ユートピア「38話 最強の種族」


 腸が煮えくり返るような思いに、真吾の精神は完全に乱されていた。
 だめだ、なにもかも苛つく。
 ただの気休めだがなにもしないよりはと真吾は行動を起こした。シャツに張り付いていた女の髪を元に魔術の痕跡を辿ることにする。分類としては黒魔術で、普段の真吾ならまず使わないものだったが、いまは手段を選ぶ気にはなれなかったのだ。邪法に近い分、タロットよりも正確に対象を絞り込める。
 真吾は抑揚を欠いた声で第一使徒に告げた。
「出かける。たぶん戦闘にはならないと思うけど、用心だけはしろよ。場所はここだ」
 とんとんと指先で地図を叩く真吾に、メフィスト2世は怪訝そうな顔をしながらも黒い点を確認する。黒魔術によってつけられた印の示す場所は、真吾の住んでいる町の外れ、寂れた住宅街の一角にあった。

 有無を言わさぬ雰囲気を感じ取ったのか、メフィスト2世は軽口を叩かなかった。今夜は風が強く、いまにも泣き出しそうな空を見上げているとますます気が滅入ってくる。強風のなか真吾を落とさないよう注意を払ってくれているのか、メフィスト2世の飛行は穏やかだった。そんな心配りでさえいまの真吾には苛立ちの元となり、自己嫌悪に陥るという悪循環にうんざりしていた。
 探し当てた場所は十一階建てのマンションの最上階、角部屋だった。黒魔術でもそこまで正確なポイントはわからなかったのだが、近くまで来てみれば一目瞭然、肉眼で確認できるほどの杜撰な魔力の痕跡が残っていた。逆五芒星の男はクズかもしれないが馬鹿ではない、おそらく無駄足だろうと真吾は考えていたが、とりとめのない自問自答の結果だ。すなわち、
 この調査によって呪術を解く鍵くらいは見つかるだろうか? たぶん無理だな。どうして自分でも無駄だと思っている調査をするんだ? そんなの知るか。メフィスト2世を腹立ちまぎれにぶっ飛ばすよりは平和的だ。気晴らしくらいにはなるんじゃないか。

 ベランダに降り立ち、なんのためらいもなくガラス戸に手をかけ、真吾はメフィスト2世を振り返った。いまいましい錠が下りている。
「開けられるだろ?」
「そんなチンケな魔力、俺は使えねえよ」
「つまりできないんだね。意外だな」
 軽い嘲りを聞き取ったのかメフィスト2世の表情は若干険悪なものとなったが、普段とあまりに雰囲気の違う真吾への戸惑いのほうが強かったらしい。開きかけた口を閉ざすと、小さく首を振ってステッキを振りかざしかけたが、真吾は左腕を軽く上げてそれを制した。毛布、工具箱、ベランダの隅にはおあつらえ向きの道具がある。ただの破壊なら必ずしも魔力に頼る必要はない。
「いいよ、僕がやる」
 隅に丸めて置かれていた毛布をガラス戸にぴたりと押し当て、工具箱から取り出したレンチをしっかり握り、真吾はぐっと腕に力を込める。毛布越しにレンチを叩きつけると、ガラス戸に亀裂の入るくぐもった音が響く。二度、三度と繰り返し、障害物を力任せに叩き割った真吾は幾分すっきりした気持ちで息を吐く。毛布を取り除き、砕けたガラスの隙間に慎重に腕を差し入れて鍵を外し、真吾は靴を履いたまま室内に侵入した。新品らしいベッド、ソファー、簡素なテーブルと椅子、小型の冷蔵庫、いかにも仮住まいといった感じで私物と思われるものはほとんどない。

 テーブルの上に無造作に置かれていた紺色のボストンバックを開けると、初歩的な魔術書や道具がぎっしり詰まっていた。大分使い込まれた様子のノートを発見したので、ソファーに仰向けに寝転びぱらぱらとめくり始める。ただの覚書で、たいした発見はなかった。メフィスト2世はしばらく所在無げに立っていたが、やがてぽつりと、
「俺はどうすりゃいいんだよ、悪魔くん」
 と呟いたので、真吾は億劫そうに生返事をする。
「その辺に座ってろよ」
「なんで今日は虫の居所が悪いんだ?」
「他人の顔色を窺うなんて、メフィスト2世らしくないな」
 真吾はごろりと半回転してうつ伏せになると、左手で頬杖をついて悪魔の少年を見上げた。
「悪魔くんは他人じゃない。なにに気を揉んでるのか知らねえが俺の友達だ。それに、それを言うならいまの悪魔くんも悪魔くんらしくないぜ」
 真吾はその言葉が生み出した波紋を不思議な気持ちで受け止めていた。メフィスト2世は自分のどこを気に入って一番の友達だと思うに至ったのかさっぱりわからない。試しに、メフィスト2世や他の使徒たちに対する自分自身の思いを考えてみたが、寂しい結論に行きついただけだった。つまるところ、生死を共にし、信頼し、無条件で愛せる存在が自分には必要だっただけに過ぎない。仲間の悪魔たちが自分をどう思おうとも、真吾は無条件で彼らを愛しただろう。メシアとして戦うこと、十二使徒を頼り、頼られ、愛し、愛されること、煎じ詰めればすべて自分自身のためだからだ。

