ユートピア「50話 長い夜」


 真吾が都から出立しようとしたとき、驚いたことに大神官が同行を願い出てきた。大聖殿と国の管理を任せたかったので思いとどまらせたが、その申し出があっただけで真吾は満足だった。大神官は臆病者でも無責任でもないし、新しい環境に適応できないわけでもないのだ、この小さなユートピアの行く末はそう暗いものではない。僕だってそういつまでもここにいられるわけじゃないんだ。どの道いまの僕の力では、王さまごっこにしかならない……。

 ぽつぽつと小雨が降っては止みを繰り返し、天候はぐずついていた。足元ではコオロギに似た虫が嬉々として跳びはね、真吾の足首をくすぐっていく。魔界の虫を観察しようと一匹捕まえてみたが、鋭い歯で指を噛まれたので真吾はごめんと言いながら放してやった。

 最果ての地の南端、幅およそ五百メートルあまりが魔界本土と陸続きになっている。領土のほとんどが海に囲まれているので、自然と国境は南端の陸地となっていた。日が落ちても暑さは変わらず真吾の体力を消耗させていたので、雨が降ること自体は歓迎だったのだが、進展がないままただ時間だけがじりじりと過ぎていくのには参った。館の悪魔軍は最果ての地に背を向けて陣形を整え、南方勢力はそれに対峙する形で布陣し、両軍は睨み合いを続けたままぴくりとも動かない。館の悪魔軍は鮮やかな橙色、南方勢力は黒地に金の縁取り、戦場を彩る両軍の軍旗は普通なら水分を含み重たくしぼんでいるはずだが、魔の力のなせる技か、雨など存在しないかのように軽やかに揺れている。

 じれったいほど進展のない前線から離れ、非戦闘員が慌ただしく動き回る天幕のひとつに真吾は腰を落ち着けていた。非戦闘員の一人である館の悪魔の使者が用意してくれたこの天幕は戦場の真っただ中とは思えないほど快適で清潔で、それが真吾の感覚を麻痺させそうになる。僕はいま生きるか死ぬかの瀬戸際、何千何万という命の行く末に関わっているんだぞ、そう肝に銘じようとしても、いまいち現実感が湧かないのだ。悪魔たちの戦や最果ての地の不思議は真吾の好奇心を絶え間なく刺激してくれる。そんな真吾に再び緊張感をもたらしてくれたのは、意外にも十二使徒たちだった。

 その出来事は、生ぬるい風が流れる海岸沿いの岩棚を危なっかしい足取りで散策しているときに起こった。
 さすが館の悪魔というべきか指揮系統は完璧に整っていて、悪魔の兵たちは真吾を上官と認識してくれていたので、少年は少しばかり遠出をしたのだ。兵の間をふらふらさまよい歩いても安全そのもの、簡単な命令なら従ってくれるほどで、僕も出世したもんだなと真吾は呑気に構えていた。同盟軍の防衛態勢はすばらしく南方勢力の付け入る隙はいまのところまったくないので、真吾は使徒を供につけることもなく、ひとり夜の探索を決め込んでいたのだ。
 きれいな小振りの弓という遊び道具もあった。あまりに自然に館の悪魔の使者が渡してくれたので、なんのために必要なのか聞くこともできなかったのだが、たぶん腕章と同じく階級章代わりなのだろう。取り立ててやることのない真吾は、精巧な龍の細工が施されている象牙色の弓をいじり回してはしげしげと眺めていた。軽く弦を引くと淡い光の筋が発生し、それが瞬時に形を整え矢となるのだ。かなりかっこいい。ばーん! と言いながら誰もいない海や岩棚に向けて射ってみたり、ばーん! の擬音は拳銃用だったと一人呟いてみたり、弓矢の場合はなんて言えばいいんだと考えてみたり、気の済むまで無心に遊んでからベルトの隙間にしまい込む。この小さな弓には術がかけられているらしく、少年の力でも簡単に射ることができるので、気晴らしにはもってこいだった。ポケットから腕時計を引っ張りだすとまだ午後九時三十分だったので、真吾はもう少しぶらつくことにする。
 話し声が聞こえてきたのは、黒くたゆたう夜の海をなんとはなしに眺めていたちょうどそのときだった。

