ユートピア「56話 幼年期の終わり」


 ときどき真吾は、ある種の懐かしさと共に東嶽大帝を思い出す。
 東嶽大帝は僕の心と身体に叩きこんでくれた、命のやり取りとはどんなものなのかをだ。真吾が足を踏み入れた世界は十歳そこそこの子どもの命なんて紙くず同然、同情はなし、救いの手もなし、待ったもなし、倒れればすぐさま止めの一撃を刺しに来る。残酷だけど刺激的だ。持てる力のすべてを使い極限まで頭脳を研ぎ澄ます、掛け金は自分の命、そんな興奮を味わえる手段を僕は他に知らない。真吾にとってここ一連の騒ぎは、うんざりするのに止められない不健康な娯楽の一面も持っていた。これまで何度も直面した危機、そのときの真吾の選択は考えられるもっとも穏便な手段というわけでもなかった。
 特に好戦的な性格ってわけでもないのに、そのうちメフィスト2世も青ざめるくらい喧嘩っ早くなったらどうしようかな、なんてことも冗談半分で考える。

 ともかく、東嶽大帝のおかげといっていいかどうか、真吾は戦士の一面も持つようになった。ただの悪魔召喚士だけでなく。たとえば真吾はいま食事をしているが、これは朝食でも昼食でも夕食でもない、ただ食べるものが目の前にあり、食べる時間があるから口に入れているだけだ。次いつ食事を取れるかわからないからとにかく腹いっぱいに詰め込む、東嶽大帝との長い長い戦いのさなか身についた悪癖だった。そして、理屈では説明できない野生の勘のようなもの、第六感とでもいうべきもの、戦を生き抜くために必要不可欠ななにかも同時に手に入れた。
 そのおかげで真吾は歴史が動く瞬間に立ち会うことができる。たとえばいまがそうだった。明けきっていない空に紫がかった閃光が走り、続いて風船が破裂したような音が響く。手際良く始まった侵略に気付いた最初の一人が真吾だった。

「使い魔でも送り込んでんのか?」
 同盟軍の斥候が戻ってくるよりも早く寝床から這い出し準備を始めた真吾に、メフィスト2世は不思議そうな顔を向けた。野営地は防壁内の森に点在していて、真吾も兵士と共に南方勢力の動きを待っていたのだ。
「それもいいな。でもこれはただの……第六感みたいなものだよ」
 シチューに浸したパンを口に運びながら真吾はもごもごと返事をした。最後の晩餐にならなきゃいいけどな、一瞬浮かんだ悲観的な言葉も一緒に飲み込みながら。

 戦闘準備を整えた兵士たちが天幕から集まり、防壁の上空に立ち昇る黒煙をじっと見つめている。好戦性と品の良さを兼ね備えた、屈強な兵士たちだ。
 防壁を乗り越えたとしても、都市に行きつくまでには歩兵連隊と十二使徒を突破する必要がある。最後の防衛線を崩される前にソロモン王の謎を解かなければ、事実上真吾の敗北だ。
 半分閉じた目をこすりながら、百目がよたよたと起きだしてきた。
「早く戦うのおしまいにしてママさんのところに帰ろうだもん……」
 まったく百目のいう通り、けれどもまだまだ旅は続く。いつかは誰かが立ち上がり、そしてもうごめんだと叫ばなきゃならない、みんなの横っ面を引っ叩いて目を覚まさせなきゃならない、さあその誰かは、救世主はどこにいる? いまだに信じられないけど、どうやらこの僕らしいんだよな。
 真吾は至極真面目くさった顔で両腕を組んだ。残念だけど、それは無理なんだよ百目。
「百目も見てるあの……朝ときどき一緒に見てるテレビの、算数とか道徳とか歌とか踊りとか、そんなのを教えてくれる番組があるだろ。歌って踊ってるうちに小さな事件が起きて、みんな頭を悩ませて、最後にすっきり解決して仲よくなるやつ。そして最後にちょっとした教訓が出てくる。人には親切にしようとか、意地悪はよくないよとかね。みんな、良いことと悪いことをはっきり教えてもらって、すっきりして朝ごはんを食べるんだ。でも……」
 でも現実は、なにが良いことでなにが悪いことだったのか、最後までわからないことばかりで誰も正解を教えてくれないんだ、なぜなら誰も知らないから。
 百目にそこまで言うつもりはなかったので、真吾はとっさに言葉をにごす。
「……でも、まだエンディングには早すぎるんだよ、百目。だからまだ、戦をおしまいにはできない。まだだめなんだ。最後に誰かが教えてくれるはずの教訓にはいけないんだ。もう少しだけ我慢してくれないか」
 いってしまってから真吾は、危うく噴き出しそうになった。誰かが僕に教訓を? 僕をそこらの子どもとして扱ってくれる? はは、ありえない、ありえない。僕は与えられる側じゃなく、与える側なんだから。僕が大人になるまで、僕の納得のいく形を見つけられるまで、世界は持ちこたえられるだろうか?

