ユートピア「45話 ここより先、楽園 6」 メフィスト2世の炎の波動は怪物たちをなぎ倒したが、それと同時に背後に広がる瀟洒な建物も半壊させている。鳥乙女の旋風も、ユルグの狐火も同様だった。この町の歴史は終盤に近づいている、いまさら気にする人間もいないだろう。 三使徒との力の差は歴然で、普通なら負ける戦いではない。でも、数が多すぎる……。怪物たちは際限なく後から後から湧いて出てくる、いまは優勢でも戦いが長引けば負けるのは僕らのほうだ。戦闘の邪魔にだけはならないように、味方の流れ弾に当たらないように、真吾は素早く動き回ってはいるが、そういつまでも続けられるものでもない。頑丈そうな鉄の扉にはりついて攻撃をやり過ごしたところで、真吾は目を疑った。逃げ遅れたのか、ゾフィー。 「ここは頼んだ!」 真吾は扉の影から飛び出すと、一足飛びに広場を走り抜けゾフィーの腕をひっつかんだ。 「気をつけろよ!」 メフィスト2世の声を背に受けながら、真吾は手近な扉を蹴って開けると素早く滑り込んで錠をかける。少女の無事を確認しようと振り返ったところで世界が大きく縦に揺れた。途端に響き渡った甲高い子供の悲鳴はゾフィーと真吾自身のもので、揺れがおさまった後もしばらく耳のなかで反響していた。そっと両耳から手のひらを離し見渡すと、辺りは惨憺たる有様だった。ひしゃげた窓の外は瓦礫の山がうず高く積まれていて、室内はじっとり薄暗い。真吾は慌ててドアに駆け寄り錠を外したが、壁ごと斜めにかしいでいてびくともしない。 「くそっ、こんなときに冗談だろ……」 ドアよりは窓のほうがまだ脆そうだった。離れているようゾフィーに合図してから、真吾は部屋にあった椅子を大きく振りかぶって硬い床に叩きつけた。きれいに折れた椅子の足を窓の隙間にねじ込み、てこの要領で徐々に加える力を増していく。 真吾の内面は不思議と穏やかだった。呪術に支配されてからは、人々を救いたいという気持ちより愚かな彼らをやり込めてやりたいという思いのほうが強かったのだが。でもそんなことをしていったいなんになる? 彼らが愚かだというなら自分はいったいなんだっていうんだ。つまらない諍いはうんざりするほどみてきた、もう十分だ。 無理な力の込め過ぎで腕がぎしぎし痛んだが、真吾は気にも留めずに続けた。しっかりしろよ僕、男だろ。天を切り裂き地を揺さぶる戦の音色はどんどん遠ざかっていく。真吾の使徒たちはできる限り怪物の注意を町から逸らそうとしているのだろう。僕も早く後を追わないと……。焦燥感を振り払い、真吾はほとんど独り言のように背後の少女に語りかけていた。 「僕はさ……最初この町が好きじゃなかった。いろいろあって、最近いらいらしてたしね。でも考えたのは……町長も、町の人たちも、いいときもあれば、悪いときもあるんだって……。どんなにがんばっても、いつも善人でいることなんてできないんだ。僕だってそれは同じだ。特に最近の僕は悪いほうの僕だった。この町で過ごして、君たちと会って、僕はもう少しでなにか……」 もう少しでなにかをつかめそうなんだ。あとちょっとでなにかを破れそうなんだ。汗でぬかるんだ手をズボンで拭い、再び力を込めて窓を揺さぶる真吾の背後でゾフィーがぽつりと言った。 「私はシンゴがメシアだと思うな」 真吾はほんの一瞬手を止め、すぐに作業を再開した。呪術に冒された僕しか知らないのに、それでも僕に希望を見出してくれる人もいるのか。こじ開けた窓の隙間から細長い光が幾筋も入り込み、真吾の額を照らし始めた。いま誰かこの光景を目撃する者があったなら、人知を越えた強烈ななにかを真吾に感じたことだろう。 真吾にはもともと世界を救済したいという気持ちはなかった。ただ抑えきれない探究心が、心を虚ろにする孤独が、真吾を激しく駆り立てあの呪文を唱えさせた。円陣を描き、ひとつひとつの数字と記号に意味を持たせ、僕は……僕は深い、闇の底から悪魔を召喚した。僕を底なしの孤独から救いだしてくれた者を、僕の知らない知識をもたらしてくれた存在を、命をかけるに値する目的を与えてくれたなにかを。自分を救うことは、自分を取り巻く世界を救うことでもあった。いや、逆かな。世界を救うことは自分を救うことでもあった……どっちが先でもいい。僕が世界の闇に腹を立てるのはお門違いだ。なぜなら、僕自身も世界のあらゆる面、闇も含めたすべての部品の一部だからだ。 あらん限りの力を振り絞って窓を押し破り、真吾は太陽の下に躍り出る。頬をなぶる熱い風に夏の佇まいを感じ、この閉ざされた町でも四季は巡るのかと不思議だった。最後に一度振り返り、小さく手を振って見送ってくれている少女の姿にほっと安堵してから、真吾は表情を引き締める。