「……かの少年は邁進しておるな」
 聞き覚えのある声、妖虎だ、近づこうとした真吾の足を、なにかが止めさせた。そのなにかは真吾の中に眠るメシアの部分だったのかもしれない。とにかく真吾はとっさにその場にしゃがみ込むと、岩棚の後ろにぴたりと身体を寄せて耳をそばだてた。
「いっそこの小さな国で満足してくれたほうがいいのかもしれないな」
 これはユルグの声だ。
「そりゃまた、どうしてそう思うんだ? 世界を制してこそのメシアだろ」
 そしてこれは、メフィスト2世だ。
 後ろめたさを覚えながらも、真吾はその場を離れられなかった。とんでもない悪さをしでかしているようで心臓は早鐘を打っていたが、耳はしっかり三人の使徒の言葉をとらえ続ける。
 ユルグの声、
「俺は我らが主、悪魔くんほど楽観的になれないんだろうな。すべてのものの本質は善なり、そう考えられるほど達観しちゃいないのさ」
 妖虎、
「しかし――ここは大切だ、忘れてはならんのは、かの少年、悪魔くんはそれを心底信じておるということだ。我らの思惑がどうであろうとな」
 ユルグ、
「それもそうだが、俺が心配したのはもっと別のことさ。いざ悪魔くんがメシアとして受け入れられるようになったとしてだ、なにが起こると思う?」
 沈黙が辺りを支配し、真吾は息を殺して使徒たちの言葉を待った。盗み聞きをしているという罪悪感よりも、好奇心のほうが圧倒的に勝っている。しばらくなんの動きもなかった。メフィスト2世のマントがさらさら揺れる音と妖虎の咳払いだけが、研ぎ澄まされた真吾の聴覚にやけに大きく響いてくる。

 じれったい思いで続きを待っているとようやくメフィスト2世が、
「さあな、わかんねえよ。聞かせろよ、ユルグの考える最悪のシナリオってやつをさ」
 続いてユルグの声、
「悪魔くんにはとにかく相手をはっとさせるなにかが、力がある。良くも悪くもな。ただそこにいるだけで相手に力を与え、安らぎをもたらす。しかし同時に、相手をやたらと不安にさせ、威圧することもある。たとえ心底善良なメシアであろうと、人々は得体の知れない異質なものは排除しようとするし、恐怖を感じるものだからだ。仮に悪魔くんが真実救世主として世に君臨したとしよう、そうなればあらゆる種族の満たされぬ者たちがこぞって悪魔くんにすがりつき、救いを求めて群がる。そうなったとしたら――」
 メフィスト2世の声、
「悪魔くんは喜ばねえだろうな。あれでけっこう、厳しいところがあるもんな。むしろ悪魔くんは、自らの力で障害を蹴散らすやつを好むみたいだからな、あの逆五芒星の男に対してもそうだ。そこら辺は俺たち悪魔と似てる。このまま救世主に祭り上げられても、悪魔くん個人の幸せに結びつくかどうかは疑問だぜ」
 再び長い沈黙、そしてユルグの声。
「俺たちにとって幸いなのは、さしあたってこの問題を早急に考える必要はないってことだな。悪魔くんはまだ動かない」
 妖虎のため息、
「確かに、いまのわしらに出来ることはそう多くはなかろう。悪魔くんはあまり自分のことを話したがらない」
 ユルグの低い声、
「ああいう類の天才は、滅多に感情を露わにしない分、爆発したときが怖いぜ。悪魔くんが本気で容赦なく怒りを爆発させるとき、俺は近づきたくない」
 メフィスト2世の声、
「……しばらく様子を見ようぜ。時期を待つ、なにもしない。時にはそれが一番ってこともあるだろ。臆病者の理屈だって言って、悪魔くんはいい顔をしないかもしれないけどな」

 まさにメフィスト2世の指摘通りだったので、真吾は岩棚の陰でぎくりと身体を震わせる。心臓の鼓動はまるで全力疾走をしたかのようにどくどくと乱れ打ち、使徒たちに気付かれるのではないかと心配になるほどだったが、のこのこと姿を現すわけにもいかない。真吾は息をひそめて冷たい岩肌にぴたりと身体を寄せていたが、話はそれで終わりのようで、三人の使徒はそれぞれ夜の闇に散って行った。

