ユートピア「39話 メシアの資格」


 女へのおざなりな質問を終え、腑に落ちない様子のメフィスト2世の背にまたがり帰宅すると、真吾はむっつり押し黙ったままベッドに腰を下ろす。
「さっきの人間の女、知り合いなのか?」
 辛抱強く問いかけてくるメフィスト2世に、真吾は肩をすくめる。
「まさか。初対面だって言っただろ、話聞いてなかったのか」
 やっぱりだめだ、自分の感情をうまくコントロールできない。メフィスト2世にこんな素っ気ない対応したくないのに、暴れ馬にでも乗っているような気分だ。かなりの精神力を要したが、真吾はぎこちない笑みを浮かべることに成功した。
「メフィスト2世。少し調べものをしたいんだ。だから――」
 やはり呪術が解けるまで、可能な限り誰とも接触したくない。多少不審がられても、見えない学校にでもしばらく閉じこもっていれば……。館の悪魔の件はあとでなんとかするしかない。くだらない鬱憤のせいでのろのろとしか働かない頭を総動員させていると、蝙蝠の羽音が近づいてきた。昔とちっとも変らない、歯切れのいい口調で大変でやんすよと叫びながら飛びこんできたこうもり猫に、真吾はすんでのところで舌打ちを飲みこんだ。
 よりによって、こんなときにか。

 こうもり猫の差し出したもったいぶった形式の羊皮紙に目を走らせ、真吾は顔をしかめる。逆五芒星の刻印をこれほど憎たらしいと思ったことはない。
「お人好しの僕に、あの逆五芒星の男から招待状が来たよ」
 真吾は苛立ちを隠さずに呟いた。メフィスト2世が気遣わしげな視線を投げかけてきたが、真吾は気付かない振りをした。いま迂闊に口を開けば、みんなを傷つけてしまう。
 あの逆五芒星の男、呪術が成功して気をよくしたらしい。呪術に精神を蝕まれている僕がどう反撃にでるか、さぞ楽しい眺めなんだろうな、ちくしょう。
「どこにあった?」
 ほとんど詰問するような口調になってしまったが、いまの真吾にはいちいちフォローを入れる余裕などなかった。第十二使徒はさすがに世渡り上手らしく、そんな真吾にやや及び腰になりながらもよどみなく語り出した。
「それが、大変なんで……見えない学校の外壁に矢が突き刺さっていたんでやんすよ。それに括りつけられてたのがこの手紙ってわけで」

 真吾は暗転しそうになる意識を手放さないよう抑え込む。呪術を甘んじて受けてしまった上、見えない学校の所在までやつらに知れているのか。やはり館の悪魔を利用してでも見えない学校の守りを固めておいて正解だったが、この先どうする? 呪術をかけられた直後、もっとも深く闇に引きずり込まれていたあのとき、館の悪魔と再び手を組むという正気の沙汰とは思えない行動をとった。そのおかげとはあまり言いたくないが、いまなら真吾が助力を願っても快く承諾してくれるだろう。しかし応急処置としてはいいが、それでは事態はますます収拾がつかなくなり、引くに引けなくなる。ただでさえ頭が痛いのに、魔界の紛争にかかずらっている暇はない。

 早急に呪術を解き、館の悪魔との同盟関係を角が立たないよう解消し、逆五芒星の男に招待されるまま罠に赴き当然勝利しなくてはならないし、子供たちの魂も取り戻さなくてはならない。真吾はめまいがしてきた。

 僕がメシアだなんて、悪い冗談としか思えない。僕はまだ十一歳で、戦いなんて心底嫌なのに。くそっ、これは僕の本心なのか? 呪術が僕の闇を増幅しているのか? この呪術は負の感情を増幅するだけでなく、精神をねじ曲げることもあるのか?
 そうであってほしいと真吾は思った。こんな自分を認めるくらいなら、いっそ呪術のせいにしたほうが気が楽だ。
「どうする、悪魔くん」
 メフィスト2世の問いかけに、真吾は書状から目を離さずに応える。
「選択肢なんてあると思うか? 行ってやるよ、お望み通りにね。でも今日はもう遅い。明日、サシペレレにまた身代わりを頼んで、それから……」
 真吾は指先でこめかみを押さえ、小刻みに動かして苛立ちから気をそらす。
「……見えない学校も可能な限り早く隠さなきゃならない。その後で出陣だ」
 真吾はやっとの思いでそれだけ口にすると、ぞんざいにこうもり猫を帰し、メフィスト2世には目もくれないままベッドに横になった。こうもり猫にねぎらいの言葉くらいかけてやればよかったなと真吾はぼんやり後悔するが、そこまで気を回す余裕はなかったのだ。いまはなにも言えないんだ、ごめんねみんな……。

 いつの間にか寝入っていたらしく、気付くとエツ子に頬を指で突かれていた。どういう原理だか知らないが、あの呪術をかけられてからというもの強烈な睡魔にたびたび襲われている。
「何回も呼んでるのにお兄ちゃんぜんぜん気付かないんだから! 百目ちゃんはもうとっくに下でお夕飯食べてるんだからね」
 真吾は朦朧とした意識のままベッドから立ち上がった。
「勝手に入るなよ、ばか」
「せっかく呼びに来てあげたのに、なによ」
 攻撃的になるな、抑えろよ。真吾は頭を振って部屋を見回す。メフィスト2世はどこに行ったんだろう。真吾の異変には当然勘付いているだろうが、呪術を跳ね返すまで打ち明けるわけにはいかない。真吾はため息をついて妹に目をやった。考えるより先に口が動く。
「なあエツ子、最近太ったんじゃないか?」
 エツ子の右足が真吾の向こう脛に勢いよくヒットする。ベッドに転がり大げさに痛がる兄に愛想を尽かしたのか、ばかじゃないのと唇を突き出してからエツ子は小走りにドアをすり抜けていった。

