ユートピア「43話 ここより先、楽園 4」 目を見開いたままベッドに仰向けになっていると、これまで真吾が倒してきた敵たちの幻影が次々現れては消えていく。みんな僕のこと恨んでるかな。そんな真吾を引っ張り出してくれたのはメフィスト2世で、夜になると活発になる悪魔らしく目を輝せて飛び込んできた。悪魔くん、遊ぼうぜと。 「酒場の乱闘、けっこう見応えあるぜ!」 「いいね、行ってみよう」 だめだよメフィスト2世、止めなきゃ。そんな返答を予想していたらしく、メフィスト2世は面食らっている。悪魔の少年に誘われるまま、僕は真夜中の空気を肺一杯に吸い込み魂まで冷たくして夜の世界に身を投じるんだ。 酒場はかなりの賑わいで、あちこちで小競り合いが起きてはいるがごく平和な空間だった。男の一人には見覚えがあった。この町に来て最初の晩に真吾に絡んできた金髪の男だ。真吾に気づいた男はなにか言いたそうな顔をしたが、傍に控える悪魔の少年と喧嘩をする気にはなれなかったらしくすぐに顔を背けた。 窓は藍色の分厚いカーテンで覆われていて、冷気を完全に締めだしている。真吾はカウンターの上に背伸びをすると、黙々とグラスを磨いているバーテンダーを見上げた。 「コーラある?」 バーテンダーは首を横に振った。 「じゃあ、ホットミルク」 隅のスツールにちょこんと腰を下ろしてホットミルクをすすっている真吾の隣で、メフィスト2世は実に楽しそうに観戦している。 「僕があと十年、いや五年でもいい、大人だったらこの手の手合いは叩きのめしてやるのに、残念だよ」 「はは、最近の悪魔くんは血の気が多くておもしろいよなあ」 僕もおもしろいよ、意外なことにな。呪術の効果が薄れたというより、新しい自分に慣れたからだろう、いまのところ大きく感情を爆発させることもなくそれなりに平和だった。相変わらず暗い衝動に取りつかれてはいたが。 しかしそれにしてもこの町はおかしい。どう見ても十歳前後の少年二人が酒場でふらふらしているというのに誰も見咎めない。一杯くれと注文しても止められないのではないだろうか。これは単なる無関心なのか、それとも……。 「しっかし、なんでここがユートピアなんだろうな。こいつら酒飲んじゃ喧嘩してるぜ。大人しいのもいるけど、なんつうか普通の町だよなあ」 「しかたないよ。数人程度なら協力し合えないこともないけど、ある程度の集団になれば争いは避けられない。この小さな町も例外じゃないってことさ」 くそ、僕はなんでこんなことを……。僕は怖い。正気を失うのがなにより怖い。いかれた指揮官のしでかすことと言えばろくでもないものと相場は決まってる。真吾は慌てて付け加えた。 「正しいかどうかはともかく、一理あるだろ。でもそんな悲しいなにかを変えるために僕らは戦ってるんだよ」 翌朝、太陽が町をすっかり温め直したころ、真吾はもぞもぞとベッドから這いだした。早く起きなさいと急かす母親の声を、なにかに熱中するのはいいことだよという父親の声を、お兄ちゃんどいてよと叫ぶ生意気な妹の声を、もう何日聞いていないだろうと思うと不安になってくる。気持ちを落ち着かせようと町を散策していると、眠たげな顔のユルグに遭遇した。 「いい加減うんざりだぜ」 ユルグのぼやきに、真吾はぽつりと同意した。 「この町はユートピアじゃないな」 「そりゃ火を見るより明らかだ。悪魔くんの口からはっきり聞けただけでも進歩だな」 「そんなにいまの僕ってひどいかな」 「俺にも目と耳と頭があるからな」 ユルグの視線から逃れるように、真吾は通りの向こうの小高い丘に目を向けた。暑くもなく寒くもなく、完璧な風が完璧なタイミングで吹き、完璧にくつろげる空間を人々に提供している。 「率直な意見をありがとう」 「お望みならもっと言ってやろうか」 「いまはいい。この件が片付いたらまとめて聞くよ」 いまの状態では、どんなに正当な理由があっても非難されたら噛みついてしまいそうだった。 「なら文句は悪魔くんが落ち着いてからにしょう。いまの調子はどうだ?」 「自己嫌悪で倒れそうだ」 「慰めの言葉はあまり知らんが、必要ならいまから必死で考えるぜ」 「その気持ちだけで十分だよ、ユルグ」 ユルグと別れ、草原に腰を下ろして刻々と形を変える雲を眺めていた真吾に、待ち望んでいた変化が訪れた。この町には似つかわしくない、久しぶりに聞くけたたましい機械音に真吾は跳ね起きた。音を頼りに草むらから携帯電話を拾い上げ通話ボタンを押すと、聞き覚えのある声が飛び出してきた。忘れようのない、逆五芒星の男だった。 「しばらくだな、埋れ木真吾くん」 身体中の血が沸き立ち、冷ややかな憎悪が頭をもたげたが、辛うじてそれを抑え静かに答える。 「……あんな術をかけたうえこんなふざけた町に誘い込んで、なにが目的なんだ」 「そういうなよ。