ユートピア「40話 ここより先、楽園 1」


 じめじめした防空壕のなかでまんじりともせずに夜を明かし、真吾はふらふらと家路についた。
 ソロモンの笛が吹けない、僕に応えてくれない。いまの僕は本当にただの子供なんだ。どうしよう、怖いよ……。十二使徒を召喚できるかどうか、それすらも怪しい。自分自身の力だけを頼りに呪術を打ち破り、ソロモンの笛を吹きメシアとして再び立ち上がれる日が来るとは到底思えなかった。

 部屋に戻ると、既にメフィスト2世、百目、ユルグ、妖虎、鳥乙女、サシペレレが待機していた。残りの使徒は見えない学校で真吾の命令を待っているのだろう。
 どの使徒をどこに配置し、どう使うか決めなければならない。メシアでもなんでもない、ただの子供の僕が。

 仕方がない。真吾は疲労の色をにじませたまま第七使徒妖虎に命じた。ファウスト博士が不在のいま、彼が適任だろう。
「僕はこれから火に入る夏の虫になる。見えない学校を可能な限り安全な場所に退避させてくれ。もし逆五芒星の男の攻撃を受けて、それを防ぎきれないようなら、そのときは僕の名前を出して館の悪魔に助力を要請するんだ。僕もなるべく早く片付けて戻るつもりだけど、それまでみんなを頼むよ」
 メシアじゃない僕が戻ったところでどうしようもないけどな。
 真吾はコツを掴みつつあった。下手に負の感情を押さえつけようとせず、ある程度それを受け入れて発散させれば辛うじて平静を保てる。ある程度までは。しかし心に根付き始めた絶望はもうどうにも防ぎようがなかった。
「聞いていいか。なぜ館の悪魔が助勢してくれるとわかるんだ?」
 ユルグの疑問に、真吾は短く「いまはやつと手を組んでるからさ」と答え、唖然とする第二使徒から素早く目をそらした。
 館の悪魔……。早急に同盟関係を解消するつもりだったが、ソロモンの笛を奏でることすらできない状況ではそうも言っていられない。泥沼に首までつかる覚悟で必要とあらば利用するしかないじゃないか。どの道、全責任は僕がひとりで負うしかないんだ、好きにさせてくれ。
「メフィスト2世、ユルグ、鳥乙女。罠なのはわかりきってるけど、いまから出陣だ。百目はサシペレレのフォローと、なにかあったときの連絡係になってくれ。その百の目で町を見張るんだ、いいね」
「他の使徒は呼ばないのか?」
 至極もっともなメフィスト2世の意見に、真吾は唇の端を歪める。

 他の十二使徒か。いいね。できるものならそうしたいさ。でもどうする、いつものあの場所で大きく魔法陣を描き、そうしてあの呪文を唱え、そしてなにも起こらなかったら? ソロモンの笛が吹けなくなったように、十二使徒の召喚もできなくなっていたら? 僕はそれがなにより怖いんだ、確かめる勇気がないんだ。どんな敵にもひるまず立ち向い、仲間のためなら命だって投げ出す勇敢だった僕はどこに行ってしまったんだろう? どんなに痛めつけられても何度倒れても立ちあがった僕、メフィスト2世を救うためたったひとりで地底の悪魔に挑んだ勇ましい僕はいったいどこに消えたんだ? あれは単純で幼かった僕の刹那の奇跡だったのかな? 僕はもうぼろぼろだ、だからメフィスト2世、いまこの場にいる使徒だけを連れて行くしかないんだよ。君の目にいまの僕はどう映ってるんだろう。さぞ頼りないメシアで、指揮官で、嫌なやつなんだろうな。

「……いいや、メフィスト2世。このメンバーで行く。見えない学校も守らなくちゃならないからね」
 真吾の言葉に納得したのかどうかわからないが、メフィスト2世はひとまず沈黙した。
 十二使徒を従え、魔法のマントをはおり、ただの飾りと化したソロモンの笛を首にかけ、偽りのメシアはいざ出陣する。真吾はそこまで考えて苦笑する。だいじょうぶかな、僕。相当まいってるみたいだぞ。

 優雅に滑空する鳥乙女と速さを競うように、真吾とユルグを背に乗せたメフィスト2世は滑らかに飛行する。逆五芒星の男が示した場所はなんの変哲もない寂れた林の小道だった。
「ここでいいのかしら、悪魔くん」
 鳥乙女の声にはっと我に返り、真吾は頷く。
「なにもないね」
 真吾の呟きに、ユルグが鋭く警告を発した。
「いや、なにかおかしい。よく神経を研ぎ澄ませてみろ。道の向こうが二重に見える。空間が歪んでるんだ」
「しかも、どんどん歪みは大きくなってるな」
 メフィスト2世がユルグの言葉を引き継いだ。
 ふいに使徒たちが真吾を守るように取り囲んだ。名状しがたい違和感が頭のてっぺんから爪先までさざ波のように走り抜け、そして消えた。
「なにも変わってない……よね」
 真吾の囁きをメフィスト2世は否定した。
「後ろ、見てみな」
 真吾は振り返り、そして見た。たったいま真吾たちが通った小道は消え失せ、陰気な森へと変貌を遂げていた。
「どうやら、この空間を破らない限りは元の世界に戻れないみたいだな」
 ユルグの冷静な声に、真吾は暗澹たる思いで目の前に広がる小道と、その両脇を覆う不自然なほど青々と茂った草原を眺める。
 万全の状態でも厳しい戦いになりそうなのに、いまの僕はソロモンの笛すら吹けない。その上、戦力も限られている。高い攻撃力を誇る使徒ばかりとはいえ、たった三人の悪魔の力を頼りにこの危機を乗り切らなければならない。

