ユートピア「26話 一徹者の正義」


「行くぞ。しっかりつかまってろ、酸欠になるなよ」
 真吾は慌ててメフィスト2世の背中にしがみつく。戦闘の凄まじさに度肝を抜かれている場合じゃなかった。揃いの軍服を着込み、整然と隊列を組んで突き進む軍勢の影から素早く飛び立ち、真吾とメフィスト2世は夜の闇を滑空する。敵軍は館の悪魔側よりも雑然とした印象があるが、立ち昇る魔力の波は相当なもので、オーロラのように戦場を彩っている。
 時折魔力の塊が唸りを上げて飛んできたが、館の悪魔の軍勢が全て叩き落としてくれた。十二使徒以外の悪魔に味方として護られているなんて、なんだか不思議な感じだ。他に選択肢がなかったとはいえ、悪魔の軍団と手を組むなんてな。事態は僕の手の及ばないところで僕の望まない方向に進み続けている。僕はメシアとしての自分の道をコントロールできていないんだ。

 敵軍につかまったらただでは済まない。メフィスト2世もさすがに真剣らしく、スピードも普段とは桁違いだ。真吾は風圧に目を細めながら、ちらりと後ろを振り返る。初めて目にする悪魔たちの戦は真吾の心に奇妙な波紋を残した。
 大気を切り裂く魔力と魔力のぶつかりあい、胃の内容物が逆流しそうになる瘴気、泣きわめきたくなるほどの恐怖を振りまく血で血を洗う戦、なのになぜだか心を揺さぶられる。二度とこんなのはごめんだと思いながらも、持ち前の強い知的好奇心が真吾の中で膨れ上がっていく。真吾はしばらくその感情を胸の中で転がしてから、ひとまずそれをしまい込んだ。

 もう充分距離を取ったと判断したのか、無言のまま飛び続けていたメフィスト2世が口を開いた。
「しっかし驚いたぜ、あの館の悪魔の使者に、腹減ったからなんか食わせろだもんな」
「僕、そんなこと言ってないよ」
「同じことだろ。いい土産話ができたぜ、帰るのが楽しみだ」
「もしかして、まずかった?」
「いいや、あれくらいでちょうどいいと思うぜ。びびって侮られるようじゃ話にならないからな」
 他愛もない会話をぽつぽつと交わし、どれくらい経っただろうか、静まり返った空が次第に白み始めてきた。広大な平原の向こうには、朝日を受けてきらきら輝く森が見える。ねじくれた巨大な木々が密生していて、風に揺れる長い枝はまるで真吾を手招きしているようだった。メフィスト2世は森と平原の境目で停止すると、真吾を静かに降ろしてくれた。
「ここから先は歩いていくしかないんだ。この森には意思があるからな。おまけにプライドが高い。だから、自分の頭の上を通る奴らには我慢ならないらしい」
「へえ、だから使者も歩いて抜けろって言ってたのか」

