ユートピア「42話 ここより先、楽園 3」


 あてがわれた部屋の窓を大きく開け放つと、尖った屋根越しに霞がかった山々がうっすら見える。真吾たち一行が滞在している宿屋の一階は、昼はカフェ、夜は酒場に様変わりする。階上の生活音と階下の騒音を緩和してくれる分厚いカーペットにはありふれた花の模様が編み込まれている。十分に睡眠を取り、真吾は少し建設的なことをしようと思い立った。例えば再開してからろくに話す機会のなかった使徒と交流を深めてみるとか。
 思い立ったが吉日とばかりに、真吾は第十使徒鳥乙女とふたり紅茶をすすりながら午後のひと時を過ごしていた。
「メフィスト2世と喧嘩でもしたの、悪魔くん」
「そんなこともあったけど、もう仲直りしたよ」
 本当にそうだろうか。あれだけの醜態を演じてしまった後でも、それでもメフィスト2世は僕をメシアとして認めてくれるだろうか。なにより、友達だと思ってくれているだろうか。いまでも僕らは親友だよね。あのときどうしても口に出せなかった言葉が、喉の奥でうずいている。メフィスト2世にとっていまでも僕は信頼に足る主人で親友だろうか。その答えはイエスでもあり、ノーでもある。このまま呪術から抜けだせずにいれば完全にノーになるとわかっていた。当たり障りのない近況報告から入り、自然と話題は今回の事件に移ったので、真吾はひやひやしながら言葉を選ぶ。
「認めるよ。この件は完全に僕の失態だった。目下のところ僕らの戦術はお粗末極まりない。逆五芒星の男に踊らされるまま、都合のいいゲームの駒と化している。情けないことにね」
「誰も悪魔くんを責めたりしてないわ」
 いまのところはね。でもこのままではいずれ……。真吾は小さく首を振って生じかけた不安を追い払う。
「僕はいま、理想と現実との間に横たわる問題に折り合いをつけようとしてるところだ。いまの僕ってかなり頼りないだろ、率直に言ってくれていい」
 鳥乙女はすっと目を細めた。
「そんなことはないわ。ただときどき、悪魔くんを可哀そうだと感じることは確かね。こんなことを言うと悪魔くんは、使徒に不安を抱かせてしまった自分を責めるんでしょうね。そして自分の周りに壁を作る、誰も傷つけないように、自分も傷つかないように」
 鳥乙女の忌憚のない意見は身に覚えがあり過ぎて、尻尾を巻いて逃げ出したくなってくる。でも忍耐強い僕はこうしてまだメシアという損な役回りを放棄せずにいるわけだ、不平不満を洗いざらいぶちまけたいという誘惑と戦いながら。……くそ、こんなことを考えるのは止めよう。
「そうでもないよ。僕はいつだって無防備だ。すぐ傷つくし、しょっちゅう馬鹿なことをやってる。ほら、こうしていまも僕はまた、使徒を途方に暮れさせてる。戦線離脱したかったらいつでも言ってくれ」
「どうしてそんなに投げやりなの? 確かにいつもの悪魔くんとは違うわ」
「そうだ、いつもの僕とは違う。でも僕であることに変わりはないんだ。しょせん僕ってやつはこの程度なんだよ」

 困惑した顔で微笑する鳥乙女を放置し無言で紅茶を飲み続け、真吾はようやく我に返った。
「ごめん。僕がどうかしてた。勝手なことを言うようだけど、忘れてほしい。僕、メフィスト2世にひどいことを言っちゃったんだ」
「ねえ、ひとつ率直に言うわ。悪魔くんが優しいのはもともとの気質も大きいんでしょうけど、でもなにかと衝突するのが怖かったせいもあるんじゃないかしら。悪魔くんみたいになんでもすぐに許してしまえば誰とも喧嘩にならないし傷つく危険も少ないもの。違う? なにが原因でメフィスト2世と喧嘩したのかは聞かないけど、でもそのこと自体がそんなに悪いことだとは思わないわ」
 鳥乙女は真吾の頭のてっぺん、癖のある髪をそっと撫でると、ぱちんと片目をつむって開け放たれた窓の外へ翼を広げた。真吾はどこか夢見心地で第十使徒を見送った。鳥乙女はよくわかっている。下手に慰めの言葉をかけられていたら決まりが悪くてかえって気が滅入っていたかもしれない。