 夕飯はなんとか詰め込んだが、メフィスト2世はいまだ姿を消したままだった。真吾の精神状態を反映しているかのように空は厚い雲で覆われ、時折稲光がジグザグに走って地上に降り注ぐ。二度、三度と閃く青白い線がおさまった瞬間、ベランダに黒い影が浮かび上がり真吾ははっと身体を固くする。
「メフィスト2世……」
 メフィスト2世は全身ずぶ濡れで、大きく見開かれた瞳はらんらんと輝き、唇の端から覗く牙が今日はやけに目についた。マントの端から水滴がぽたぽたと垂れ、床に小さな水たまりをいくつも生み出している。
「悪魔くんひとりになりたそうだったからさ、俺魔界の空気吸いにちょっと戻ったんだよ。そしたら……なあ悪魔くん、館の悪魔にこれ以上深入りしないって言ってたよな、なのになんでだ?」
 こんなに早く事が露見するとは思わなかった。天網恢恢疎にして漏らさず。頭をかすめた言葉に真吾は苦笑いする。これじゃ僕が悪者みたいだけど、あながち間違いでもない。
 真吾は上手い弁解も思いつかなかったので急場しのぎに、
「やっぱり興味があったから」
 と口にしてみたが、いっそ黙っていたほうがまだましだった。白々しい言葉が生み出した沈黙が真吾とメフィスト2世の間に横たわり、重苦しい影を落としていた。
 殴り合いになるかな、いっそそのほうがすっきりするかもしれない。真吾は半ば自棄になって考えるが、そうはならなかった。それを残念に思うべきなのか、友情に感謝すべきなのか、いまの真吾には判断がつかなかったし、もうなにもかもどうでもよかった。
 メフィスト2世はふいっと真吾から目をそらすとステッキをひと振りして身支度を整える。
「……そっか、わかった。俺もう寝るよ。明日は俺もついてくぜ。構わないよな」
 要望ではなく決定事項を告げるかのような第一使徒の口ぶりに、真吾の胸中はざわざわと荒れはじめた。メフィスト2世が押入れに潜り込むのを確認してから、両手でこめかみを強く押さえて癇癪を鎮めようとする。いったいどっちが主人だと思ってるんだ?
 真吾は声に出さずに喉の奥で呻いた。いまこの瞬間真吾がもっとも恐れているのは他でもない、だれかれ構わず当たり散らしそうになっている自分自身だった。

 真吾はこらえ切れず家を抜けだした。肺に突き刺さるような冷たい夜の空気を雨と一緒に吸い込み、防空壕へ滑り込む。叫びださずにいられたのは幸いだった。あのまま傍にいれば取り返しのつかない一言を放ってしまいそうで怖かった。引きずり出して殴り飛ばしたい衝動を抑えるので手一杯だったのだ。

 真吾は懐からソロモンの笛を取り出すと、噛みつくように唇に押し当てる。
 くそっ、腹が立って仕方がない、なにもかも、僕にすべてを押し付けて僕ばかりが苦しんでる。僕はこんな力いらない、分数や図形の面積の求め方に四苦八苦してる普通の子供でいい、神童、天才なんて呼ばれても嬉しくなんかない、なんにもわからない子供でいい。怪物がでたら脅えて動くこともできない、強いヒーローが助けに来てくれるのを待っている弱い子供でいたい。その気になれば辺り一面を破壊しつくすこともできる強大な力を持つ悪魔を下僕として使役するような、そんな重荷はもう嫌だ。逆五芒星なんかどうだっていい、けっきょく世界はなるようにしかならないんだ。罠だとわかりきっている場所へ行かなきゃならないなんて馬鹿げてる。そんなのメシアじゃなくたってわかる。館の悪魔なんて知ったことか。縄張り争いでもなんでも好きにすればいい、僕にどうしろっていうんだ。僕はただの、子供なのに。もううんざりだ。

 激情を鎮めようとソロモンの笛に息を吹き込み、そして愕然とする。かすれた音が小さく漏れただけで、どんなに強く息を込めても笛は沈黙を保ったままだった。
 ソロモンの笛が、吹けない。
 真吾は小刻みに震える指をなんとか笛から引き剥がした。
「そんな、嘘だろ……」
 夜が明けたら使徒を呼び集め、逆五芒星の罠へと赴かなければならないというのに。
「いまの僕はメシアじゃない……その資格はないってことなのか……?」
 こんな状態でいったい僕はどうやって戦えばいいんだ?


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2008/9/22

もうちょっと先の展開まで考えてからと思ってたんですが、せっかく一周年なのでできたところまで更新しました! まだ21日だけど気にしない。というわけで次回更新はちょっと先になるかもしれないです。主人公が一時的に力を失う、という展開って燃えちゃいます。ソロモンの笛が吹けない精神状態の真吾くんはメシアとは言えないのか、それとも一時的に力が弱まっているだけでメシアであることに変わりはないのか、そのへんどうなのかなって考えちゃいました! 館の悪魔と手を組んだこともメフィスト2世にばれるし、あっちもこっちもたいへんなことに、ってことでなにもかも嫌気が差しちゃった真吾くんなのでした。さりげなく兄妹がなかよしなのも好き。