これでも張り切って用意したんだ。いい子の君には刺激が強すぎたかもしれないが」 「僕だってたまには悪い子にもなるさ。覚悟しておけよ」 「ずいぶん機嫌が悪いようだな。むかつくだろ? 世の中なにもかもさ」 「お望みどおり、いらついてるよ。お前のせいで散々な目にあってる。いま目の前にいたら本気でぶっ飛ばしてやりたいよ」 「私が坊やの立場なら、いまの状況を思い切り楽しむがね。もうすぐ一大イベントが始まる。乗り遅れないよう気をつけるといい」 そこで会話を一方的に切られ、真吾はいらいらと携帯電話をいじり回したが、圏外の文字が虚しく光っているだけだった。なにが圏外だ、ふざけるな。腹立ちまぎれに地面に叩きつけたが、柔らかい草の上ではダメージを与えられない。そのことがさらに真吾の怒りを増幅させる。尖った石の破片で携帯電話を分解していると、メフィスト2世が息せき切って駆けつけてきた。逆五芒星の男の言葉通り平穏は終わりを告げ、事態はあっけなく急変しようとしていた。 わずかに宙に浮いた状態で急停止したメフィスト2世に、真吾は素早く言った。 「なにかあったんだな」 「ああ。もう片付いたが、あれは……。見たこともない怪物がわんさか出てきた。たいして強くはなかったが、やたら数だけはいてさ」 「一大イベントだな」 メフィスト2世はじれったそうに真吾の説明を待っていたが、やがて諦めたのか地に降り立った。 「ところでさ、なにしてたんだ?」 真吾の足もとに散らばる携帯電話の残骸が気になったらしい。 「携帯電話に制裁を加えてた」 「まだ遊ぶか?」 「もういい」 「なら町に戻るぞ。新しいおもちゃがほしけりゃ後で調達してやる。乗れ」 メフィスト2世の背に飛び乗りながら、真吾は不吉な予感を持て余していた。僕らが向かおうとしているのは町じゃなく戦場なんだよ。 元は円錐形だった屋根は平らに潰されていて、ひしゃげた柵の隙間からさまよいでた牛がのろのろと草を食んでいる。生々しい襲撃の爪痕は町の北端、ごく一部に限られていたが、おとぎ話の終焉を人々に予感させるにはそれで十分だった。 「メシア、あの怪物たちはいったい……この町はどうなるのでしょう。我々はいったいどうすれば……」 まっさきに真吾の心を満たした疑問はこうだ。この数週間ただの一度もメシアとしての僕を必要としなかったのに、いまになってなにを言いだすんだ? 真吾は町長を突き放してやりたかったが、ただの子供の自分にすがる姿があまりに哀れでできなかった。それに、メフィスト2世が諌めるように真吾の腕を掴んでいる。攻撃的になるなよ、穏便にな。目で訴えてくるメフィスト2世に、真吾は小さく微笑んだ。わかったよ。僕は冷静沈着、穏やかで心優しいメシア、それでみんな満足するなら僕の意思なんてどうだっていいさ、くそ。 「僕の使徒はあの程度の怪物に負けはしません、安心してください。いまの段階で僕に言えるのはそれだけです。明日、町の人たちを集めてください。この町の行く末はこの町の人たちが決めるべきです」 だから僕の背中にこれ以上圧し掛からないでくれ、僕は自分一人を支えるので手一杯なんだよ。 考えごとをしたいからと率直に伝えユルグと鳥乙女には戻ってもらったが、メフィスト2世だけは頑として動かなかった。護衛が必要だと言い張るので、真吾は許可の印に軽く頷いて硬い椅子に身体をあずけた。 これからどうしたものかと思案を巡らせ、机上の本に手を伸ばしかけたところで真吾はぴたりと動きを止めた。違和感、ただ違和感が真吾の神経をちりちり刺激していた。真吾はつい最近、いま感じているのとまったく同じ違和感に触れたはずだった。それはなんだ? 真吾はなんの変哲もない家具をぐるりと眺め、平凡な花柄の壁紙を観察し、最後に再び机上の本に目を向けた。退屈しのぎに広場の青年から借りたものだが、違和感の源は本ではなかった。その上に置かれている、自分自身の右手を真吾は凝視していた。清潔な指の先にはきれいに整えられた爪があり、やや深く切り過ぎていて押すとひりひり痛む。単純過ぎて見過ごしていた疑問が真吾を鋭く突き刺した。最後に爪を切ったのはいつだ? 真吾はそろそろと両の手のひらを開き、知らず知らずのうちにはまり込んでいた楽園の闇にようやく目を向けた。断片的な情報が収束し、背筋の凍る事実を導き出そうとしている。僕はオッカムの剃刀を振るい、不必要な曇りをそぎ落とす……。考えをまとめるのが怖かったが、真吾はあえて口にした。 「爪だけじゃない。髪も……僕の成長そのものが止まっている。それはなにを意味する? この町にきて最初の晩、町長は……」 彼はなんと言っていた? この町ができてから一人も欠けることなく暮らしてきた。そう言っていた。一人も、欠けることなく……。 