ユートピア「55話 罰のない罪」


 南方勢力と館の悪魔軍の本隊が奏でる戦の咆哮が潮風と共にやってくる。濃厚な魔の香りが最果ての国に忍び寄り、本隊から分断された歩兵連隊の焦燥感をつのらせていた。館の悪魔軍と火花を散らしながら、南方勢力のやつらは様子を窺っている。罠を警戒して慎重になっているんだ、なにしろ相手は東嶽大帝を倒したこの僕、悪魔くんなんだからな。だけど生憎だったな、僕にはお前たちを止める有効な手だてなんてなにひとつないんだよ。真吾は自嘲交じりに呟いてから、残された兵力でどう対抗するかという難問に取りかかった。館の悪魔軍の本隊が来るまで南方勢力が待ってくれるはずもない。最果ての防壁に残された同盟軍の数は歩兵連隊が約二千、そして真吾の十二使徒と、およそ争いには不向きな最果ての民たち。たった十二の悪魔と共に東嶽大帝の軍団と戦い勝利した過去の栄光を考えると、そう悪い数字でもないと思いたい。

 最果ての国を囲む防壁の門扉は固く閉ざされ、その内側では同盟軍が歩哨を務めてくれている。さらに奥の市街地へ続く森には軍営が敷かれていて、二重に守られた国はいまのところ平穏だった。
 悪魔兵たちの顔には疲労と倦怠が色濃く表れていて、単純明快な解決法を求めていた。誰に? もちろんこの国の最高司令官で王である僕にだ、彼らの上官は本隊にいて、ここは孤立無援なのだから。誰も彼もが僕に答えを求めるけれど、僕が与えられるものはなにもない。

 真吾を取り囲む十二使徒の表情は沈鬱で、戦がどれほど緊迫しているか嫌でも意識させられる。そんな不穏な空気を追い払うように真吾はあえておどけた調子で、わざわざ一人称まで変えていった、
「俺が負けたことなんてないだろ? だいじょうぶだから任せとけって」
 俺はいままで無敵で最強で負け知らずなメシアだったじゃないか。胸をそらして悪ぶってみせる真吾にメフィスト2世はにやりと不敵な笑みを浮かべ、ユルグと鳥乙女と妖虎の口はほころび、百目、幽子、ピクシー、サシペレレはくすくす笑いを漏らし、こうもり猫は扇子をひょいと取り出し、ヨナルデパズトーリは腕の隙間から本を落としかけ、象人と家獣は身体をゆすって地面を軽く振動させた。僕はつくづく思うんだけど、笑う余裕があるうちはまだ希望があるよな、きっとさ。

 都市の入口にある壮麗なアーチを抜けた先には歩兵連隊がすっぽり収まるほどの空間があり、ちょっとした集会には持ってこいだった。中央には十二本の支柱に支えられたドーム型の天井がついていて、おあつらえ向きの演壇まであったので、真吾は決戦に向けて最後の仕上げに取り掛かる。
 目をそらしてはいけない純然たる事実は、この戦力差でまともに戦ったら完膚なきまでにやられるということだ。最果ての謎を完全に解き明かすまで、なんとしてでも南方勢力の侵攻を食い止めなければならない。絶望の色濃い戦の音色は国境付近まで迫っていて、兵士たちの士気はがた落ちで、僕がしてあげられることは限られている。僕にできるのは、僕がしたいのは、力でもって制圧することではなく、心に語りかけることだ。

 メフィスト2世は炎の塊を上空に向けて派手に放ち、悪魔兵たちの注意を引いた。破裂した炎の小さな欠片が第一使徒の青白い顔を朱に染めている。
「これから俺の主人が話す。いまはお前たちの主人でもある。黙って聞け」
 淡々とそれだけ告げるとメフィスト2世は真吾の背後に下がった。野次はひとつも飛んでこなかった。
 真吾はちろりと唇を舐めて湿らせると、ゆっくりと兵士たちを見渡した。
「僕たちは不当な攻撃を受けている」
 真吾はごく穏やかに切り出した。
「君たち悪魔も知っての通り、僕、埋れ木真吾は、東嶽大帝を倒した。東嶽大帝は幾多の罠を仕掛け、ただの人間の子どもでしかなかった僕を殺そうとしたけれど、僕は屈しなかった。東嶽大帝が死ぬか、僕が死ぬか、そのどちらかしか選択肢はなかった。だから僕は決断をした、どちらか一方の死でしか戦を終結できないのなら、倒れるのは東嶽大帝のほうだと」