 僕に隠れて使徒たちがこんな会話をしているなんて、ちっとも知らなかった。きっと、朝の言葉を交わす頃にはみんな心配事などなにもないという顔で接してくれて、僕はなにも知らないまま微笑み、自分がどれだけ慎重に守られているのか、その事実にすら気づかない。それが僕、それがメシアと呼ばれる者、それがこれまで何度も繰り返されてきた使徒たちの、僕を包む真綿の防壁なんだ。
 あまりに自分がふがいなくて、真吾は熱くうるんだ目を乱暴に瞬かせる。ここにきてようやく、真吾は自分の直面しているのっぴきならない状況を肌で感じ取っていた。口の中が急速に干上がり恐怖で胃がすくみ上がってくる、僕の心はようやく現実に追いついてきたってことか。

 天幕の入口には館の悪魔兵が歩哨に立っていた。真吾が近づくと道を開けてくれたので、分厚い垂れ幕の隙間から中に滑り込む。ポケットにねじ込んでおいた腕時計を引っ張りだすと、午後十時を回ったところだった。最後に時間を確認してから、まだほんの三十分ほどしか経っていない。人間界と魔界とでは時間の流れが違うんだろうか。この長い長い夜はいつになったら僕を解放してくれるんだろう、いつになったら僕は大人になれるんだろう。
 本当に、なんて果てしなく、長い夜なんだ。

 長い旅になることを見越して日本から持ち込んだリュックサックを漁っているうちに、少し気持ちが落ち着いてきた。カップラーメンが紛れ込んでいるのは、メフィスト2世の仕業だろう。見慣れた品々を手に取りほっと一息ついてから、真吾は膝を抱えてごろりと横になる。さざ波のように押し寄せてくる疲労感が真吾の思考力を鈍らせていた。
 使徒たちは使徒たちでそれぞれの思惑があり、各々の判断で動いていて、真吾の一挙一動を見守っている。あの優しい悪魔たちにしてみれば、僕はいつかメシアになるはずの幼い子どもでしかないんだ。
 眠れるわけがない、僕の頭上を覆う闇は深く、朝はうんざりするほど遠いんだ。そう思っていたのだが真吾はいつしか浅い眠りについていて、夢の中で久しぶりに笛を吹いていた。次に目を開いたときは、午前五時になろうとしているところだった。

 まだ辺りは暗かったがもうひと眠りする気分でもなかったので、真吾は寝床から這い出して床にあぐらをかく。金地に橙色の龍が刺繍された布に包まれた携帯食には興味をそそられたが、食欲はまるでわかない。
 館の悪魔の依頼を受け、第一使徒を伴い戦場に赴いたヴァルプルギスの夜のことを真吾は思い出していた。タキシードを着込んだ真吾は館の悪魔の使者が用意してくれた食事をぺろりと平らげ、メフィスト2世が感心したように、「こんな状況なのにいい食いっぷりだよなあ。褒めてんだぜ。肝が据わってるよ」と言ったときのことをだ。いまの状況と似ているが、心境はまるで違う。僕の肝が据わってる? 違うな、それは思い違いだ。僕はただ、あまりに幼かった、ただそれだけだったんだよ、メフィスト2世。そしてその罪深いまでの幼さは、いまだ消えることなく僕という人間の一要素となっている。

 ……でも、食べなきゃだめだ。僕は人間だ、意地だけでは身体がもたない。無理やり口に詰め込むと餅のような触感で、牛肉に似たなにかは塩辛く味付けされていた。自分で思っていた以上に身体はエネルギーを欲していたようで、黙々と咀嚼を続けているうちにあらかた胃に収まり、それに伴い頭も働き始めてくる。悪魔の携帯食か……。舌の上でじっくり味を確かめてみると糖分もふんだんに含まれているようで、かなり栄養価が高いことは予想できる。戦が長引いたら僕、服のサイズを変えなきゃならないかもな……。
 魔界の空を覆う闇はいまだ開ける気配はなく、両軍の野営地はひっそりと静まり返っている。長い夜が明けるまで、僕はあとどれだけ待たなければならないんだろう。


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2009/10/23

使徒たちが自分のことをひそひそ話してるのをうっかり聞いてしまってしんみりしちゃった真吾くんでした! 少年らしくなんにでも興味を持って、危機的状況なのに無心に遊びふけったり、悪魔たちの戦争に興味を持ったり、そんな真吾くんってかわいいなあと思うので細々書いてしまいましたv
「こんな状況なのに良い食いっぷりだよなあ〜」は25話のことです。館の悪魔軍の軍旗も25話で一度でています。説明になってない説明図を描きましたv