メフィスト2世ともう一度笑い合うために、ユルグの文句を最後まで聞くために、鳥乙女にありがとうと言うために、真吾は力強く地面を蹴った。 逃げることもできた。その気になれば真吾はとことん自由だった。 白旗を揚げ降参し、すごすごと家に逃げ帰り普通の子供として過ごすこともできた。どこかで観察しているに違いない逆五芒星の男に泣きながら訴えればいい。僕はメシアじゃない、だからこのおかしな世界から救いだしてよ。なにもかもを放り出し、なりふり構わず敵に背を向けることもできる。 「でも、僕は馬鹿だからな。苦労するのが好きなんだ。飛んで火に入るなんとやらさ。楽しいだろ? 争いは嫌なものだけど、戦いそのものはちょっと興奮する。僕も男だからかな。それとも、呪術のせいかな。どっちでもいいか」 走りながら独りごちる真吾に、意外にも答えが返ってきた。 『ああ、坊やは見ていて本当に飽きない』 真吾は苦々しい思いで微笑んだ。逆五芒星の男の声は真吾の心に直に響き、離れることのできない影のようにぴったりくっ付いてくる。ここで逃げたら、僕は一生こいつの影につきまとわれる羽目になる。だから真吾は走る、血なまぐさい戦いの渦中、仲間たちのもとへ。死ぬのも戦うのも怖いけれど、時には死よりももっと悪いことがある。 そうして、真吾は戦闘の真っただ中に飛び込んだ。軽やかに町を突っ切りながら真吾は、いままで何遍も繰り返してきた一連の動作、ポケットからするりと取り出した魔法のマントを背にはおりソロモンの笛を胸元にかける動作を無意識のうちに完了させていた。 からからに乾ききっている赤茶色の地面には、鳥乙女の柔らかい羽毛が飛び散っている。ここは戦場で、真吾は遅れて到着した指揮官だ。荒い息をつき片膝をついているメフィスト2世の左隣で、ユルグが炎を練り上げ腕を大きく振りかざしている。真吾めがけて圧縮された魔力の波が押し寄せてきたが、鳥乙女の突風が弾き飛ばしてくれた。 「やれ、悪魔くん」 ステッキを杖代わりに立ち上がったメフィスト2世を、真吾は怪訝な顔で振り返った。 「俺たちが防御に全力を注げば、守りはほぼ完璧だ。その間に悪魔くんはソロモンの笛でこのふざけた空間を破ってくれ。俺たちの世界に帰るんだ」 いい作戦だよメフィスト2世。ただ、ちょっとした問題がある。それはなにかというと他でもない、いまの僕にはソロモンの笛が吹けないっていう問題さ。真吾はぐっと息をのみ込み、身体の震えを誤魔化した。 「いい考えだけどだめなんだ……いまはできない」 「なんでだよ!」 「とにかく、無理なんだよ!」 真吾とメフィスト2世が押し問答をしている間にも、怪物たちは楽園の彼方からあふれ出てくる。トラックほどもある巨大な鼠に似たなにかの口がぱっくり開いたかと思うと薄緑色の光が音もなく炸裂し、そこで時間の流れがぷっつり途絶えた。 ほんの少しのあいだ気を失っていたようだ。口の中に入り込んだ砂を吐きだし目の周りを手の甲で払ってから、なんとか両手を支えに身を起こす。僕はお荷物だ。真吾の行く手、地平線の果てまで怪物たちが群れをなしていて、すぐ目の前には真吾をかばって負傷した三使徒が倒れ伏している。 どうする、どうすればいい。試すことはできる、でもそれでもソロモンの笛が吹けなかったら僕はもうみんなの悪魔くんじゃいられなくなる。それだけは嫌だ、そんなのはぜったいに耐えられない。無意識のうちに懐のソロモンの笛に触れると、思った以上にダメージを受けていたらしく指先ががたがた震えだす。痺れるようなうずきを腹に感じ手をあてると、手のひらに赤いまだら模様がついていた。 「まずいな。僕、ドジやったみたいだ」 誰の返事もなかった。立っているのは真吾だけだった。にもかかわらず、敵は山ほど迫っている。 恐怖がぶくぶくと喉元までせり上がってきたので、真吾は自分自身を安心させるためにシャツをまくり上げ怪我の具合を確認した。ミミズ腫れが数えきれないほど、それから少し深めの切り傷が一本、右脇腹を斜めに走っている。たいしたことはない。ぜんぜんたいしたことない、平気さ。いままでだってなんとかなったじゃないか。 よろよろと大地を踏みしめた真吾に、再び光の帯が襲いかかった。 44話へ 戻る 46話へ 2009/3/10 短編「東方の神童」とさり気なく繋がってます。円陣を描き、ひとつひとつの数字と記号に意味を持たせ、僕は深い闇の底から悪魔を召喚する。僕を底なしの孤独から〜のあたりはそこからもってきました。吹けないソロモンの笛、三使徒は戦える状態ではない、真吾くん自身も傷を負っている、そんな絶対絶命の状況からばばんと抜け出すのがメシアで悪魔くんで埋れ木真吾くんなんだ! と部屋でひとり怪しく燃え上がってます! やっぱりどんな逆境でも知恵と勇気で戦う悪魔くんはかっこいいですよねv |