ユートピア「51話 真実と嘘」


 日の光が地上に差し込み、夜の生き物がざわめきながら巣に戻り始める。真吾にとってあまりに長過ぎた夜は終わりを告げようとしていた。
 真吾は横目でちらりと三使徒を盗み見る。メフィスト2世、ユルグ、妖虎の様子は普段とまったく変わりがない。たいしたもんだよ、悪魔のポーカーフェイスはまったく侮れないな。

 館の悪魔の軍旗を掲げた兵たちは、整然と隊列を組み敵軍に睨みを利かせている。時折刃がきらめき鬨の声が上がるが、本格的な衝突はまだ始まっていない。
「なんとも圧巻じゃな」
 真吾は妖虎の言葉に軽く頷いてから変化を命じた。柔和な老人の輪郭がぼやけ、一瞬にして猛々しい蒼の獣の姿に変わる様はいつ見ても惚れ惚れする。
 変化した妖虎の紺青のたてがみを最初はそっと、次はきつく握りしめて背にまたがった真吾は、眼前に広がる悪魔の軍勢に視線を戻した。暖かい獣の皮膚を覆う毛はごわごわしていて太腿がむずがゆかったが、真吾はいたく満足だった。一度この蒼い妖獣にまたがって大地を駆け抜けてみたかったんだ。いつもと違う視界から眺めると世界が新鮮に見える。真吾の前方、右斜め前をメフィスト2世が固め、左方はユルグ、鳥乙女が守り、後方は主に戦闘の補佐を得意とする使徒が控えている。

 真吾はこの度の戦における軍服として、いつものシャツに半ズボン、首にはソロモンの笛を飾り、背にはメフィスト2世から友情の証にと譲り受けた魔法のマントをまとうことを選んだ。それが十一歳の僕の戦装束、冒険の友だからだ。でもそれもそろそろ卒業で、もうあと何年かで僕は子ども時代に別れを告げて少年から青年になり時折この小さな服を引っ張り出しては懐かしく眺めることになる、だからそれまで僕は、このスタイルで戦いたい。
 南方勢力と、それから同盟軍である館の悪魔の兵、それぞれの悪魔たちの値踏みの視線に気づいたが、真吾はあえて悠然と構えていた。そんなに珍しいのなら、好きなだけ観察すればいいさ。

 平原に立ち込める土埃は陽光にきらめきながら宙を舞っている。辺りの喧騒は大きくなるばかりで、すぐ傍に控えている使徒と会話をするのにも大声を張り上げなければならないほどだ。ぽつぽつと思い出したように魔力の矢が飛び交い、両軍は機械的に防御する、そんな気の抜けたやり取りの繰り返しが長いこと続き、真吾の集中力は乱れがちだった。

 時間は這うようにのろのろと進み、戦が始まる気配はまったくない。こうした戦場の退屈さは真吾をたじろがせた。そんな風に感じる自分にどぎまぎしていると甲冑に身を固めた館の悪魔軍の指揮官が現れたので真吾はほんの一瞬喜び、すぐに罪悪感に襲われる。別にめでたくないよな。見上げるほど背の高い悪魔が一歩足を踏み出すたびに甲冑が擦れ合う金属音が響き、踏み潰された草の香りが辺り一面に広がった。すかさずメフィスト2世が立ち位置を変え、完璧なボディーガードを演出してくれている。
 妖虎に騎乗したままでは失礼だろうか。というより……僕は同盟軍の指揮官にどんな印象を与えたいんだ? 誰の指図も受けないふてぶてしい少年か、礼儀正しいけれど紙一重で弱気ともとられる少年か、どっちがましかな。
 逡巡のすえ真吾は、妖虎に騎乗したまま相手の出方を待つことにした。結局のところ真吾はまだ幼い少年でしかなかったし、悪魔のやり方に一から十まで合わせる必要はないと考えたからだ。

