ユートピア「53話 小さな魔術師」


 十二使徒の説得に成功したかどうか確認できないまま回廊を渡り、一番最初に目に着いた書庫に滑り込む。床から天井まで書物がぎっしり詰め込まれていて、日の出を描いたタペストリーと白いハイビスカスの鉢植が部屋に彩りを添えていた。

 最果ての地はほとんど孤島である。幸運なことに領土の大半が海に囲まれているため、攻めにくく守りやすい恵まれた国だった。迫りくる夕闇のなか、領内の人々が灯す光の連なりに真吾は安堵する。なにはともあれ、今日のこの一日は乗り切れたわけだ。
 与えられた王さま役は、思ったほど楽しくない。真吾がもっと大人ならまた少し話は違っただろうが、権力を武器として戦うには幼すぎたのだ。「時期尚早」真吾の直感は、まさに正しかった。最果ての地を造りだした人物とその目的について分かりかけてはきたが、十二使徒と共に一直線にユートピアを目指せるほど真吾の思想は固まっていない。なにもかもまだ早すぎるのだ。

 薄暗い書庫の内部、うっすら埃の積もった巻物の山をつぶさに観察してから、真吾は書き物机の燭台を手に取った。魔術の修行もそろそろ本格的にしたかった。たとえばファウスト博士のように、強大な悪魔でさえ退けることのできる力を……。超自然的な力を引き起こすには、精神も肉体も完全にリラックスしていなければならない、僕はそれを知っている。どうすれば魔の理を動かすことができるか知っている。たとえばこの蝋燭は燃えたがっていて、あとひと押しの力を待っている、それはごく自然なことだと、心の底から信じ込まなければならない。真吾は炎が揺らめく場面をくっきり思い浮かべ、実際に熱を感じられるほどしっかりと物体を捉え、さらに数十秒間凝視する。そこで真吾はすっと目を細めると、蝋燭の芯に慎重に息を吹きかけた。真吾の精神に応え、小さな炎が揺らめきながらすうっと灯り、燭台を中心に書庫を柔らかく照らし出す。炎を生み出すのは比較的単純な魔術で、昔はタロットカードを使ってよく練習したものだ。人間界における暗黒の時代に生を受けていたら、僕は間違いなく魔女として糾弾されてるな。これだけ集中してマッチ程度の火力だ、実戦では使い物にならない。まだ、いまのところは。

 炎の魅力にすっかり引き込まれていた真吾は、声をかけられるまでメフィスト2世の存在に気付かなかった。
「蝋燭の蝋はすぐ燃えるのに、なんで芯のほうは燃えないで残ってんだろうな」
 メフィスト2世の半ば独り言のような呟きに、真吾は揺らめく炎から目を離さずに答えた。魔術と科学の矛盾は、おいおい解き明かすことにしようと考えながら。
「燃えてないわけじゃないよ。蝋が溶けている間は、芯の温度が上がらないんだ」
「ふーん、ややっこしいんだな」
 たいした意味があるわけではなかった、ただこうしているだけで、他愛もない会話を交わしているだけで、真吾は落ち着いた。
「よく僕の居場所がわかったね」
「主人の居場所くらいはいつでもわかる」
 主人という呼び名に、メフィスト2世はメシアとしての自分と話がしたいのだと悟り、真吾は幾分緊張した面持ちで振り返った。
「今度はどんな問題が起きたんだ?」
「気付かないか?」
 メフィスト2世はステッキで床をとんとんと叩いて見せた。促されて初めて真吾は異常に気付く。炎を灯すのに夢中で気付かなかったが、分厚い運動靴の底を通して、大地が小刻みに振動しているのがわかる。振動はどんどん激しさを増し、鉢植がぐらぐら揺れだした。壁に掛けられたタペストリーが大きく波打ち、持ちこたえられずに床に落ちる。

「いい知らせと悪い知らせがあるぜ。どっちから聞く?」
「いい知らせから聞くよ」
「いまのところこの国は無事だ。南方勢力はまだ侵攻を開始してない。もともと地理的に有利だからな」
「悪い知らせは?」
 メフィスト2世はそこで少し言い淀み、幼い顔に不釣り合いな渋面を作って答えた。
「館の悪魔の軍勢がやられた。やられたというより、しばらくこの国に近づけないだろうな」
 真吾は無言で書庫を飛び出すと、塩辛い強風に目を細めながら回廊を走り抜けた。大聖殿の両脇に聳える塔へと続く螺旋階段を、呼吸をするのももどかしい勢いで登り始める。肺は空気を求めて喘ぎ、足はもつれ、何度も転びそうになりながらもてっぺんに辿り着いた真吾は、塔の矢狭間から国境を見下ろした。
 確かに、この最果ての国はまだ無事だった。しかし、国をぐるりと囲む防壁の外側ではエメラルドグリーンの海水が渦を巻いて空高く舞い上がり、海から生まれた水の大蛇が鎌首をもたげていた。国境に布陣する同盟軍の大半が魔力を帯びた海の妖に蹴散らされ、撤退を余儀なくされている。
「僕のせいだ……僕は同盟軍の指揮官になんと言った? 兵力の大半を陸に集中させ、空海の防衛を手薄にしたのは、僕の指示があったからだ。僕の責任じゃないか」
 前哨戦はまだ終わっていなかったのだ。認めたくない。認めたくないけれど、第一ラウンドは僕の負けだ。「悪魔くん」として戦ってきた中で初めての敗戦だった。続く第二ラウンドでこの手痛い失態を取り戻せるかどうか、すべては真吾の手腕にかかっていた。


