ユートピア「44話 ここより先、楽園 5」


 小さな町の小さな集会所は人いきれでむっとしていた。気持ちを静めるつもりで深呼吸をしてみたが、生ぬるい空気にかえって気分が悪くなる。さあ僕はいまからこの町の問題を浮き彫りにするぞ。誰も望んでいない一大事業に取り掛かるんだ。
 三使徒を背後に従え壇上に立った真吾に注がれる人々の視線は異様な熱を帯びていて、喉が干上がってくる。どうした、怖気づいたのか? 必要のない争いは極力避けてきた温和な僕、演説も説得も十八番じゃなかったのか?
「僕のことはご存じでしょう。僕はこの町の人間ではないし、この町の秘密も知らなかった。ここでは正常な時間が止まっている、そうですよね」
 ようやく切り出した真吾に、最前列の町長が大きく咳払いをして手を上げた。
「誤解しないでいただきたい。これは繊細な問題で、我々は秘密を他の世界に漏らすことで楽園を崩壊させたくなかったのです。いずれ機が熟したとき、メシアにも真実を知らせるつもりでした」
「僕はそんなごまかしを聞くためにここに来たわけじゃない」
 真吾はそこで群衆を見渡した。老若男女、きれいに飾り立てた者から畑仕事の帰りと思しき者まで多種多様だったが、ある夫婦に目をやったところで真吾は凍りついた。あの女性の腕に抱かれている赤ん坊は、いつ生まれたんだろう?
 真吾の目に宿る非難を感じ取ったのか人々は居心地が悪そうに視線をさまよわせていたが、頬を紅潮させた例の金髪の男が静寂を打ち破った。
「老いも病も死もない、食うに困らない生活。これをユートピアと言わずしてなんというんだ?」
「そうだな、地獄と置き換えてもいい」
 きっぱり言い切った真吾に、人々は不安を露わにざわめいた。町長はごくりと唾を飲み込むと、真吾の予想通りの言葉を口にした。
「あ……あんたはこの町の安寧を乱し、怪物どもを呼び込んだ。メシアなんかじゃない」
「その通りだ、僕はあなたたちの望むメシアじゃない。生きている人間は成長をするものだし、老いも病も死もある。だからこそ今日という日を強く生きられるんだ」
 再び金髪の男が不満の唸りを上げ檀上によじ登ろうとしたが、メフィスト2世のステッキがそれを押しとどめた。生み出された冷気に害はないが威嚇としては十分すぎるほどで、戦意を喪失した男はすごすごと群衆の間に潜り込む。会場は水を打ったように静まり返った。真吾を守る人外の存在を思いだしたのだ。

 真吾はそこで声を落とした。
「いったいなんの心配をしているんですか? 楽園の喪失? それなら心配ありません、ここはユートピアなんかじゃない。僕が保障します。怪物たちが怖い? 大丈夫、僕たちが退治します。これからどうなるか不安ですか? それも問題ない。僕がこの町を本来あるべき姿に戻します」
 真吾の言葉の意味をすぐには理解しかねたのか、町長はぽかんと大口を開けたまま動かなかった。人々は顔を見合わせ囁き合う。どういうことだ、この町はいったいどうなる? 口元を手で覆う者、胸の前で十字をきる者……。
 力を失ったメシアが、歪んだユートピアを破壊する。これはいったいなんの象徴だ? 僕を悩ませる問題のひとつに追加されるのかな。

 なおも言い募ろうとする町長に、真吾は続けた。
「僕が言いたいのは、この町から抜けださない限り、僕たち人間に未来はないということです。たとえ行きつく先が死だったとしても、前に進むべきだ」
 真吾はそこで言葉を切ると、くるりと踵を返して集会所を後にした。