 後に残された白い羽根が床に落ちきるのを待ってから、窓辺に寄りかかって白い空を眺める。問題は嫌になるほど山積みで先行きも暗い。でも僕はこうしてぴんぴんしていて、十二使徒も無事だ。ひとまずそれでよしとしよう。
 僕はメフィスト2世に罵倒されることを心のどこかで望んでいたのかもしれない。そうされることで罪の意識が和らぐことを期待していたんだ。いまだに呪術を打ち破れない心の弱い自分に罰を与えてほしかった。そんなところじゃないかな、たぶんね。事実はたったひとつなのに、僕はどんな目でそれを見ればいいのかわからない。わかっているのは、僕にはなにもわからないということだけだ。なにがみんなにとって一番いいのかもわからないし、自分自身の望みすら見失ってしまった。それでも僕はメシアと呼ばれている。真吾は今後の見通しを立てようとしたが、不確定要素が多すぎてどれもこれも形にならない。一番の不安要素が自分自身の乱れた精神と失われたメシアとしての力というあたり、泣けてくるよな。
 服を着たままベッドに横になると、壁の向こうから時計のかちこちなる音が聞こえてくる。呪術はゆっくりと、だが確実に精神と身体を蝕んでいる。このままでは一日の大半を寝て過ごすはめになりそうだ。

 目を覚ますともう午後の四時を回っていた。あまり気は進まないものの調査はするつもりだった。真吾は誰かになにかを期待されるとそれに答えなければならないという使命感、というより義務感を覚えるからだ。大雑把に寝癖を整えると、深く切り過ぎた爪の先がじんわり痛む。揃えたのは確か呪術にかかる前だったが、あれから大分経つというのに一向に前に進めない。それにしても、僕はあの男をつかまえてどうするつもりなのか、僕の判断で制裁を加えるのは果たして正しいことなのかどうか……。つらつらと考えながら、真吾は猛烈な違和感を覚えていた。たったいま自分は形になりかけた違和感を捉え損なった、ただそれだけははっきりわかっていた。

 小さな町の小さな通りを歩きながら、真吾は少しばかり途方に暮れていた。誰も真吾に救いを求めに来ないので、メシアに御用のかたはこちらまで、看板でも下げようかと冗談半分本気半分で検討したくなるほどだ。
 青果の露店主によると現状にまったく不満はないが居間の壁は修繕が必要だとのことで、つまりメシアに用はないそうだ。次に行こう。広場の中央、噴水前のベンチで読書に耽っている青年いわく、
「新しい文化が入ってこないのが不満かな。この本なんてもう十回は読んでる」
「とりたてて不満はないけど、前途洋々ってわけでもないんだね」
「まあね。君もそのうちこの町が気に入る。そうせざるを得ないから」
 そうせざるを得ない? 意味を図りかねたが、真吾はそれ以上追及しなかった。無駄だとわかっているからだ。町の人々は親切だがよそよそしい。尋ねれば応えてくれるが、協力的かというと決してそうではないのだ。真吾が核心に迫ろうとするたび巧みに話をそらし、問題を日常の些細なことにすり替える。だから記憶にとどめておくだけにして次に行くつもりなのだが、その前に青年から本を一冊借りた。この町は退屈でしかたがない。町の東の教会をぶらぶらしていると司祭が寄ってきて、あなたが神より遣わされたというのなら云々と始まったので真吾はぴしゃりと言った。
「僕は神とはなんの関係もない。なにを望むか、望まないかは僕が決めることだ」
 司祭は心得たように頷いている。なんか気に入らないな。悪魔の力を操り、世界を変えようとしているこの僕が神の使いだなんてどうかしてるよ。僕はいわば神への反逆者なのにさ。
 ぽつぽつ調査を続け、こじんまりした赤い煉瓦の建物を曲がったところでゾフィーを見つけた。歩道と草原とをわける柵の向こうを歩く少女の姿に、真吾は瞬間的に好機だと悟った。偶然はときどきパズルのピースのようにおさまるべき場所に僕を誘導してくれる。風になぶられた亜麻色の髪が少女の視界を遮り、まだ真吾には気づいていないようだった。そろそろ状況を打破してもいい頃合いだ。

 メフィスト2世、ユルグ、鳥乙女。僕に向けられる期待にはうんざりさせられることもあるけど、君たちのことは必ず元の世界に戻してみせる。これは僕の責任で、ちっぽけだけどプライドもかかっているんだ。メシアとしての力を失っている、そんなものは言い訳にもならない。真吾はそこで微笑んだ。最近は最低最悪の嫌なやつに成り果てていたけど、自分にもまだまっとうな部分が残っていたわけだ。足音を忍ばせて素早く近づいた真吾の右手は意識する間もなくさっと伸び、少女の左手首をつかんでいた。身体をこわばらせ振り向いた少女にできるだけ穏やかに微笑みかけてから、逃げられない程度に力を緩めた。
「いきなり乱暴な真似してごめんね。少し話を聞かせてくれないかな。逃げないって約束してくれたら手を離すよ」
 まったく僕ってやつはとっさにとんでもない行動を取るな。少女にとって真吾はろくに面識のない異国の少年だというのに。自分のことを正義の味方だと無邪気に信じて疑わなかった頃が懐かし過ぎて、真吾はやりきれなくなってきた。思えば僕はずいぶん長いこと旅をして、遠くに遠くに来たんだなあ。あの頃はただみんなを救いたい一心だったはずなのに、いまや女の子を脅してる始末だ。人生なにが起きるかわかんないよ。