 真吾はここで一旦言葉を切った。なにをいおうとしているのか自分でもよくわからないまま話し続け、そうしているうちに断片的な思考がはっきりとした形を取り始める。自分を信じろとみんな口を揃えて僕にいう、僕は強烈なカリスマですべてを惹きつけるすばらしい救世主だからと。だから僕は自分を疑いながらも信じる振りをし続け、いつかそれが本物になればいいと願っている。
 勝った国が正義になるんだ、それくらい僕にだってわかる。いくら我こそ正義なりと理想を振りかざしても、最後に笑えなければ意味がない。その点では人間界も魔界も大差ない。だから僕は生きて勝たなくちゃならない、なんとしても、地に這いつくばってでも。

 僕がいますべきことは?
 最果ての民と神官たち、そして十二使徒は真吾に無条件で従うが、問題は同盟を組んでいる館の悪魔軍だった。南方勢力一万五千に対して防壁内に残された同盟軍の兵力はわずか二千、指揮官である僕はなんとかして兵たちの士気を回復させなければならない、そのためには、そのためには……念頭におくべきなのは、館の悪魔が治める一族はよくいえば洗練された品のいい連中で、悪くいえばお高くとまった貴族趣味だ、彼らの自尊心を目いっぱいくすぐってやればいいのか? いや、そうじゃない、それじゃなにも変わらない、作為的な言葉は嘘に敏感な悪魔の心に響かない。

 そこで真吾は真っ向勝負にでることに決め、考えながらすぐさま実行に移した。自分ではよくわからないが、誰かが真吾を評するとき、決まって口にするのがカリスマ性だった。真吾は、「悪魔くん」は、良くも悪くも他者を強烈に惹きつけるというのだ、たとえ絶望のさなかにあろうとも。だから真吾はそれに賭けてみることにした。真吾の思考のスピードと応用力の高さは、百戦錬磨の悪魔たちでさえ舌を巻くほどだった。

「ここにいる皆は、信念も、生きる目的もばらばらだ。種族すら違う。僕はこの場にいるただ一人の人間で、君たちは悪魔で、最果ての民はそのどちらでもない。魔界にも国があり、文化があり、それぞれ統率者がいる。君たちの王、館の悪魔がいい例だ。人間である僕は考えた、これが意味することはなんだろうと。答えはいうまでもない、僕たちには大きな共通点があり、それこそがこの戦の大義なんだ。その共通点とはなにか? それは、君たち悪魔も、僕が属する人間も、最果ての民も、高度に洗練された社会を持つ、知性ある種族であるという点だ。獣のように気まぐれに、刹那的な欲求を満たすために本能のまま戦い欲望のまま動く、こんなのは知性ある生き物のやることじゃない。野をうろつき牙をむいて他を威嚇するような、本能でしか動けない動物と僕たちの違いはそこにある」
 小細工なしの体当たりとはいえ、真吾にはそれなりに勝算があった。真吾の同盟軍は、館の悪魔から派遣されたエリートたちだ。館の悪魔の饗宴に放り込まれたとき、メフィスト2世はなんといっていた? 無意味に襲いかかってくるような下品な輩はいない、そうきっぱりといい切っていた。そんな館の悪魔が治める国の軍隊なら、品性も規律も高い水準にあると考えていい。ということはだ、僕の甘ったるい理想もある程度は通じるんじゃないか?

 真吾はそこで再び一呼吸入れ、大きなためを作った。腹に深く空気を取り込み、一息に絞り出す。自分でも驚くほどしっかりした声が真夏の乾いた大気に響き渡った。
「僕たちが守ろうとしているものはなにか? 僕たちはなんのために戦おうとしているのか? ここにあるのは土と木と水と空、そして石と木でできた建物、守るべきはこれだろうか? 違う、僕たちが命がけで守ろうとしているのは、そんな無機質なただの物なんかじゃない! いまここで呼吸をし、生きている種族を守るために、自分の信念を守るために血を流そうとしているんだ! 個々の信念は確かにばらばらかもしれない。でも、けだものに成り下がったら僕らの信念なんてなんの意味もなくなる、それだけは確かだ! だから戦うんだ! 君たちはメシアたる僕の誇り高き同盟軍であり、最果ての防衛という崇高な目的のために集まってくれた気高い一族だ! この地を穢す者がいるというなら、僕たちは一丸となってそれを迎え撃ち、蹴散らそうじゃないか! 誰のためでもない、自分の信念と誇りのためにだ!」
 同盟軍の士気を上げるためとはいえ自らメシアと名乗るのは躊躇いがあるし、ちょっとかっこつけすぎたかなと真吾は思ったが、一瞬の間をおいて割れんばかりの歓声が押し寄せてきた。よくよく観察すると、感極まって涙ぐんでいる悪魔すらいる。ある程度どころじゃなかった。「悪魔くん」となってから真吾の悪魔観は大きく変化したが、いまなお現在進行形で塗り替えられつつある。そういえばメフィスト2世も、初対面の印象からは考えられないくらい情に厚くてお兄さん気質で涙もろいもんなあ。