 森の中に一歩足を踏み入れると、長い枝がゆらゆらと伸びてきて真吾の頭を撫でていった。歓迎されているのか、人間の子供が珍しいからなのかよくわからない。
 さんさんと降り注ぐ真昼の光が容赦なく真吾の体力を奪っていく。ざわめく森の獣道を歩き続けながら、真吾は弱音を吐くまいと必死だった。吐き気と頭痛が絶え間なく真吾をさいなみ、額にはびっしりと玉の汗が浮かんでいた。始めの頃こそメフィスト2世とお喋りをする余裕もあったのだがいまや身体中が綿のようで、重たい疲労感がさざ波のように押し寄せてくる。慣れないタキシードは動きを妨げるし、おまけにこの森は妙に空気が薄い。メフィスト2世だけならこのまま何日でも速度を落とすことなく進めるだろうが、真吾にはどうがんばってもこれ以上は無理だった。
 真吾はよろよろとその場にへたり込んだ。
「……ごめん。少し休んでいいかな」
 軽快な足取りで先導してくれていたメフィスト2世は、座り込んでいる真吾のところまで一足飛びで戻ってきた。
「やっぱり子供の足じゃきついぜ。よし、俺が代わりにひとっ走りしてきてやるよ。悪魔くんはどこか安全なところに隠れてればいい」
「メフィスト2世だって子供じゃないか。僕だけ逃げ隠れするわけにはいかないよ」
「あのな……。悪魔くんよりかは年上だぜ。それに俺は別に寝なくても食わなくても死にはしないんだ。悪魔くんはそうもいかないだろ」
「気持ちは嬉しいけど、やっぱり僕が行かなきゃだめだ。だって、館の悪魔と約束したのは僕なんだから。自分でした約束は自分で守りたいんだ」
「意外に強情だよな、悪魔くん」
「君ほどじゃないよ。でもそうだな、僕も男だからね……」
 マントをひと振りして埃を払ってから、メフィスト2世は真吾の隣に腰を降ろした。真吾はふと呟くように言った。
「僕らは案外、似た者同士なのかもね」
「ああ、そうかもな。でも最初はもっと温和そうに見えたんだけどな、最近の悪魔くんには負けるぜ」
 真吾は一瞬間を置いてから大笑いした。飾っておきたいくらいの陽気だった。真吾は草の上に仰向けに寝転ぶと、ゆっくりと流れる魔界の雲を眺める。メフィスト2世も真吾の隣にごろりと横になった。
「僕、あれから考えたんだけどね」
「なんだよ、言ってみな」
「うん。でも、こんなことは使徒には言うべきじゃないと思うんだ。今さらかもしれないけど、友達として聞いてくれないか」
「わかった」
 真吾は少し逡巡してから思い切って言った。
「実を言うとね……ユートピアの姿を、いつかこうなっていたらいいなと思う姿を、僕はまだ具体的に思い描けないんだ、想像できないよ。昔はね、もっと簡単だったんだ。ただ悪い黒悪魔をやっつけて、みんなを助けて、それで幸せになれたから」
 メフィスト2世は何事か考えているようだったが、やがてゆっくりと口を開いた。
「うまく言えねえけどさ、つまりそれだけ真面目に考えてるってことじゃないのか? なんの迷いもなく盲目的に進むのも怖いと思うぜ」
「そっか……そうだね、ありがとう」