 兜の隙間から覗く不気味な灰色の目が真吾を捉え低い声で何事かを告げたが、さっぱり意味がわからない。言語自体は理解できるのだが、ひとつの単語に複数の意味が含まれているので、現在の魔界の慣例に疎い真吾の耳にはちんぷんかんぷんだった。発音も語彙も違う上代日本語を聞いているようなものだ。
 救いを求めるようにちらりとメフィスト2世を見ると、心得たように真吾の耳元でぼそぼそと通訳してくれた。くすぐったさに顔をしかめていた真吾の表情が、別の意味で険しくなる。
 兵の配置? 陸空海の防衛?
 真吾は広大な平野に広がる一万五千の同盟軍を見た。僕には魔界の勢力図も、しきたりも、国同士の戦い方も、なにもかもまるでわからないよ。だから真吾は、これまでの経験と推測で物を言うしかなかった。目で合図を送ってメフィスト2世を呼び寄せ、ひそひそと耳に囁く。
『僕が他国に侵攻するとしたら、できるだけ無傷で手に入れようと試みるだろう。せっかくの領土を台無しにしたくないからだ。南方勢力だって例外ではないはずだ。現にいまも国境が前線になっている。やつらが攻め入ってくるとしたら、このまま陸伝いにくる可能性が高い。悪魔といえどもすべてがすべて飛行可能なわけではないだろうし、手の施しようがないほど破壊された国土を欲しがるとは思えない……』
 メフィスト2世は大きく咳払いをすると通訳を始めた。
「俺の主人はこう言ってる……」

 僕のお粗末な作戦とも言えない作戦に従って、あとは同盟軍の指揮官がうまくやってくれるだろう。だがそれも、僕の読みが外れていなければの話だ。そして真吾は、自信がなかったのだ。いま誰かに勝算はあるかと尋ねられたら、真吾はいつものポーカーフェイスで嘘をつかなければならない。わからないよと言う代わりに、僕らはぜったいに負けやしないと答えなければならない。たとえそのせいで地獄に落ちようともだ。

 東嶽大帝を倒すなんて、実際のところは不可能といってもいいくらいの勝算しかなかった。でも僕らは勝った。なぜ勝てたのか? 「僕らはぜったいに負けない」という僕の嘘を、十二使徒が心の底から信じてくれたからだ。僕はぜったいに勝つと嘘をつき、十二使徒はそれを信じきり、その瞬間から嘘は真実になった。あの熾烈な戦いのさなか僕らは嘘を真実に変える魔法を作りだした。それが僕の十二使徒、僕の強さの秘密、僕の誇りだ。

 ただただ時計の針だけが進んで行く。息が詰まるほどの蒸し暑さのなか、同盟軍の軍服には汗染みひとつなかった。同盟軍の悪魔たちと同じく十二使徒も平然としていて、時間の経過と共に無駄に体力を奪われているのは真吾だけだった。
 真吾の第一使徒は退屈を持て余している。妖虎に騎乗している真吾の目の位置までふわりと浮くと、指を三本立ててみせた。
「これ何本だ?」
 冗談に付き合っている気分じゃない。暑さで胸がむかつき、汗を拭うのも億劫になってきた。無言で指を三本立てて左右に振ってみせたが、意外に世話好きな第一使徒はめげなかった。
「あんまり気張るなよ。やばいときは逃げちまえばいいんだ」
「僕が逃げ込める場所なんて世界中どこにもない」
 すぐにしまったと思ったが、使徒たちは聞こえない振りをしてくれている。真吾はいまこの瞬間に限ってはただの少年に戻ることに決め、五分間だけ弱気になることにした。

 更に一時間経過、戦局は動かない。真吾は額に浮かぶ玉のような汗をのろのろと拭うと、革袋の水をがぶ飲みした。戦う前に疲れてどうするんだ。人間の子どもの身体は嫌になるほど弱い。
 真吾の前方を固める悪魔兵が何気ない動作で魔力弾を放ち、敵陣に到達する前にあっさりはじかれる。両軍ともに様子を見ているのだろうが、いい加減飽き飽きだ。真吾はソロモンの笛をなんとはなしにいじり回し、それから膝の上の弓に手を伸ばした。象牙色のきれいな弓はすべすべしていて触り心地がいいので、真吾の次なる興味の対象となった。鼻孔をくすぐる潮の香りと戦場の喧騒はすでに身体の一部となり、真吾はぼんやり手元のおもちゃをいじりつづける。