「まさか……」 夜中に子供が酒場をうろついていても誰も見咎めないのはなぜだ? この町には本当の意味での子供なんて存在しないからじゃないか? これが「ユートピア」の真相なのか? この仮説が正しいとすれば、すべての説明がつく。 「急にぶつぶつ言いだしてどうしたんだよ、悪魔くん」 メフィスト2世の言葉は、極度の集中に入っている真吾の耳を素通りしていった。 誰に聞けばいい? 迂闊に動かないほうがいいと、真吾のなかのメシアの部分は警告を発していた。まともに話を聞き出せそうな人間はこの町ではゾフィーくらいだ。早急に確かめる必要がある。 「確かめたいことがあるんだ。ちょっとゾフィーと……この前君にも話しただろ、その女の子と話をしてくる」 「こんな真夜中にか? 悪魔くんはまだそういうのは早いんじゃないか。女の子にのぼせあがってる場合じゃないぜ」 軽口を叩くメフィスト2世だったが、真顔のままの真吾にふっと表情を引き締めた。 「なにかわかったのか?」 「いまはまだなんとも言えないな。警戒されるとまずいからメフィスト2世はここで待っててくれ。……まったく、先が思いやられるな。あの怪物が出たのは誰のせいだ?」 「別に誰のせいでもないだろ」 「みんながみんな君みたいに理性的ならいいんだけどね。この町は長い間平和に浸っていた。その平穏を破ったのは僕らだ。少なくとも、町の人たちはそう考えるだろうな。真実はなんなのかなんて彼らにはたいして意味がない。みんな誰かに責めを負わせることで安心したいんだよ」 メフィスト2世は小さく肩をすくめただけでなにも言わなかった。考えすぎだとも言わなかったし、悲観的になるなと諌めることもなかった。僕の言葉におおむね同意なんだろうな。 ここにきて真吾はようやく、なんとかしなければ、行動を起こすときだと痛感した。くすぶり続けていた不安と不信の火種が弾けパニックに陥ってしまえば最後、町は破滅に向かってひた走りに走り抜く……。 勇んで外に飛び出し、すぐにゾフィーの家を知らないことに気づいたが、その心配は無用だった。通りの向こう側から様子をうかがっている少女に、真吾は軽く片手を上げてみせる。時は満ちた、考えることは同じなのだ。少女に誘導されるまま路地裏から地下の貯蔵庫に降り、湿った空気の充満する小部屋に腰を落ち着け、真吾は単刀直入に切り出した。 「この町の秘密を教えてくれないか。実を言うと、だいたいの見当はついてる。でもこの町の人の口から直接聞きたいんだ。……前に話してくれた、この町を抜けだしたいある人って、君自身のことだよね。違うかな」 ゾフィーがいまにも泣きだしそうな顔をしていることに気づき、真吾はやりきれなくなったがこれ以上先延ばしにはできなかった。 「みんなは町長を敬って……敬ってる振りをしている。どんなに立派で指導力があって賢いか褒め称えてる。でも本当は違うの。みんな怖いからなにも問題なんてない振りをしたがってる。賢い指導者は必要ないの。なぜって、ここから抜けだしたくないから。ここにいればみんな年を取らないし、死ぬこともないし、作物を育てて、家畜の世話をして、それでのんびり暮らしていけるから。毎年選挙をやるの。この百年というもの、選ばれるのはただひとり。立候補者はひとりだけなんだから当然よ。私は十歳で時が止まってからずっとこの姿のまま、子供として生きている。こんなの間違ってるのに、でもこの町がある限りは、それですべてが正しい振りをしなきゃならないの。だから助けて、本当にシンゴがメシアなら私をここから解放して」 百年だって……おかしいぞ、計算が合わない。この町の歪みは逆五芒星の男の仕業じゃないのか? だが仮に無関係だったとしても、なんらかの形で介入したことは確かだ。そうでなければ、メシアの存在を示す聖典とやらが存在するはずがない。いまとなってはたいして重要ではないけれど……。 歪んだユートピアから自分を解放してほしいと、目の前の少女は訴えている。「ユートピア」を目指している「メシア」に向かって。その事実が真吾の心に重く突き刺さっていた。誰も救えない、自分すら救えない、せめてできたばかりの友達くらいは助けたいのに、僕は本当に無力だ。無力であることは別に罪ではないけれど、僕に限っては許されない、だって僕はメシアだからだ。 42話へ 戻る 44話へ 2009/2/1 新年早々インフルエンザとかその他いろいろでちょっとへこみました、が、気を取り直して燃え直して続きです。ようやく楽園の謎の解決編です! いろいろ考えてはみたんですが、結局こんな感じで落ち着きましたv爪が伸びてないとか妙に大人びた女の子とか酒場でのやりとりなんかで伏線っぽいものを張ろうと試みて玉砕です。こうやって冒険したりなにかに立ち向かって謎を解いていく真吾くんって大好きです、燃えますよね! |