ユートピア「14話 埋れ木真吾」


 忘れようもないあの男の姿を前にして、真吾は言葉がでなかった。どうしたんだ、説得するんじゃなかったのか。だが真吾は動けなかった。呼び出された使徒たちは状況が分からぬまま真吾と目の前の敵と思われる者たちをかわるがわる見ている。逆五芒星を作り出した男は、不思議なほど人懐っこい微笑を浮かべていた。
「もうすぐ子供の姿をした悪魔が来るとレラジェから聞いていたけれど、君がそうか。どうしてその姿で小学校なんかに通っていたのか、機会があったらの話だけど聞いてもいいかな? お仲間の悪魔と一緒とは、縄張りを荒らして悪かったね」
 真吾の沈黙をどう受け止めたのか、男は更に続けた。
「ところで、提案があるんだ。私と契約を結ばないか?」
 どうして、真吾の口から小さな呟きが漏れると、男はご丁寧にも答えてくれた。
「退屈だからだ。協力してくれるなら、それなりの代償は支払おう」
 男の目は穏やかだった。それなりの年月を生きてきた人間にしては澄んでいるといってもよかった。スーツの上着を片手にかけ、シャツを肘までまくり上げているその姿はありふれた普通の人間に見えた。真吾はそれが怖かった。これまで真吾の行く手を阻んできた「悪」とはあまりにかけ離れていたからだ。あくまで普通の人間でしかない男の柔らかそうな皮膚は、妖虎の爪がかすめただけでたやすく切り裂かれるだろう。知力も魔力も真吾のほうが遥かに上だ。だがある一つの点においてのみ、男は真吾よりも有利な立場にあった。男は目的のためなら手段を選ぶ必要のない、ある意味では自由であるという点だ。必要ならただの一瞬もためらうことなく僕を殺すだろう。

 だけど、僕には人殺しなんてできない。そうだ、僕にはそんなこととても無理なんだ。メフィスト2世が僕にいいたかったのは、たぶんこのことだ。全ての指揮を執っている僕が迷えば、みんなの命まで危険に晒すことになるんだ。いざという時、僕は「悪魔くん」として冷静な判断ができるか? それができないなら、僕はただの子供の埋れ木真吾でしかない。

 攻撃を仕掛けてくる悪魔がいれば真吾はそれを退けてきた。だけどこういう場合、一体どうすればいいんだろう。迷いは判断を鈍らせ、僕たちの力を弱める。分かっているのに。

 ふいにむせ返るような甘い香りが漂い、真吾の身体に緊張が走った。
「ああ、君がそうだったのか、シンゴ。この子は悪魔じゃない、人間の坊やだ。まさか君がそうだとはね、驚いたよ」
 男の脇にすっと立ち、緑の悪魔は笑った。耳まで裂けた口から小さな牙がびっしりと覗いている。
「君の情報は不確かなことが多くて困るよ」
 男は少しも困っているようには見えないのんびりとした口調でいうと、面白そうに真吾を見た。レラジェとその周りの悪魔たちからは、肉眼で見えるほど強い魔力の光が蜃気楼のように立ち上っていた。悪魔よりも遥かに多い人間たちは、状況が分かっているのかいないのか熱に浮かされたような目をしている。