 異様な盛り上がりのなか、悪魔兵たちの歓声に応えてメシアらしく敬礼めいたことをしてから、真吾は足早に大聖殿の塔へ向かった。悪魔兵たちがここまで感銘を受けてくれるなんて、まったく予想外だったな。ユートピア建設が現実味を帯びてきた気さえするよ。
 メフィスト2世、百目、幽子は真吾に続いたが、残りの使徒は歩兵連隊と共に防壁内外を警戒している。使徒たちはめいめいくつろいだ姿勢を取り、真吾は得意の瞑想に入る、いつもの光景だ。
「みんな、ちょっと聞いてくれ。ああ、そのまま、楽な姿勢のままでいいんだ、ほとんど僕のひとりごとで、ただ誰かに話したいだけだから」
 真吾は石壁にぐったり体重を預ける。横目でちらりと開け放たれたままの扉をみると、大神官が通り過ぎるところだったので、小さく手を振って会釈に答える。
「あの大神官のことなんだけど……正確には、彼個人じゃなくてこの最果ての国のあり方なんだけどさ。僕はまがりなりにも王さまじゃないか、だからこの国のやり方で南方勢力に立ち向かおうと思ったんだよ。そうなると当然、気になるのはこの国の法だ」
「悪魔くんってさあ、わざわざ面倒くさいことして苦労をしょいこむのが好きだよな」
 メフィスト2世のからかい交じりの言葉を真吾はまあねと受け流し、百目と幽子の純粋な好奇心に後押しされて先を続ける。
「この最果てにおける罪と罰はなんだと思う? 罪のほうは簡単なんだ、罪の概念は僕らとたいして変わらないから。問題は罰のほうなんだよ。罪に対する刑罰。なんだと思う?」
 質問の形をとってはいたが、真吾は答えを期待して語りかけているわけではなかったし、使徒たちもそれはわかっているので少年の気がすむまで静かに聞いてくれている。こうなった真吾は誰にも止められないのだ。真吾は遠慮なく続けた。
「もう、ほんっとうに驚くべきことだよ、これは! ないんだよ、罰が。仮に、最果ての民がなにかちょっとした罪を犯したとする。せいぜい、朝の奉仕の時間に遅刻したとかそんな程度だろうけど。そうすると、その民は自分を深く恥じる、それがすなわち罰なんだ。信じられるか?」
 真吾の脳裏に大神官の穏やかな言葉が蘇る。我々が自分たちの道徳規準から外れた行動を取れば、我々は自らを恥じるでしょう。それが罰です。それで十分ではありませんか……。
 真吾は目を伏せ、きれいな菱形に敷き詰められた石の床を眺めた。ひょっとすると僕はまだ、大きな思い違いをしているんじゃないか? レラジェとの会話をきっかけに謎を解く手掛かりをつかんだつもりだったけれど、それでも僕はなにかを見落としている。最果ての地を覆う不可視の結界は、本当の問題と答えを巧みに隠し続けている。