「ねえ悪魔くん、だいじょうぶかしら。わたし怖い」
 童女の姿をした悪魔の不安に、真吾は内心の思いとは裏腹に微笑んだ。
 僕だって怖いよ。ぜんぜん大丈夫なんかじゃない。僕はなにも恐れないとでも思ってるのか?
 けれども実際に真吾の口から飛び出したのはこんな言葉だった。
「大丈夫だよ、幽子。怖いことなんかなにもないさ」
 罪のない嘘を吐くたびに、僕はまたひとつ重荷を背負い込む。嘘を真実に変える奇跡を、どうか起こせますように。

 時計の長針が更にもう一巡り、真吾は焦燥感と退屈にじりじりとさいなまれ続ける。進展のない小規模な魔力の応酬、断続的な小競り合いをただ眺めているうちに、真吾はちょっとしたいたずら心を起こした。僕が弓で攻撃に加わったところで、きっと誰も気づかない。
 真吾はさっそく弓矢を手に取り、しっかりと構える。昨晩かなりの時間をこの遊びに費やしたおかげで、真吾のフォームはそれなりに様になっていた。これまでひとつの知識として蓄えてきたこと、矢をつがえ、矢先を標的に合わせ、弦を引いて放つだけ、飛ばすだけなら簡単に出来たし、少年の学習能力はすさまじいまでに速いのだ。だから実際、あっという間だった。誰も止める暇などなかったし、真吾の一連の動作はなめらかで、見事といってもいいほどだった。

 真吾が弦から指を離した瞬間、大轟音がぴたりと止み、戦場に静けさが宿った。唐突に訪れた静寂のなか、誰かがあっと息を呑む。真吾はそこで初めてためらったが、矢はすでに弦から放たれ、南方勢力の陣営に向かって弧を描きながら飛んで行くところだった。時が静止したかのような静寂のなか、真吾の射った矢は弾き飛ばされることなく敵陣の頭上に到達する。
 十二使徒と、館の悪魔の軍勢、そして南方勢力、合わせて約三万の目が一斉に真吾に向けられた。たっぷり数十秒は続いた静寂が破られたのもまた唐突だった。鼓膜が割れんばかりの鬨の声が湧きおこる。

「僕、なにか――」
 僕なにかまずいことをしたのか? 急にどうしたんだ?
 言いかけた真吾の視界が、大きく縦に揺れた。あまりに急な妖虎の動きに、真吾は危うく舌を噛みそうになる。慌てて妖虎の太い首にしがみつくと、強い筋肉の躍動が直に感じ取れた。普段の温厚な老人の姿からは想像もつかない。死人も目を覚ますほどの猛々しい咆哮を上げながら妖虎は上下左右すさまじい勢いで軽やかに飛び跳ね、戦場を駆け抜ける。妖虎の紺青のたてがみが視界いっぱいに広がったので、真吾はくすぐったさに目を細めながら掻き分けた。振り落とされないよう全身に力を込めてやっとの思いで顔を上げると、戦が始まっていた。
 どうしてだ? いったいなにが起こった?

 天幕の陰に真吾をそっと降ろした妖虎は、大気を震わす咆哮と共に飛び出して行った。待てと制止する暇も、次の命令を下す余裕もなかった。真吾の忠実な十二使徒はてんでばらばらに、統制のとれないまま大混戦のただ中へ呑みこまれて行く。呆然と目を見開く真吾の横を、黒い影がすりぬけて行った。メフィスト2世だった。
「俺に任せとけ!」
 なにがだ? なにを任せろって? 得意げに叫んで滑空するメフィスト2世を口をぱくぱくさせながら見送った真吾は、数十秒間の放心状態を経てようやく我に返った。
「待て! 止まれ! みんな僕のところに戻ってこい!」
 声を限りに叫ぶものの少年の声は戦場を飛び交う怒号と爆発音にかき消され、十二使徒に届くことはなかった。


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2009/11/13(金)

こりずに下手な字で図説しました! 予告通り13日の金曜日に更新。やっぱり悪魔くんの冒険とか戦とか一番燃えますvそんなやばい展開にはならないと思いますが、万が一やばいものを書きたくなったら怖いもの見たさで見たい人にだけひっそり公開とかなにか考えますvおそろしく気まぐれ更新ですが悪魔くんの冒険の続きを懲りずにえんえんとできるところまでやる予定です!