 メフィスト2世は真吾の前に立つとステッキを静かに持ち上げた。ユルグは手の平を合わせて攻撃の構えを取り、妖虎は鋭い爪を床に食い込ませ上体を低く倒す。優雅に翼を広げた鳥乙女は戦女神のようだ。使徒たちは何も悪くない、ただ僕の指示に従うだけだ。僕はどうしちゃったんだろう。傷つけずに捕獲するなら、もっとこの場に適した使徒がいるはずだ。できるだけ戦いたくないといっておきながら、僕が選んだのは高い攻撃力を誇る使徒ばかりだ。相手の大半は人間なんだぞ、言動が滅茶苦茶じゃないか。昔の僕は、もっと冷静だったはずなのに。
 真吾の葛藤をよそに、レラジェは楽しそうに男に語りかけている。
「一旦引いたほうがいい。東嶽大帝は知っているだろう? あれを倒した子供だ、すぐに片付けるのはもったいない」
 くそ、勝手なことをいってくれるな。止めるなら今が絶好のチャンスだ。僕は攻撃を指示すべきだ。だけど……。
「状況から察するに奴らは敵だろう? 攻撃していいのか、悪魔くん」
 ユルグの問いに、真吾は曖昧に頷いた。どうしたら一番いいかなんて、今の僕には本当に分からないんだ。自分自身のショックの大きさに、真吾は驚いていた。
 緑の悪魔を中心に闇が集まる。何もない空間に亀裂が生じ、幾何学的な模様が浮かび上がった。転移の魔法陣だ。
「逃がすか! 魔力、稲妻電撃!」
 メフィスト2世の攻撃が男に迫る。男は慌てた様子もなく右手で大きく円を描いた。メフィスト2世の放った電撃が男とレラジェの手前で弾け飛ぶ。一瞬激しく散った火花に真吾の目が眩んだ。何度か瞬きして視力を回復させる。
「俺の稲妻を跳ね返しやがった……」
 たかが人間相手に、とショックを隠しきれない様子のメフィスト2世の脇をすり抜け、ユルグが狐火を放った。使徒たちがかばってくれているというのに狐火の威力は凄まじく、真吾のむき出しの腕はひりついた。地面が大きく揺れ、足元にいくつも小さな亀裂が走った。この歪んだ世界が崩壊しようとしているのだ。ほんの一瞬、見慣れた学校の風景、大勢の生徒たちが走り回る体育館がぼんやり見えた。本来あるべき正常な世界と重なり合おうとしているのだ。そして、奴らはこことは別のひずみに退却しようとしている。
「悪魔くん」
 僕の第一、第二、第七、第十使徒が指示を待っている。僕が決断しなければならない。ろくに考えがまとまらないまま、真吾は過去の戦闘の記憶そのままに機械的に命令を下した。
「メフィスト2世、ユルグ、妖虎、鳥乙女……あいつらを追って、捕まえるんだ!」
 命じられるまま使徒たちは攻撃を繰り出す。真吾はただそれを眺めていた。メフィスト2世が叩き付けた氷の魔力を、レラジェはたった今作り出したばかりの魔法陣に送り込み消滅させた。鳥乙女の作り出した旋風は男をひるませたが、吹き飛ばすにはいたらない。ユルグが生み出した灼熱の狐火を妖虎が受け止め、炎と共に吐き出すが、男の結界に受け流される。
 本当に僕はどうしちゃったんだろう。ソロモンの笛は今どこにあるんだろう。ファウスト博士はどうして連絡をくれないんだろう。人間界の異変に気づいてもよさそうなのに。本当に僕がメシアでいいんだろうか。僕は戦うのは嫌なのに。そうだ、僕は戦いたくないんだ。
 男とレラジェたちは魔法陣を次々と通り抜けて行く。真吾の命令に忠実に、使徒たちは後を追うべく魔法陣へ潜り込もうとしていた。
 真吾は叫んだ。
「待て! もういい、追うな!」
 突然の命令変更に戸惑いながらも、四人の使徒たちは真吾に従った。支離滅裂な指示を出したというのに、使徒たちは文句をいうわけでもなくやけに優しい目で真吾を見ている。メフィスト2世が真吾の肩にそっと手を置いた。不思議に思っていると今度は鳥乙女が静かに歩み寄ってきた。
「みんな、どうしたの? 僕は大丈夫だよ。それより、僕……」
 どうしてだろう、上手く喋れない。
 鳥乙女がすっと真吾の頬に指を滑らせる。静かに頬から離れた鳥乙女の指先がきらきら輝いているのを見て初めて、真吾は自分が泣いていることに気づいた。


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2007/12/11

超説明的になってしまった……とにかく悪魔くんラヴ! な毎日です!
指揮官な悪魔くんってめちゃめちゃ燃えます。アニメでもそういうシーンが好きでした、司令官な真吾くんってかっこいいですよね!