ユートピア「41話 ここより先、楽園 2」


「深い眠りから目覚めると見知らぬ土地に放り出されていたのですからそれはもう驚きました。手元には不可思議な書物があるのみ、そこに記されたメシアの到来を待つほか道はありませんでした。しかし我々は困惑し、ぼろぼろで、皆をまとめあげる指導者が必要でした。そこで僭越ながら私が名乗りを上げた次第です。この町に来てから、ただの一人も欠けることなく、心身ともに豊かに暮らし続けてきたのです……」
 町長をはじめとする人々の話を繋ぎ合せると、こうだ。人口わずか七百人足らずの小さな町がある日突然、そっくりそのままこの楽園に放り込まれた。それ以来メシアの光臨を告げる書物を聖典として暮らし続けてきたのだという。その割には、最初の歓迎以来たいした動きがないのが妙だった。もてなされてはいるものの、メシアであるはずの真吾に人々はなにひとつ求めてこない。

 真吾は幾度となく思った、この町のどこがユートピアなんだろうと。文明の程度は真吾の生きる世界より一世紀は遅れている。確かに現代の喧騒に比べれば穏やかではあるが、人間のありふれた欲望や闇に満ちた町だというのに。自給自足の生活だが多少は貧富の差も生じているようだし、夜ともなれば酒場は賑わいときには物騒な乱闘も起こる。最初の晩には、金髪を短く刈り上げた男に、
「俺の町でなにをするつもりだ」
 と因縁をつけられもした。真吾はすかさず、
「君の所有物だとは知らなかった」
 と言い返したが、まずかったかもしれない。でも剣呑な顔で魔力を増幅しかけたメフィスト2世を、
「待て、メフィスト2世!」
 素早く止めたのは我ながら的確で穏やかな判断だったと真吾は思う、いまの精神状態を考えると特に。

 町長にもうんざりだ。粗野で、損得だけで動き、日和見主義の権化ときてる。僕がメシアであろうとなかろうと、長いものには巻かれるだけ、蜜がこぼれれば群がるだけじゃないか。そこまで胸の内で悪態をつき、真吾は小さく首を振った。最近の僕はどうしてこう物事を悲惨に捉えようとするんだろう、呪術のせいだけとは思えない……。
 呪術の支配下に置かれて以来、真吾はじめじめした感情を日増しにもてあますようになっていた。これまで無条件で信じてきたものに疑問を抱き始め、あまりきれいとは言えない衝動も生まれてきた。つまり少しだけ大人になったのだ。それは自然な成長ではなく、性急で好ましくない変化だった。

 しかしそれでも、真吾の時はおおむね静かに流れて行った。勧められるまま町に滞在し数日が過ぎたが、感覚としては療養生活に近い。「ユートピア」での日々は早馬のように過ぎ去っていく。真吾は静かに過去の自分を観察していた。その時間ができたことがうれしかった。思えば僕はずっと駆けてきた。全力で、息継ぎをする暇もなく、助けてくれと叫ぶ余裕すらなかった。逆五芒星の男に誘い込まれたこの町がユートピアであるはずはもちろんないが、真吾は奇妙な安らぎを見出している自分に気付く。

 もうひとついいことがあった。この町に迷い込んですぐ、広場で真吾を観察していたあの少女と再会できたし名前を聞きだすことにも成功した。と言っても、真吾の姿を見るなりそそくさと逃げようとした少女の前まで全速力で走って行って、大急ぎで、
「こんにちは。僕、真吾っていうんだ。君のこと広場で見かけたよ、覚えてるかな。君なんて名前?」
 と言うので精いっぱいだったが。あのとき言いかけた言葉はなんだったのか問いただしたかったが、警戒されては元も子もないと思いとどまった。
「ゾフィー」
 ぽつりと名前だけ告げると、真吾の右脇をすり抜けてあっという間にどこかに行ってしまったが、とにもかくにも面識はできた。
 なぜあの子が気になるのかわからない。あの地底の悪魔と闘ったときのような直観、メシアの予言のようなものかもしれない。と言っても、いまの僕はメシアじゃないかもしれないけど。真吾はため息混じりにひとりごちる。でも自分の直感を信じるなら、心にとどめておくに限る。いざというとき、まごつかないように。備えはいくらあってもいい。