 有明の空に鐘の音が響き渡り、祈りの時刻を告げている。僕は戦争を始めた。よく熟れたプラムをデザート代わりにかじりながら、真吾はとりとめのない思考にふける。全身にまとわりつく風は湿気をたっぷり含んでいて、たちまち汗が噴き出してくる。
 真吾とは生きる次元の違う魔界では森は意思を持って動き朝とは違う場所で夜を迎え、不毛の砂漠の地では悪魔の少年たちが力強く駆け抜け、権力争いに奔走する悪魔は日夜血を求めて彷徨い、千年もの長きに渡り宴を開く悪魔がいるかと思えば、この最果ての地のように前人未踏の世界が息を潜めて真吾を待っている。もうどこから手をつけていいかわからないくらい、最高の冒険がうず高く積まれているのだ。戦の最中にそんな空想で興奮するなんて不謹慎かな。でもアインシュタインだっていってたじゃないか、知識には限界があるけれど空想は世界すら包み込む、だから空想は知識よりも重要だってさ。
 真吾は種を吐き出すと、爪先で地面に埋め込んだ。果汁でべとべとの指を舐めながら、素早く味方の様子を確認する。
 十二使徒と同盟軍はめいめい戦に向けて全身の魔力を高ぶらせていて、どこか気持ちが浮き立っているように見えた。なにか大きなものに挑み、勝敗はどうあれ力を尽くし、時には血を流してでも戦うのは楽しいのだ、それは僕にもわかる。

 ソロモン王によって造られた、彼の理想とするユートピアに、パズルの最後のピースになるはずだった僕が来た? 創始者はわかったが、この状況をどう解釈すればいいのか決めかねている。満ち足りた地に混乱したメシアが舞い降り、うつくしい調和のなかによどんだ戦を持ちこんだ。
 真吾は軽く頭を振り、自分の指揮下にある兵士たちを見渡した。

 こんなときなのに、こんなときだからこそ、真吾はかつて自分自身に向けて問いかけたある問題を思い出していた。いざというとき、僕は「悪魔くん」として冷静な判断ができるか、という問いだ。全ての指揮を執っている真吾が迷い、攻撃をためらい判断を誤れば仲間の命が危険に晒される。逆五芒星の男と対峙したときに強く意識させられた問題だった。いまこそその答えを出すときだ。僕の結論は?
 真吾は静かに口を開いた。
「僕らは強い、でも敵を侮るな。手加減する必要はない。戦闘が長期化する前に素早く、できるだけ敵の数を減らせ」
 真吾たちが生き残るために、夢を実現させるために、真吾個人の願いのために、眼前の敵を倒せ。
 十二使徒と兵士たちは、真吾の言葉に猛々しい鬨の声で応えた。大気が震え、梢から一斉に鳥が飛び立ち、当の真吾はといえば、僕は正しいことをしているんだとひたすら自分に言い聞かせている。
 そこで、喉がしくしく痛み始めた。不審に思いながらも真吾は締めくくる、
「僕らは絶対に――」
 ふいに声が裏返り、それから耳慣れない低音が出たので真吾はぎょっとしたが、構わず続けた。
「――勝つ! 本隊の到着を待つまでもない! 一人たりとも侵入を許すな!」
 普段の真吾より数段トーンの低い声だった。いずれ完全に変声期を終えれば出るであろう、低く落ち着いた声にほんの一時近づいていたのだ。すぐに元に戻ったが、真吾はなんとなく落ち着かない気分になっていた。悠久の時を生きる悪魔たちの中で、真吾は急激に、はっきりと自覚できるスピードで成長しつつある。これから十センチ、二十センチ、ことによるともっと背が伸び、全身の骨をぎしぎしさせて幼い少年の時代から遠ざかっていくのだ。
 もうもうと舞い上がる黒煙は、いまや防壁を超えて防衛線にまで迫っていた。インクの染みのような黒雲がみるみるうちに広がり、防壁を大きく揺さぶっている。轟音が大気を震わせ、跳ねまわる炎の塊が防壁を超え、森に飛び火し始めていた。辺り一面に充満する煙のせいで真吾の目はひりひり痛みだす。