 夜の戦場に小さな悪魔が舞い降りた。年の頃はせいぜい十歳前後、血と埃にまみれた合戦場において不自然なほど手入れの行き届いたタキシードを着込み、体重を感じさせない猫の動きで地面すれすれに浮かんでいる。真昼と見紛うほどの輝きを見せる月が、あどけなさを残す少年の顔をくっきりと浮かび上がらせている。敵対する南方勢力およそ一万五千の前に立ち塞がり、挑発的な眼差しを投げかけているこの少年の悪魔こそ、埋れ木真吾の第一使徒メフィスト2世だった。
 南方勢力の敵意に満ちた視線とはまた別に、この少年の悪魔を観察する者がいる。岩棚の陰に身を隠し様子を窺っているのは同じく十歳前後の少年、ただしこちらは人間の子どもだった。人間界での名を埋れ木真吾といい、それよりもよく知られた通り名として「悪魔くん」があり、最近では「最果ての地の少年王」とも呼ばれるようになっていた。

 同盟軍である館の悪魔の軍勢は、敗れたわけではない。ただ、体勢を立て直し再び国境に布陣するまで何日か時間が必要だった。
 でも、それじゃ遅すぎる。南方勢力は最果ての地の防壁を破壊し、侵略を開始するだろう。

 辛うじて残った同盟軍は歩兵連隊一つきりだ。兵力にしてわずか二千、孤立無援よりははるかにましだが、一万五千の南方勢力をそういつまでも抑えておけない。残りの兵力が合流するまでどう戦えばいいのか、真吾の苦悩は増すばかりだった。
 ここで侵攻を許してしまえば最後、この国は終りだ。それはとりもなおさず、真吾のユートピア建設の頓挫も意味する。真吾は少しでも時間稼ぎをするため、歩兵連隊の三分の二を前線に配置し、交渉役として第一使徒メフィスト2世を派遣したのだ。

 真吾が息をひそめて見守る中、メフィスト2世は朗々たる声で敵軍に告げた。
「俺は最果ての地を統べる王、悪魔くんに仕える者だ。主である悪魔くんの命を受けてお前たちに話をつけにきた。無知蒙昧な輩のために教えてやるが、名をメフィスト2世と言う。一度だけ言う。さっさと失せろ。尻尾巻いて逃げやがれ。さもなきゃ八つ裂きにしてやる」
 メフィスト2世のあまりに好戦的な口上に真吾は絶句した。「穏便に話をつけて少しでも時間を稼げ」と命じたはずが、なにをどう解釈してこうなったんだ? とはいえ、それぞれの悪魔の特性を考えて指揮するのはこの僕なのだから、メフィスト2世ばかり責められない。悪魔の基準で物を考えるのは難しいな。
 メフィスト2世は優秀な戦士だったが、交渉役を任せるには血の気が多すぎる。僕は新しい戦術を考えなければならない……。

 メフィスト2世の健闘を横目に、真吾は一歩足を踏み出した。メフィスト2世は尚も言う。
「……いまなら悪魔くんの慈悲にすがることもできるぜ、荷物まとめてとっとと消えやがれ」

 砂浜を突っ切り、岩棚を利用して身を隠し、真吾は南方勢力の布陣する野営地を目指し黙々と歩き続けた。本来の目的は、同盟軍が体勢を整えるまでの時間稼ぎのはずだった。歩兵連隊で威嚇しながら第一使徒を交渉役とし、突破口を見つける。メフィスト2世にもそう伝えたし、最果ての地で待機する他の仲間たちもそのつもりでいる。けれどもその間に真吾は、たった一人で敵陣を偵察するつもりだった。メフィスト2世はかんかんに怒るだろうな。仲間の悪魔には「時間を稼ぐことさえできればだいじょうぶだ」と言ったものの、今回ばかりは真吾の嘘もそう長くは通用しない。状況は八方ふさがりで、神さまでも出てこない限り侵攻を食い止める手立てはない。仮に神がいるとしても、僕の味方じゃないだろうけどな。

 血生臭い戦場には不釣り合いなほど清涼な風が吹き抜け、夜の砂浜を慎重に歩く少年のマントを揺らしている。一度だけ立ち止まって振り向くと、月明かりのもと小さな足跡が点々と刻まれているのが見えた。絶え間なく吹き続ける風が痕跡を消してくれるだろう。僕は歩く、魔界の最果て、陰謀渦巻く戦禍の中、世界を変革するという野望を胸に。メフィスト2世の声が徐々に小さくなり、やがて完全に聞こえなくなった。

 これは現実逃避だと心の片隅で考えながら、こんなことをしてもなんにもならないと思いながら、南方勢力の野営地を偵察するという建前のもと真吾は歩き続ける。馬鹿げてる。僕はいかれた指揮官だ。僕ひとりで敵地に潜り込んでどうしようっていうんだ。


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2010/02/06
10/05最果ての謎が矛盾いっぱいなのでちょっとだけ修正