 用意された部屋でのんびりくつろいでいると、ここもそう悪い場所ではないかもしれないと思えてくる。キルトに包まりぼんやりしていても誰も真吾を責めないし、戦えと急き立てる声もない。町の人々はほどよく真吾をほうっておいてくれる。真吾にとって意外なほど快適だった。使徒たちはそうは思っていないかもしれないけれど。真吾自身はなにひとつ指示を出していないのだが、鳥乙女は町の上空から、ユルグは町の周辺を虱潰しに嗅ぎまわってくれている。

 物思いにふけってばかりいるメシアを見かねたのかなにか文句でもあるのか、メフィスト2世は暇を見ては真吾を訪ねてくる。今日も、昼日中からロッキングチェアを揺らして遊んでいる真吾の傍らで、浮かない顔をしてステッキを回転させている。前後にゆっくり揺れる椅子に身を任せていると、幼いころよく遊んだ木馬を思い出す。疲弊しきったいまの真吾にとって、確かにある意味では楽園といえなくもなかった。

 メシアをなんだと思っているのか、町長は貢物を使者に託して届けにきた。ダイアモンド、ルビー、サファイア、エメラルド、窓から差し込む日の光を受け輝く宝石を手のひらに乗せ、真吾はしげしげと観察する。メシアとしては返すべきだろうなとは思ったが、億劫だし暇だったのでしばらく眺めることにしたのだ。
「きれいだね。ねえメフィスト2世、どうしてこの石ころに価値があるかわかるか? ほしがるやつが大勢いるからだよ。メシアも似たようなものだ。ユートピアを望む者がいなければ、メシアに価値なんてない。そう思わないか? いまの僕はただの石ころだ」
 寂しい考え方だった。しかしいまの真吾にとってはそれが真実だった。

「そんな風に考えるのはよせ。俺たち十二使徒には悪魔くんが必要だ。いまはそれで十分じゃないか」
「変化を望まない世界なら、僕の存在に意味なんてないんだ。だから……僕にはそうは思えない」
 メフィスト2世は困惑と不満の入り混じった顔で振り返った。
「どうしてだ。なんで信じられないんだよ。俺たちはずっと仲間だったはずだ。究極の六芒星は俺たちにわかちがたい絆をもたらした。忘れたのか?」
「忘れてなんかない。いや、どうかな……。わからない。ひとつ言えるのは、僕らは死ぬほどがんばってきたのに、世界はなにも変わってないってことだけだ。世界のあり方を操作するなんてだいそれたこと、そんなことは誰にもできないってことくらいしか、いまの僕にはわからないんだよ」
「だからそのためにメシアがいるんだろ。この期に及んでなに寝言いってんだ、じゃあ俺たちはなんのために闘ってんだよ。しっかりしてくれよ、俺たちの主人だろ、考えがあるなら言ってくれなきゃわかんねえよ。悪魔くん、本当にいまの状況をちゃんと考えてくれてるのか? 逆五芒星を作った男の居所もまだ掴めてない。術の正体すらわからない。この妙な町から抜けだす方法もろくに調べてないじゃねえか。それに、館の悪魔のことはどうすんだよ。本当にやつと手を組んでよかったのか? 俺たちは大丈夫なのか?」
「僕を疑ってるのか」
「そういう意味じゃない。ただ話をしてるだけだろ。最近の悪魔くんはどうかしてるぜ。あんなに冷静で頭が良かった悪魔くんはどうしちまったんだ?」
「いまでも僕の知性に問題なんてない」
「でも俺だって間違ってねえよ」