 真吾は考えていた。
 どうして辻褄が合わないんだ? ソロモン王が造り、僕に託した最果ての国、僕じゃなくソロモン王が理想とする国、ソロモン王は僕になにを期待していたんだ? この最果ての国は、メシアが完璧なユートピアを造るための足がかりだと思っていた、そのためにソロモン王は僕に託したんだと。でも、そう考えるとどうしても矛盾が生じる。混沌とした世界に生きる未完成のメシアに国を託せば侵略戦争が起きるのは時間の問題だ、ここは好戦的な種族が住む魔界なんだから。
「ということは……僕の推理はそもそもの前提から間違っているのか? だとしたら、どの前提が間違ってるんだ?」

 最初の防壁が粉々に砕け、崩れ落ち、できた隙間から南方勢力が――敵兵が潜り込もうとしていた。ある特定の、真吾をつけ狙っているわけでもない悪魔をただ利害関係が一致しないという理由で敵と認識するのは初めてで、その事実にショックを受け、そんな悠長なことを考えている場合じゃないとはねのける。内心の葛藤とは裏腹に、真吾の口からはするすると攻撃命令が飛び出していく。
「襲撃に備え、陣形を整えろ! 都市に侵入される前に叩き潰せ! とにかくやられる前にやれ!」

 最初の敵兵十数名が血を求めて防壁を突破したが、兵士たちの攻撃は素早く容赦がなかった、真吾の命令通りに。防壁の隙間を乗り越えバランスを崩した敵兵に、十二使徒と同盟軍の魔力の嵐が襲いかかる。真吾は自分の命令によって敵兵たちが倒されるのをじっと見つめていた。その余波で背中の草色のマントが大きく揺れる。
 僕は戦争をしている。
 僕は南方勢力が憎いわけじゃない。でも、嫌でもやらなきゃ僕らが死ぬ。
 敵兵と真吾の兵士たちが衝突し、肉を穿ち魔力を破裂させる音が陽光あふれる森に響き渡る。そんな凄惨な音をバックミュージックに、真吾は考え続ける。
 最果ての国。ソロモン王が造り、愛したであろう清浄な地。罪と罰。刑罰の存在しない夢物語の中で最果ての民はずっとうまくやってきた、そして結界が破れ、異邦人が訪れた……真吾の思考はそこで途切れる。
 味方の兵士と敵兵が繰り出す魔力が四方八方に飛び散り、避けるので精いっぱいだったのだ。敵兵が放つ魔力のなかには強い酸を帯びたものがあり、触れたものすべてを腐敗させどろどろに溶かしている。瘴気にあてられた植物が瑞々しい新緑からまだらな茶に変色し始め、枯れかけた灌木を今度は味方の兵士が踏み潰して行く。
 真吾は思わず小声で罵った。
「くそっ、どいつもこいつもいい加減にしろ。この国をなんだと思ってるんだ? 第一、僕はいま考えごとをしたいんだよ!」

続く

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2010/10/11

一時ネット繋がらなかったりなんだり色々あってなにもしてないですが9月22日はサイト開設記念日でした☆『いざというとき、僕は「悪魔くん」として冷静な判断ができるか、という問い〜』は14話のことです。52・53・54話あたりをちょっとだけ修正(悪魔くんが最果てを完璧と言い切るのはおかしいので修正・悪魔くんの考えはあくまで仮説なので、最果ての謎について断言してる場面を修正)幼年期は終わりつつあり、ちょっと大人になってきた悪魔くんって個人的におもしろいと思いますv声が一瞬低くなって自分でびっくりしてる真吾くんとか。指揮官として甘さを捨てなきゃならないときもあるので、前回の反省も踏まえて悪魔くんなりに結論を出しました!
「幼年期の終わり」というサブタイトルですが、アーサー・C・クラークの著作に同じタイトルの傑作があります。めっちゃおもしろいですが虚脱感に襲われます、でもお勧めです!
東嶽大帝も、なんだかんだいっていまの真吾くんを考える上で欠かせない存在だなあと思います☆例によって、戦う悪魔くんはかっこいい……と締めくくりたいです!