ユートピア「13話 ここではないどこか」


 北からやって来た突風が路上の砂埃を舞い上げていった。真吾は少しのあいだ息を止めてそれをやり過ごした。母親のいいつけでこの商店街にはよく来ているので、土地勘はある。人の気配は全くないし、鳥一匹飛んでいないけれど見慣れた光景を間違えるはずはなかった。レラジェの言葉を信じるのなら、この空間のどこかにあの男がいるはずだ。
 真吾は足元に転がっている小石を拾うと力一杯遠くへ投げてみた。後でちゃんと手を洗わないと。非現実的かつ危機的状況から逃避するようなのんきなことを頭の片隅で考える。予想していたことだが、いつまで経っても何の音もしない。今度は街路樹の脇に咲いている花を手折る。何の香りもなかった。

 等間隔で並んだ街路樹の間を真吾は歩く。店先に並んだりんごを手に取りしげしげと眺め、ふと思い立ち一口かじり、すぐに路上に吐き出した。手の甲で口を拭いながら、真吾はこの違和感の正体を考えた。まずいのではない。何の味も歯ごたえもないのだ。まるで砂でも噛んでいるようだった。
 この状況には覚えがあった。つい最近真吾が犯した人生最大の失敗、逆五芒星の結界だ。だが、あの時とは何かが違う。正常な何かが歪められたというより、これこそこの世界のあるべき姿だという気がしてならない。生気がまるで感じられないのだ。この世界にいくら水を注いでも花開くものは何もない、そんな気がする。

 真吾の頭に二つの仮説が浮かんだ。一つめ、ここは真吾の生きる現実世界だが何らかの結界のせいで空間が歪み、人々は異次元の狭間に眠っている。だが最初の直感を信じるならば、ここは現実の町によく似ているだけの、全く異質な場所のように思える。二つめ、ここは現実の世界を模した空間であり、逆五芒星によってできた町のひずみである。恐らく後者が近いのではないかと真吾は推理する。
 そして僕は、これからどこへ行くべきか? 緑の悪魔レラジェは案内するといっておきながら真吾を放り出したままだ。ひょっとすると、どこかで真吾の出方を見ているのかもしれない。だとすると、迂闊な行動は避けたほうがいい。心当たりならある。全てが始まったあの場所、この町の中心にある小学校だ。


 静寂に包まれた学校を真吾は歩く。あの時と同じ、奇妙な確信、直感があった。体育館の扉にそっと耳を押し付けると、微かに話し声が聞こえてきた。複数、それもかなりの人数だ。冷たい扉に額を押し付けて隙間から目を凝らし、真吾は驚いた。何てことだ、人間じゃないか。確かに悪魔もいるけれど、大部分は人間だ。遠くてよく見えないが、おそらく中央にいるのが逆五芒星を作った男だろう。切れ切れに聞こえてくる会話の断片から推測するに、どうやらあの男は一種の教祖のような立場に祭り上げられているらしかった。契約で結ばれているだけの悪魔はどうだか知らないが、少なくとも周りの人間たちの恍惚とした表情、狂気を孕んだ目から察するに間違いはなさそうだ。
 覚悟はしていたことだが、実際こうして人間と戦わなければならないとなると、真吾は躊躇する心を抑えられなかった。奪い取った力を返す気はなさそうだし、これだけの手勢を集めているということは真吾には想像もできない汚いやり方で何かを企んでいるのだろう。
 僕はみんなが考えているほど無垢でもなければ子供でもないと思っていた。だけど、この状況の前では僕は赤子同然だ。僕はあの人を説得して、そして救いたかった。僕の第一使徒メフィスト2世にもそう宣言したはずなのに、今となってはそれがどれほど非現実的で、そして傲慢な考えであったかよく分かる。僕は身近な仲間の助言をもっと聞くべきだった。僕はとんでもなく世間知らずの子供だったんだ。人間がこんなことをするなんて、僕は考えもしなかった。いや、考えたくなかったんだ。

 真吾はポケットから魔法の風呂敷を取り出した。慣れた仕草で背に羽織ると、体育館の向かいの通路に魔法陣を描く。また結界に阻まれる心配もあったが、不思議な予感があった。たぶん、大丈夫だ。この空間は前とは違う。真吾は額の前で両手を交差させると、少し緊張した面持ちで意識を集中させた。真吾と十二使徒との間に精神的な繋がりを持たせ、異界への扉を開くこの呪文を使う時、真吾はいつもわくわくした。本来なら少年の手には余るはずの巨大な力を駆使し、尋常ならざる力を呼び起こすことは、一歩間違えれば驕りと破滅に繋がる。真吾は常に自分を戒め続けてきたが、子供らしい無邪気な興奮や喜びを感じてしまうことはどうしようもなかった。
 相手の大半は人間だ。どうする、どうすればいい? 真吾は迷いを振り払おうと軽く頭を振った。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。出でよ、第一使徒メフィスト2世、第二使徒ユルグ、第七使徒妖虎、第十使徒鳥乙女!」
 薄紫色の煙が円の中心でぐるぐると渦を巻いている。真吾は手馴れた動きで魔の力を束ね、使徒たちを魔法陣へと導いた。大きな魔力のうねりに気づいたのか、扉の向こうが騒がしくなった。使徒たちが真吾の前に揃ったのとほぼ同時に扉が開き、中から数人の悪魔と、大勢の人間たちが現れた。


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2007/12/4

13話にしてやっと、まともにエロイムエッサイムができた! 否応なしに戦いに突入する真吾くん。まだ迷ってるけど、こんな風に冒険してる真吾くんが大好きなので、いろいろ妄想しちゃいたいです!