を強く噛みしめる。どうしよう、僕はまた間違いをしでかしてしまったんだろうか。大切な場所を汚されたような気がして胸が痛んだが、これでいいんだと真吾は無理やり自分を納得させる。少なくとも、これで誰であろうと迂闊には手を出せない。ヴァルプルギスの呪いは解けた、あっけないほど簡単に。はじめから奴らの目的は見えない学校だったのかもしれない。もしくは、ただの前哨戦だったのか。真吾は軽く頭を振った。いまとなってはどちらでもいい、どの道もう後には引けないのだから。
 真吾はこれから野暮用を足さなければならないが、その間この軍勢が牽制となってくれるはずだった。見えない学校は魔門を開くのに適した絶好の地だし、真吾の許可を得たいま、ぎりぎりまで居座るだろう。真吾はその間、多少は安心して館の悪魔との約束を果たすことができる。
 館の悪魔はまだ知らないはずだ、僕がいま人間と対立していることを。人間界の騒ぎはまだ小さく、ちょっとした怪奇事件のレベルでしかない。もし気付かれたらまたなにか見返りを要求されるかもしれない、十二使徒によく言い含めておく必要があるな。丁重にもてなしつつも、早く立ち去ってほしいという態度を崩さないように。僕がいない間、上手く切り抜けてくれ。

 真吾は迷った挙句、第一使徒に同行を頼むことにした。別に戦闘に赴くわけではない、密偵と接触して素早く戻ればいいだけだ。あまり戦力を分散しないほうがいい。
 実をいうと真吾は内心、子兎のように怯えていた。
 どうして僕は死ぬほど怖くて痛い思いをしてまで憎悪と陰謀渦巻く戦場を駆け抜け、十二の悪魔を使役し、そしてそんな生活を生涯続けるつもりでいるんだろう。僕が今すべきなのは、強大な悪魔たちが跋扈する地へ勇猛果敢に乗り込み、館の悪魔との約束を果たし、そして逆五芒星を作った男を見つけ出してみんなの魂の欠片を取り戻すことだ。でも僕が今したいのは、家に帰って母さんの手料理を食べて、父さんの仕事場で漫画を読んで、ときどき仕事の手伝いもして、それからエツ子とゲームでもして遊ぶことだ。勝ちは全部譲ってあげるしおもちゃも上げる、だからこれがみんな夢だったらいいのに。みんな夢で、ただ大好きな十二使徒との幸せで楽しい日が続けばいいのに。
 そこまで考え、真吾は身勝手な自分の願いに頬を赤らめる。この期に及んで僕はまだこんなことを思うのか。メフィスト2世を選んだのも、戦力面での理由以上に、親しい友人としての彼が必要だっただけかもしれない。本当は百目にも傍にいてほしかったけれど、百目は戦闘向きじゃないし、怖がりで優しい第六使徒を連れていくのは可哀そうだ。それに、目立たないよう潜り込むならできるだけ人数は少ないほうがいい。
「ぼくのせいで、ごめんだもん」
 目を潤ませる百目に、真吾は努めて明るく答える。
「なんだ、まだ気にしてたのか。いいんだよ。無断で館の悪魔の屋敷に侵入したのは確かなんだし、百目のことがなくても結局はこうなっていたと思う。だからもう気にするなよ」
 心配そうに見送る十二使徒の姿を目に焼きつけ、真吾は第一使徒と共に魔門を潜り抜けた。