 そのまま真吾はあてどもなく歩き続け、町外れの草原で足を止めた。町を覆う雲の流れはぎょっとするほど速く、まるでなにかと競争をしているようだった。一瞬で日が陰ったかと思うと、数秒後には再び強く照りつけてくる。町の歪みが広がっているんだろうか、落ち着かないな。
「言いたいことはわかるけどよ、あれじゃ事態を悪化させるだけだぜ」
 後を追ってきたメフィスト2世に、真吾は乾いた笑みを浮かべる。
「なんだよ、みんないつも僕をお人よしだと腑抜け扱いしておいて、いざ僕が立ちあがろうとすると、今度は過激だ、メシアらしくないと責める」
 真吾は吐き捨てるように続けた。
「ちくしょう、僕はあんなやつら大っ嫌いだ。あいつらを救う価値はあるのか? どう思う、第一使徒メフィスト2世」
「それを決めるのは悪魔くんだ。いままでも、これからもな」
「でも、僕が間違ってたらどうする? ぐずぐずしてないで僕を止めてくれよ、君はそのためにここに来たんじゃないのか?」
「ああ。でもどうしたらいいのかわかんねえんだよ。大口叩いちまったけどな」
「……僕だって、わからないよ。いっそシンプルにいくか?」
 ぽつりと呟くなり真吾は固めた拳をまっすぐメフィスト2世に叩きつけた。拳は唇の端に当たり、柔らかい感触が一瞬遅れて伝わってくる。メフィスト2世は避けもしなければ防御も取らなかった。
「どうした、かかって来いよ。僕を止めるんだろ?」
 軽く頭を振って一歩後ろに下がっただけで反撃する気配のないメフィスト2世を、真吾は苛々と突き飛ばす。倒れたメフィスト2世に馬乗りになり両手で襟首を締めあげたところで真吾は動きを止めた。空から落ちてくる水滴がメフィスト2世の頬を濡らしている。最悪の一日の仕上げに雨か、最近の僕はほんとについてないな。
「悪魔の癖にやられっぱなしで悔しくないのかよ」
 震える自分の声に、真吾は瞬時に理解する。雨垂れの正体は涙で、その源は真吾だった。真吾は力の抜けた両手を離すと、よろよろと立ち上がった。

「無抵抗のやつを殴ったっておもしろくもなんともないよ。僕はそこまで腐ってない」
 真吾の指先は冷たくこわばり、血の気の失せた唇はぶるぶる震えていた。メフィスト2世に背を向け、真吾は弱々しい太陽に向かって一歩足を踏み出した。真吾ははっきり意識していた。いまこの瞬間、僕の後ろでメフィスト2世は立ち上がり、マントを揺らして草と土埃を払っている。メフィスト2世の目には僕のちっぽけで頼りない背中が映っていて、勇気のしぼんでいる僕は振り返ることができない。

「悪魔くん」
 かなりの間を開けてから真吾は答えた。
「なんだよ」
「俺は悪魔くんの味方だ。たとえなにがあってもな」
 真吾は口を半開きにしたまま動けなかった。呪術でささくれだったいまの自分にとって、どれほど大きな慰めになったか伝えたかったがなにも言えなかった。メフィスト2世にはわかっているのだ。事情はなにひとつ知らなくても、真吾が暗闇で溺れてしまわないように辛抱強く手を差し伸べてくれていたのだ、メフィスト2世なりの不器用なやり方で。こんな風に自分を気にかけてくれる存在がいるから、僕はどんな戦でも立っていられた。どうしてこんな簡単なことをいままで忘れていたんだろう。

 真吾は無言のままメフィスト2世と二人並んで歩き続けた。不思議と居心地は悪くない。謝罪の機会を逃してしまったが、この穏やかな均衡が壊れるのが怖くて口を開けなかったのだ。
 血生臭い戦いの幕開けは唐突で、終わってみればあっという間だ。解けない呪術、吹けないソロモンの笛、限られた戦力、閉ざされた空間、思わず笑いだしたくなるほど厄介な戦いの始まりだった。

 上空から舞い降りてきた異形の怪物たちを、真吾は冷静な目で観察する。ぬらぬらと湿り気を帯びた焦げ茶色の皮膚は薄気味悪い音と共に波打ち、太い触手を大きく広げている。背中から生えている醜悪な羽は不揃いで、神に見放された生物という印象を受けた。
 神か。仮に神がいるとして、その神が一番疎ましく思っているものがあるとしたら、それは他でもない、この僕なんじゃないかな。でもたとえそうだとしても構わない、神に疎まれても、世界中に嫌われても、十二の使徒がいてくれさえすれば僕は平気だ。そう思っていたはずだった。


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2009/2/26

ようやく呪術も解けかかってきた感じです。第一使徒は男前ですよねv再び殴り合う(一方的だけど)真吾くんとメフィスト2世です。男の子の友情って感じでこういう状況に燃えちゃいます。なにがあっても、たとえ世界中が敵になっても悪魔くんの味方だって言ってくれるような、そんな十二使徒の熱い友情・信頼が好きです、そういうのってほんといいですよね!