 わずかに湿った草の上に腰を下ろし一方的に話し続けること早十五分、真吾はなんとかゾフィーの警戒を解くことに成功していた。ほとんど真吾の身の上話と化していて情報を引き出すまでにはいたらなかったが、それは真吾の話術に問題があるわけではなく、ゾフィーの年齢にそぐわぬ抜け目なさのせいだった。本当にメシアなのと問われ、真吾は肩をすくめた。
「僕が真実なんであるかなんて誰にもわからないし、知ったところでどうにもならないよ」
 同年代の子を相手にしているという感覚が薄いせいか、思わず漏らした投げやりな言葉に真吾はすぐに後悔する。まったく、女の子相手に僕はなにやってるんだろう。
「この町のことを知りたいの?」
「うん」
「この町はみんなが望んだ楽園だって町長は言ってたでしょ、でもそれは嘘なの。本当はひとり、この町を抜けだしたがっていた人がいて、私はその人をよく知ってた。よく言ってたわ、この町は間違ってる、外に出るべきだって。好きな言葉だっていって教えてくれたの、『世の中のことは何でも我慢できるが、幸福な日の連続だけは我慢できない』でも同じ気持ちの人はいなかったみたい」
 真吾はまじまじとゾフィーを見つめた。だが話はそれで終わりらしく、少女はスカートの皺を伸ばし草を払って立ち上がった。真吾はとっさに声を上げる。
「ねえゾフィー、君はどうなの? 同じ気持ちだった?」
 曖昧な微笑が返ってきただけで答えはなかったが、無理強いするつもりはなかった。時が来ればいずれわかる。少女を見送ってから腰を上げ、数歩進んだところで足を止めた。ゲーテの言葉だ。そしてゲーテが存在するということは、この町は真吾と同じ世界か、限りなく近い場所から来たということだ。

 逢う魔が時が訪れ、肌を刺す冷気が上空から町に覆いかぶさってきた。草原の向こう、木立の隙間に小さな光の点が二つ見える。シルエットからみて鹿かな。あちこちに点在する大きな岩をまたぐのではなく飛び越えながら、真吾は町へ急ぐ。なにひとつ問題のない穏やかな楽園の一日が終わろうとしている。大木にぶら下がっているブランコを見つけたので、強く地面を蹴って大きく漕いでみた。単調な遊びに興じていると無心になれる。気が済むまで漕いでからぴょこんと飛び降り、空想を断ち切って次のステージへ乗り出した。

 ドアの前で数秒間ためらい、ようやく指先でコツコツとノックする。メフィスト2世のことだから気配でばれてるだろうな。やや気後れしながら薄暗い室内に足を踏み入れ、窓枠に腰を下ろしているメフィスト2世の隣で足を止めた。オレンジと黒の入り混じった大気を眺めているメフィスト2世につられて窓の外を見ると点灯夫が灯りを点けて回っているところで、その様子を見ていると焦燥感に首筋がちりちりしてくる。違和感の嵐、止まった文明、ここは僕たちのいるべき世界じゃない……。真吾は一呼吸置いてから意を決して口を開いた。
「僕、今日ね」
「ああ」
「鳥乙女と話をした。僕をかわいそうだって言ってた」
「鳥乙女の目は節穴じゃないからな」
「……そうだな」
「で、それからどうした」
「町の人たちと話をした。僕と同じくらいの女の子、ゾフィーって言うんだけど、その子と話してみて、ぼんやりとだけどなにかわかったような気がする」
「町を出られそうか?」
「いまはまだなんとも言えないな。でも必ずそうするつもりだ。で、その女の子だけど、気になる言葉を引用してた。『世の中のことは何でも我慢できるが、幸福な日の連続だけは我慢できない』これってどういう意味だと思う?」
「そりゃ、この町の現状だと考えるのが妥当なんじゃねえの」
「僕もそう思うけど、でもほら、裏の意味とか暗号とかさ、なにかあるかもしれないじゃないか」
「それだったら悪魔くんのほうが得意だろ。そんなに焦らなくていいんだ。この町にはうんざりだが、無理するほど切羽つまってねえよ」
「僕は無理なんてしてないよ」
「悪魔くんがそう思うならそうなんだろうさ」
 冷静なメフィスト2世に、真吾は逆に不安になってきた。
「僕のことまだ怒ってる?」
「怒ることなんかなにもないだろ」
「嘘つくなよ」
「俺はけっこう正直者なんだぜ。悪魔くんが俺に対して怒りを感じることはあっても、その逆はないさ。俺はいつも無茶して悪魔くんを困らせてただろ」
「確かに、正直に言えばそれで困ったこともあったよ。でも、いまの僕の比じゃない」
 真吾はそこで口をつぐんだ。呪術に言及するわけにはいかない。いまは、まだ。
「本当いうと、いまの僕にとってこの町は居心地がいいんだ。ここに来て僕は、久しぶりにメシアじゃない自分でいられた。この町はメシアを望んでいるユートピアのはずなのに、おかしな話だよな。僕はしばらくの間、自分をメシアとしての人生から切り離したかったんだと思う。君たち十二使徒と再会して、また一緒に冒険できてうれしかったけど、でもつらかったのも確かだ」
 素直につらいと表に出せたことに真吾は驚いていた。
「俺も本当のことを言っていいか?」
「いいよ」
「この前あんな喧嘩したけどさ、あれで俺は少し安心したんだ。悪魔くんはいつだって完璧にいいやつだったけど、どっか人形みたいなところがあった。悪魔くんでも見境なくすこともあるんだってわかって、なんかほっとしたぜ。むちゃくちゃ言われてむかついたのは確かだけど、でも気に食わないことも言えないような、ちゃちな仲でいるよりはいいよな」