 真吾とメフィスト2世は時が止まったかのように身じろぎもせずに見つめあった。衝突寸前でくすぶり続けていた不満が再びじりじりと忍び寄ってくる。理屈に合わない破滅への一歩を踏み出すべく、真吾は口を開いた。
「メフィスト2世はいっつもそうだ。口では僕に従うと言いながら、要の部分では自分の本能しか当てにしてない。僕は前から君のその無駄に高いプライドが気に入らなかったんだ」
「そりゃ俺にとっちゃ褒め言葉だ、光栄だぜ」
「その能天気さ、ほんとうらやましいよ。いっそ君がメシアになった方がいいんじゃないか?」
「なに馬鹿なこと言ってんだ、本当にどうしちまったんだよ、悪魔くん」
「問題があるのは僕じゃなく君のほうだろ」
 メフィスト2世は物言いたげな顔を一瞬見せたあと、小さくため息をついた。
「しっかりしろよ、悪魔くん。俺たちの敵はいったい誰だ? この際はっきり言ってやる。なまじ頭が良すぎるばっかりに、それに振り回されて単純な事実が見えてないのがいまの悪魔くんだ。小難しい方程式は解けても簡単な足し算ができない。同情するぜ」
「君の同情なんかいらない」
「……なるほどな。いまの悪魔くんにはなに言っても無駄だな」
「じゃあどうする? なにか文句があるならかかってくればいいじゃないか、前みたいにさ」
「いいや、いまの悪魔くんをどんなにぶっ飛ばしたって意味ねえよ」
「なんだよ、腰ぬけ。悪魔の癖に、いつから君はそんなに弱虫になったんだよ」
「なんとでも言えよ。その傲慢さが消えたら相手してやるぜ」

 淡々と口喧嘩をしながら、真吾は急速に冷えて行く思考にぞっとした。なんで僕はこんなことしてるんだろう? 呪術は僕の力の及ばない心の奥深くまで忍び込んでいる。いま一番避けるべきことがあるとしたら、あり過ぎて困るくらいだが、まずひとつは十二使徒との仲違いだというのに。
 どうしてこんなことになっちゃったんだろう。僕たちはどこに向かおうとしてるんだろう、僕はどこで道を誤ったんだ? 真吾は最悪のタイミングで最悪の喧嘩をしていて、最悪のシナリオが着々と進行しつつあり、ブレーキがどこにあるのかすらわからない。危機感を覚える一方で、このまま泥仕合を続けていたいと望む不可解な衝動があるのも確かだった。

 やがて頃合いを見計らい、真吾は口にすべき言葉を絞り出す。つまり謝罪の言葉だ。ここまで言うつもりはなかった、ちょっと苛々していただけで本心じゃないんだ、ごめん、などなど。メフィスト2世のほうも、似たような言葉をもごもごと発し、すっきりしない気分のまま、形ばかりの和解をする。
「じゃあ、もう仲直りだね」
「ああ、俺も気にしてないぜ、最近いろいろあったからな」
 いまでも僕らは親友だよね。口にできなかった不安を飲み込み、真吾は再びロッキングチェアに身を投げ出した。

 少し冷静になり、真吾はこう考えていた。メフィスト2世もある意味では自分以上にまいっているのかもしれないと。退屈な町に足止めを食らっているうえ頼りのメシアは傲慢で、怠惰に遊びふけっているときては。
 物事には必ず理由があると真吾は信じていた。どんなに馬鹿げたことでも、その裏側にはなにかしら意味があると。突き詰めてみればつまらない意地の張り合いでしかないかもしれないが、それでもなにかしらあるのだと信じていた。だがいまやその自信はぐらついていた。気付いてなかっただけで、僕はただの嫌なやつでしかないのかもしれない。

 どちらにしても、いまの真吾にはメフィスト2世の好意を素直に受け取る余裕などなかった。普段の自分なら苦もなく解けることでも、いまは深く考える気すら起きない。自分自身についてもあまり追及したくなかった。どうせろくなものは出てこない。


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2008/10/26(12月3日加筆修正)

できたところまで更新。ということで次は本当に遅くなっちゃうかもですが例によって真吾くんで果てしなく燃えてます。ひどい口喧嘩になっちゃいましたが、呪術の影響も大きいしほかにもいろいろ理由があるんだ、ということで無理やり納得してやってください……。いろいろ書いちゃいましたが、でも本人がどう考えようと、真吾くんは基本的にすごくいい子だと思います!