 魔界の広大な地は果てなく続き、地平線の向こうには小さな島々がぽっかりと空に浮かんでいる。魔門を潜り抜けたその先の風景に、真吾は瞠目した。館の悪魔の領地は美しく整備されていたが、その反面どこか冷たいよそよそしい雰囲気が漂っている。碁盤の目のように整えられた街並み、大きな都市には付き物の喧噪もなく、手入れの行き届いた植え込みに咲くライラックはひとつも枯れたものがない。人工的で峻厳な美と伝統で満たされた都市だった。
 領地の果てでは番兵が油断なく目を光らせていて、真吾たちを鋭く一瞥した。
 真吾は納得した。だから正装が必要なのか。ふさわしい装いをしろと館の悪魔の使者に渡されてしぶしぶ着た礼服だったが、もし普段着でふらふら歩いていたら、たちまち番兵に見咎められていただろう。使者が付いているとはいえ、ここは前線基地なのだから。いくら協力関係を結んでいる「悪魔くん」でも、館の悪魔の美意識に反するのはタブーらしい。
「御気分がすぐれないようですが」
 黙りこくったままの真吾に、使者が静かに問いかけてきた。
「お腹が空いてるだけです」
 ドイツから大急ぎで戻り、それから十二使徒に事情を説明するのに精一杯でまだなにも口にしていなかった。丸一日近く胃が空っぽのまま走りまわれば気分も悪くなる。
 思わず素直に答えてしまったが、試しに言ってみて正解だったらしい。真吾は使者が用意してくれた食事をせっせと詰め込みながら思う。
 原材料は気にしないことにした料理を頬張り、分厚い肉を切り分けながらメフィスト2世を横目で見やると、あまり食が進んでいないようだった。
「食べないの?」
「食うけどさ……。こんな状況なのにいい食いっぷりだよなあ。褒めてんだぜ。肝が据わってるよ」
「そうかな、ありがとう」
 ひとまずお礼を言ってみると、メフィスト2世は感心したような目で真吾を見た。
 僕なにか変なこと言ったかな。
 真吾は次の肉に取り掛かりながらぼんやり思うが、まずは空っぽの胃を満たすほうが先だった。
 真吾ひとりで平らげたも同然の、きれいに食べつくされたテーブルを離れ使者のあとに続く。空を埋め尽くしている軍旗に刺繍された館の悪魔の紋章は、真吾の目から見ても印象的な優美さがあった。紋章の中心には鮮やかな橙色の炎が刺繍されている。その両脇には、首がずんぐり太い龍のような生き物が二匹、炎を称えるような形で横向きに描かれていた。その紋章入りの腕章を付けているので、真吾はこの場で辛うじて浮かずに済んでいた。

 銀色の月が、この戦場においてただひとりの人間の子供である真吾を照らしている。真吾の横には、マントをなびかせたメフィスト2世が彫像のように立っている。風に揺られてはためくたびに覗く裏地の赤は目に染みるほど色鮮やかで、戦場によく映えていた。真吾はふと思う。この悪魔の少年には、自分には真似のできない生まれついての気品がある。どんなに乱暴な言葉を使っているときでも、汗と泥と血にまみれ、ぼろぼろになっている戦闘の最中でも、同じだった。彼はいつだって、小さな身体一杯に自信をみなぎらせた強気な、気高い悪魔の子だった。真吾はそんなメフィスト2世が誇らしく思えた。そんな親友を持てたことが嬉しくてたまらないのだ。
「メフィスト2世、君って凄い悪魔だよね」
「前にも聞いたけどさ、おだてたってなんにも出ないぜ」
 そう言いながらも、メフィスト2世はまんざらでもない様子でにやりと笑う。
「前とは意味が違うんだよ」
「違うって、どういう意味だよ」
「さあね。それは秘密にしとく」
「なんだよそれ、教えろよ」
 知らないほうが、いいと思うけどな。
 メフィスト2世の追跡をかわし、真吾は広々とした魔界の平原を駆け回る。夜露に濡れた柔らかい草の上を踏みしめる感触が心地よくて、どこまでも走り続けてみたくなる。使者に渡された皮靴なのが唯一残念な点だ。真夜中の冷たい空気を肺一杯に吸い込むと、ここが戦場だなんて信じられないほど爽快だった。遠くで使者が呆気にとられたように見ているのがわかったが、子供っぽい遊び心のほうが勝っていた。そんな少年二人の足がふいにぴたりと止まる。
 鬨の声があちこちで上がり、猛々しいその咆哮は腹の底までずしんと響く。戦の始まりだった。


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2008/03/21

真吾くんの言ってる「前とは意味が違う」は、6話の冒頭のことです。似たようなやりとりがあったけど、そのときは違う意味で言ってたあれです。
真吾くんはすごく度胸がありそう。思いっきり悩みながらも、すとーんと気持が切り替わって遊びまくったりお腹いっぱい食べまくったり。メフィスト2世と追いかけっこ〜とか楽しそう! あいかわらず、いったいどこに向かおうとしてるのかわからない展開が続きまくりですが真吾くん燃えです。そしてタキシード姿の真吾くん再び! メフィスト2世とお揃いのダブルタキシードで戦場を飾るとかもう、妄想するとたまりません……!