 真吾は硬い床に視線を落とした。ここまで来て僕はなにをためらっているんだろう。呪術から抜けだしたいという思いのあまりの激しさにめまいがするほどだった。ありがとうと言いたかったが、いまはよくてもこの先どう転ぶかわからない。返事を期待していたわけではないらしく、メフィスト2世は続けて言った。
「悪魔くん」
 真吾はのろのろと顔を上げた。
「なにか腹に入れろ。ひどい顔してるぜ」
 真吾は反射的に頬に手をやった。自覚はあったけど、傍目にもはっきりわかるほどとなるとそろそろまずいな。暇を告げかけた真吾を、メフィスト2世は快活に呼びとめた。
「待てよ、一緒に食おうぜ。ユルグと鳥乙女ももうすぐ帰ってくる」
 その言葉通りまもなく三人の使徒は久々に一堂に会した。もしかすると、僕が動けないでいる間にも、こうしてメフィスト2世の部屋に集まって状況を打破しようとしていたのかもしれない。肯定されるのが怖くて、確認はできなかった。

 白無地のテーブルクロスがかけられた丸いテーブルを囲む僕ら、なにかの象徴のように円卓の騎士を連想し、それからいつになったら元の世界に戻れるんだろうと考える。茹でたソーセージにフォークを突き刺しながら、真吾は小声で言った。
「僕は君たちに迷惑をかけてるな」
 真吾の呟きに、ユルグがすっと顔を上げた。
「誰だってなにかしら誰かに頼って生きてるもんだろ」
 普段は寡黙なユルグからもたらされた言葉は、真吾をひどくはっとさせた。
「私はけっこう気に入ってるのよ。おもしろいわ」
「気楽でいいよなあ。やっぱ第一使徒の俺がいないとだめだな」
 メフィスト2世が鳥乙女を茶化し、ユルグがぼそりとたしなめている。居心地の良すぎる空間がこそばゆくて、真吾はひたすら食べ続けた。挽肉とホウレン草がぎっしり詰まったアウフラウフは舌が焼けるほど熱い。美味だったが、真吾は腹立たしいほどホームシックにかかっていた。家が恋しいと嘆くような子供らしさはどこかに置き忘れてきたと思っていたのだが、気付くと真吾は口を開いていた。
「僕は早く家に帰りたい」
「俺も早く悪魔くん家に帰りてえよ。そろそろラーメン食わないと禁断症状がさ」
 思わず漏らした弱音をすぐに後悔したが、すかさずフォローに入ってくれたメフィスト2世のおかげで真吾は面目を失わずに済んだ。またひとつメフィスト2世に借りができた。僕は誰にも弱さを見せたくないし、強くありたいんだよ。馬鹿みたいなプライドだけど、僕はいつだってそうしてきた。


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2009/1/7

データ上書きして原稿用紙130枚分くらい消えて、自分のあまりのそそっかしさに半泣きになりながらも書き直しました! やっとですがあけましておめでとうございます! 今年もよろしくお願いしますv真吾くんとメフィスト2世の友情は鉄よりかたいんだ! とひとり怪しく燃えてました。これからは徐々に呪術も解けてく感じであまり暴走はしないと思うので、真吾くんの冒険を懲りずに妄想したいです!