「ここにいても仕方がない。行こう」
 三人の使徒を従え、真吾はくねくねと曲がりくねった小道を歩き始めた。
 視界をさえぎるものはなにもない広々とした空、見渡す限り続く平原、湿り気を帯びた朝の空気は都会育ちの真吾にとって爽快なはずだが、どういうわけか妙な息苦しさを感じていた。小道の終点、町の入り口と思しき標識に近づくにつれ、違和感はますます強まってくる。気に入らない、僕はこの場所、気に入らないぞ。
 風雨にさらされ大分かすれているものの、標識の文字は辛うじて読み取れた。

『ここより先、楽園』

 真吾と三人の使徒たちは、眼前に広がる町をしばし呆けたように眺める。初夏の熱気をはらんだ生暖かい風が吹き抜け、小奇麗に並んだ花壇のパンジーを揺らして行った。大きめの丸石が敷き詰められた通りはまっすぐ中央の広場に伸びていて、ベンチに腰を落ち着けた人々が談笑している。がたごとと軋みながら回る風車の傍では見事な栗毛の馬がいななき、前脚で地面を引っかいていた。早朝ということもあってか人通りは少なかったが、それでも幾人かが真吾たちを不審そうに一瞥し、そそくさと建物内へ姿を消していった。
 路地の暗がりから十歳くらいの少女がひょいと顔を覗かせ、真吾の視線に気づくと慌てたように首をひっこめたが、すぐにまた好奇の目を向けてきた。亜麻色の髪に灰色の目、草色のワンピースに同色のケープを羽織り、年齢に不釣り合いな落ち着き払った目で真吾を凝視している。真吾と目をしっかり合わせたまま小さな唇を開くと、ゆっくりと動かし始めた。なんだろう? 強い磁力に引き寄せられるように少女に向かって歩を進めようとしたが、鳥乙女に左手をそっと掴まれ我に返った。
「悪魔くん、どうしたの?」
 うるさいな、ほっといてくれ。苛立ちを抑え込み、真吾は首を振った。再び目を向けると、少女は消えていた。
「そこに、女の子がいて、僕を見てなにか言いたそうにしてたんだ。人形みたいにかわいい子で……でもなんだかおかしな感じがした。邪悪な気配はぜんぜんしないんだけど……」
 でも、気になって仕方がない。

 言いながら真吾は再び辺りを見回した。日本じゃない。たぶん世界中のどこでもない、でも住んでいるのは人間たちだ、見た限りでは。無数に存在する並行世界、異空間にでも飛ばされたのか、それとも逆五芒星の男が作り出したただの虚構の世界なのか。おもしろい、最高だよ。メシアかどうかすら疑わしいいまの僕にどうやってこの空間から抜け出せっていうんだ。帰れなかったら畑でも耕すしかないな。それか錬金術師にでもなるかな。真吾は暗い微笑を隠すために俯いた。

「悪魔くん」
 警戒を促すメフィスト2世の声に、真吾は首を巡らせる。柔らかな朝日が降り注ぐ広場を、重々しい足取りでやってくる人影があった。近づいてきたのは三人の男たちで、中央の恰幅のいい男がボスらしく、両脇のふたりは一歩後ろを歩いている。中央の男は後退し始めた額に汗を光らせ、真吾に目を止めるとにやりと笑った。ボスとして威厳を保とうとしているようだ、でもその笑顔の背後に垣間見えるうすら寒いものはなんだろう、お世辞にもきれいとはいえないよな。真吾はそんな皮肉な物の見方ばかりするいまの自分に微苦笑し、男たちの出方を待つ。中央の男は両手を大きく広げると、不自然なほど晴れやかに言った。
「もしや、あなたはメシアではありませんか?」
 幾多の熾烈な戦いを潜り抜け、たいがいのことには動じないつもりだったが、それでも男の言葉は真吾を驚かせた。三人の使徒がさり気なく立ち位置を変え、真吾を守る配置につくのがわかる。
「真実は誰にもわかりません。でもそう信じてくれている人もいます」
 真吾の慎重な答えに、男は含み笑いをした。真吾は眉をひそめる。どうしてだろう、なにをされたわけでもないのに、でも僕この人のこと好きになれない。呪術のせいだろうか。
「おお、伝承が実現するとは」
 いつの間にか真吾たちの周りには人だかりができていて、好奇と警戒の入り混じった囁き声が広場を満たし始める。
「ここはいったいどこなんですか? 入口の標識には……」
 楽園とあった。
「さよう、ここは楽園。いつか光臨するはずのメシアを待ちわびる、ユートピアなのですよ。私はここの町長を務める者です。伝承では、メシアがこのユートピアを完璧なものにしてくれるとか」
 メシアは十歳前後の東方の少年で、悪魔を下僕として従えていると聞いています。
 目をぎらつかせ付け加える町長に、真吾は無意識のうちに一歩後ずさった。
 ここがユートピアだって? いったいどういうことだ?


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2008/10/8(12月3日修正)

どつぼにはまったまま厄介な罠に突撃です。まだしばらく呪術は解けないですが、それでもなにもかも投げ出すような真似はせず表面上はメシアとしての責務を果たそうとがんばってる真吾くんなのでした! だいぶ精神的にまいっちゃってるうえ問題は山積みですが、でも悪魔くんだからだいじょうぶ! 最近は一度に更新する分量を多くしてるので微妙に更新が不定期になっちゃってます。