 ぽかぽかの陽気と、ほどよい日陰を作る木々は、疲労の蓄積された真吾の身体をゆっくりと癒してくれた。
「じゃあ今度は俺が話すぜ」
「うん」
「第一使徒としての俺はいまは忘れろよ、友達として聞いてくれ」
「うん、わかった」
「俺は強いし、その点にかけちゃ誇りを持ってる。戦闘自体も好きだしな」
 真吾は頷いたが、お互い仰向けに寝転んでいるので見えるはずないなとぼんやり思う。
「だけど、俺も本当にときどきだけどな、戦いに嫌気が差すこともあるんだ。もっと正直に言うとな、怖いんだよ。びびってる。俺だって死にたくないからな。死ぬだけならまだいい。だけど死んだら悪魔くんのユートピアが見られなくなるだろ、ここまで来てそりゃないぜ」
 真吾は熱くなった目頭を指先でそっと押さえる。
 プライドの高いメフィスト2世がこんな風に率直に話してくれるなんて思ってもみなかった。他の誰でもない、僕にそんな弱さをさらしてくれたことが嬉しいんだ。
 真吾は思わず言った。言うつもりのなかった言葉まで次々と奔流のようにあふれ出す。一度口を出た言葉はもう止まらなかった。
「僕……僕も怖いよ。君たちを失うのが怖い。僕のやり方が間違っていたらと思うと怖い。それに僕だって死にたくないよ。僕はたくさんの間違いを犯してきた。今回の逆五芒星の魔術も防げなかった。戦うのが怖くて、嫌で、せっかく追いつめた敵を逃がしてしまった。僕は……僕のこの、なんていうか、甘さがいけないのかもしれないと思った。だから僕は自分の主義を曲げてでも、物事がうまく収まるならそれでいいと思ったんだ。犠牲が少なくて済むなら、僕自身のこだわりなんて大したことないって。だから僕は館の悪魔と手を結び、その軍勢を見えない学校へ招きいれ、抵抗できない人間を殴りもした。でも……」
 真吾はそこで声を詰まらせる。顔が見えない分いつもよりもすらすらと本音が飛び出してしまう。
「……でも、それこそが今回の事件の一番悪いところだったって気づいたんだ。僕は自分の正義を見失っていた。力を使うこと、それ自体は必ずしも悪いことじゃないと思う。でも、自分自身の正義や信念を無視したもの、それはただの暴力でしかない。僕は自分の信念を曲げるべきじゃなかった。たとえそのために苦戦を強いられたとしても、そうあるべきだったんだ。そうありたいと僕は思うんだ」
 自分でも融通の利かない頑固者だと思うけれど、譲りたくなかった。相手がフェアじゃなかったからといって、自分まで卑怯な真似をしていいわけがない。なにより、正義を成すために正義を曲げるなんておかしいよ。
 館の悪魔とのことは約束をした以上最後までやり通すつもりだ。それに館の悪魔はまだいい。確かに曲者かもしれないけどあの悪魔にはなんていうか、美学がある。だけどあの逆五芒星を作った男は違う。できることなら傷つけることなく終わらせたいけど、難しいだろうな。そして、最近の僕も決して褒められた人間じゃなかった。僕はみんなのためになると思って、自分の正義を曲げてまで合理的だと思う行動をとり続けた。それは完全に間違いではなかったけど、決して正しいわけでもない。メフィスト2世とこうして話してみてはじめて、僕は遠くから自分を見ることができたんだ。

 仰向けに寝転び棚引く雲を眺めながら、真吾はいまの自分にぴったりの言葉を見つけた。
 最近の僕は……そう、独善的だった。
「ごめん。最近の僕ってちょっと、嫌な奴だったよね。ろくに説明もしないままひとりで勝手に決めて突っ走って、みんなを不安にさせてばかりだった。これじゃ独裁者だ。僕はそんなものになりたかったわけじゃないのに。みんなにもちゃんと、謝らなきゃ……」
 真吾の隣ではメフィスト2世が同じように寝転び、同じ空を眺めている。それまで静かに真吾の話を聞いてくれていたメフィスト2世がぽつりと言った。
「泣くなよ」
「泣いてないよ」
「そうか」
「うん」
 そこで会話が途切れた。
 はるか彼方ではいまなお戦闘が繰り広げられているはずだが、この森はいたって平和だった。暖かい風が吹き抜け、真吾の髪を乱していく。
 真吾はゆっくり上体を起こし、隣に寝そべっているメフィスト2世に目をやった。気持ち良さそうに目を細め、大きく欠伸をしている。視線に気づき、メフィスト2世は眠たげに真吾を見上げ、しばらく考え込んでから言った。
「ドイツでの事件と館の悪魔との取引、俺は悪くないと思うぜ。最善を尽くそうとしてきたんだろ。それはみんなわかってる、だから十二使徒をもっと信じろよ。あのとき約束しただろ」
「うん……ごめん」
「そんなに謝るなよ、俺がいたたまれなくなるだろ。必要ならひとりで決めていいんだ。洒落にならないときは俺が止めてやるから安心して暴走しな」
 真吾は苦笑する。
「それもちょっと怖いな」


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2008/4/6

真吾くんはすごい優しいけど、ものすごく頑固そう。簡単には自説を覆さない感じがする。頑固で強気だけど温和で平和主義、といういろいろ矛盾した面をもってそうで、その辺も好きです!
そしてメフィスト2世の友情も大好きです。