 なにかが不自然だ。僕の考えでは説明がつかないことが多すぎる。
 最果ての国の民は温厚な種族だ。罪に対する罰が存在しないほどに。
 僕はなにを見過ごした? 外敵の侵入を許したのは種族全体が温和な性質だから、本当にそれが理由か?
「……おかしいぞ、あんな偉大な人がこんなミスを犯すだろうか」
 無意識のうちにぽつりと呟くと、メフィスト2世が大あくびをしながら真吾を見た。
「誰のことだよ」
「おかしいと思わないか、メフィスト2世」
「いやだからなんの話なのか俺ぜんぜん説明されてねえけど気のせいか? 気付いてなさそうだから教えとくけどさ、百目と幽子はとっくの昔にどっか遊びに駆けて行ったぜ。悪魔兵相手に演説してから何時間経ったか、それも教えてやるか?」
「侵略戦争が起こることくらい予想できたはずなんだ」
「毎度のことだけどさあ、俺の話ぜんぜん聞いてないだろ」
 たっぷり十分以上経ってから、真吾はようやく顔を上げて第一使徒を見た。第一使徒は長椅子に半ば寝そべって退屈そうにステッキを回転させている。
「そんなことはないよ。ちゃんと聞いてる」
「嘘つけ。ていうか反応遅えよ! じゃあさっき俺が話したこと全部いってみろよ」
 真吾は一字一句違えることなく正確にメフィスト2世の言葉を暗唱してみせた。今日一日の間に発した言葉すべてをだ。なにかとても疲れたようで、メフィスト2世は頭を抱えている。
「メフィスト2世に説明するのはいいんだけど、僕の推理はまだ不完全なんだ」
「別にいいじゃねえか、いまわかってることだけで」
「僕はこうみえて完璧主義なんだ」
「戦争中だけでいいからそのこだわりは忘れろ」
「うーん……じゃあ我慢する」
「その前に一ついっとく。あのな、普通はなにか考えるときは、そこにいくまでの過程ってもんがあるんだよ。悪魔くんはそれがないからいきなり話がぶっ飛ぶんだよなあ。いいか、俺のこと兄貴だと思ってよく聞いとけ。誰かになにかを説明するときはぜんぶ最初から、あいだを省かないで話せ。でないと普通、理解できねえよ」
 珍しく落ち着いた調子のメフィスト2世に兄のように諭され、真吾は小さく口をとがらせる。そういえば、算数のテストでも答えしか書かないからいつも減点されるんだよな。途中の計算式も書けっていうけど、僕にはそんなの必要ないし無駄なことだと思っていた。
「……努力はしてみるよ」
「まったく悪魔くんは、頭いいくせに変なところで抜けてんだから世話が焼けるぜ」

 腕を組んで胸をそらし、やたら兄貴ぶってみせるメフィスト2世に、真吾は少々むくれながらも説明を始める。
「ここはほとんど完璧なんだ……少なくとも、この国の創始者にとってはそうだったんだと思う。この地を造って結界で囲み、僕に託してくれたまではいいけど、いまの僕の手には負えない。とても王になんてなれない。だって、僕よりも大神官たちのほうがよっぽど人格者だよ。結界が解けるのも僕が来るのも早すぎたんだ。その場合――」
「待て。いきなり話がぶっ飛んでるぞ」
 さっそくのメフィスト2世の突っこみに、真吾はため息をついた。最初からまったく省かずに? それって思った以上に難題だな。
 熱気で汗ばむ額を軽く拭い、真吾は大きく開かれた窓から空を見上げる。静かだった。都心部の中心に位置する塔は兵士たちの駐留する防壁から遠く離れていて、喧騒とは無縁だった。始めから、省略なしで……。
「この最果ての国の創始者は、メフィスト2世もよく知っている人物だ。本当なら、この地にきてすぐにでも気付くはずなんだ。よく考えてみろよ。これは結界であり、目くらましなんだ。ソロモンの音色を奏でられるたった一人の存在を王として戴き、十二の神官がいて六芒星をシンボルとする国。僕を強烈に惹きつける国。僕の出現に合わせて現れ、不自然なほど警戒心がない国。そしてこの地に着いた途端、『ソロモンの笛』が大きく反応した。これで気付かないわけがないのに、僕たちは最果ての地を覆う魔力によって惑わされていた……メフィスト2世、これをよく見ていてくれ」
 真吾は右手の人差し指を立てると、メフィスト2世の目の前でゆっくりと揺らしてみせた。指先とメフィスト2世の目の動きが一体となり、心臓の鼓動が聞こえるほど集中したところで、すっと動きを止める。そこで真吾は出し抜けに、ぱんと大きく手を叩いてメフィスト2世の意識に揺さぶりをかけた。きっかけはなんでもいいのだ、幸い浄化や補助の白魔術は真吾の得意技だった。ぽかんとしたメフィスト2世の表情がみるみるうちに険しくなり、やがて瞳に理解の灯が浮かんだ。
「わかったか?」
「なんだこれ、信じられねえな……こんな当たり前のこと、なんで俺たち気付かなかったんだ?」
「まったくだよな。ソロモン王の用意周到さには、さすがの僕も驚いたよ」


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2010/09/02 (9/3悪魔くんの演説ちょっと修正・10/5最果てについての悪魔くんの説明も修正)

やっとのことでここまで書けたので区切りのいいところで更新しました! ここに到達するまでめっちゃ長かったです! ちなみに、館の悪魔の饗宴〜は6話のことです。ソロモン王なのは一目瞭然なんですが、見えない結界に惑わされてそれに気付かなかった→真吾くんがいち早く気付き、メフィスト2世に種明かし☆今回のマイ燃えポイント◎俺っていってみた悪魔くん・悪魔兵相手に演説をかっこよく決めた悪魔くん・お兄さんなメフィスト2世ですvやっぱかっこよく冒険する悪魔くんは燃えますよね!