 意識する間もなく真吾の口は動きだしていた。なんの脈絡もないが、構うことはない。
「百目に出会い、見えない学校で使命を受けるまで、僕はずっと君たち悪魔に幻想を抱いていたんだ。悪魔なら僕の鬱憤を晴らし、僕の知への欲求を満足させてくれて、とにかくなんでもできそうな気がした。でも、悪魔も人間もたいして違いはなかった」
「幻滅したか?」
「ある意味ではね」
 メフィスト2世は軽く目を見開いたが、怒りはしなかった。真吾は一呼吸置いてからさらに続ける。
「君たち悪魔は人間を侮り過ぎてる。だから先の東嶽大帝との戦いも僕が勝ったし、やつが差し向けた刺客もことごとく退けられた。そして、人間を侮っていたのは悪魔だけじゃない。僕もそうだ。同族の人間の力を甘く見ていた。強靭な肉体と魔力を持つ悪魔から見れば人間は脆弱な生き物だけど、でも人間は君たちが、僕が思っていたほど弱くはない。それがよくわかったんだ。人間の魂は……精神と置き換えてもいいけど、それは他のどんな種族よりも強いと僕は思う。だから、強大な悪魔でさえ契約によって縛りあげ従えることができる。単純に力だけで考えると、知能を持つ生き物のなかで一番弱いのは人間だ。でも、ある一定の条件下では、人間が最も強い種族になる。人間の強さ、真価が発揮されたとき、そのときは君たち悪魔が束になってかかっても絶対に人間には勝てない。これは予想じゃない、純然たる事実だよ。物事にはバランスがある。すべての面において最強の種族なんてものは存在しないと僕は考えてる。ある一面においては悪魔が最強だけど、人間が最強の種族になる瞬間が確かにあるんだよ、メフィスト2世。だから人間のなかにメシアが生まれるんじゃないかな」

 真吾は呪術に囚われたいまの状況を少なからず楽しんでいた。気を緩めると暴れ回る感情の嵐を押さえつけ、ときには爆発させる。いい子だった自分の内側に確かに潜んでいた、短気で攻撃的で冷笑的な僕。
「ほら、僕って頭がいいじゃないか」
「まあ、そうだな。悪魔くんは俺たちの司令塔だからな」
 しれっと言ってのける真吾に、メフィスト2世は頷いた。
「なのに、僕は馬鹿なやり方で幼稚なことをしてる。おかしいだろ? 僕の本質、知性ってやつを改めて考えてみたら、それはぜんぜん穏やかできれいなものじゃなかったんだよ。僕の言いたいこと、わかるかな。僕の持っている、なんのために持ってるのか知らないけど、たぶんメシアであるためって答えが一番いいんだろうけど、とにかく僕の持ってる力は、真っ暗で怖い場所に行こうとしてる。怖いのも痛いのも嫌なのに、どんなにがんばってもそこにしか行けない。おかしいよな。僕がほしかったのはきれいで静謐な世界だったはずなのに、僕の手には闇の力しかない。これってちょっと矛盾してないか?」

 こんなことは言うべきじゃない。メフィスト2世の胸中を慮ってやることもできない自分にうんざりしながらも、真吾は止められなかった。ここまで来たら、呪術に身を任せてみるのも悪くはない。
 いつになく高飛車で、猜疑心に満ちた真吾に、メフィスト2世もどう対応すべきか迷っているようではあったが、意外なほど冷静だった。こんな状況でなければ、滅多にみられないメフィスト2世の落ち着いた、真吾よりも長い時を生きてきた悪魔らしい余裕に救われていたところだが、いまの真吾の精神状態では無理だった。
「俺はそんなややこしいこと考えねえし、いまの悪魔くんを納得させられるものは出せないだろうな。悪魔くんから見たら俺はすげえ馬鹿かもしれないけどさ、でも俺だってそれなりに、たまには物を考えたりもするんだぜ。だから、俺は――」
 メフィスト2世はぴたりと言葉を切った。黒いマントを翻し一瞬でドアの手前に移動すると、ステッキを盾のように構える。一連の動作は氷の上を滑るように軽やかで、隙がまったくない。
「なにか来た。人間だ」
「じゃあ、捕まえて、僕の前に連れて来い。相手は人間だ、簡単なおつかいだろ」
 小馬鹿にしたような命令口調の真吾に、メフィスト2世はさすがにむっとした顔をしたが、言い争っている状況ではないと判断したのか黙って従った。

 真吾は弾みを付けてソファーから立ち上がると、ぶらぶらとキッチンを物色した。おやつを食べ損ないひどく空腹であることに気づいたので、戸棚にあった食パンに冷蔵庫で見つけたマーガリンとジャムを塗り始める。キッチンのテーブルに腰を下ろしてゆっくり食べていると、見覚えのある女が戸口に姿を現した。その後からメフィスト2世が足音を立てない独特の動きで入ってくる。
「ご命令通り連れて来たぜ、悪魔くん」
 メフィスト2世はおもしろくなさそうに早口で言った。
 これはまずったなと真吾は思う。僕に呪術をかけた、あの柴犬を連れたお姉さんじゃないか。呪術が解けるまでは、あの件は無かったことにするしかないのに。
 真吾の姿を一目見るなり脅えたように身をすくませた女に、メフィスト2世は怪訝な顔をしている。真吾は口の中のパンを飲み下してから、女とひたりと目を合わせた。
「はじめまして、お姉さん。初対面でいきなり乱暴な真似して悪いけど、ちょっと聞きたいことがあるんだ。いいよね? あとね、お腹空いたからこれもらったよ」
 はじめましてと初対面の部分で目に力を込めて話しかけると、女は不安そうに頷いた。
 まいったな、あの男のことだから情報操作くらいはしてるだろうし、正直に喋ってくれたところで信憑性なんてないだろう。メフィスト2世の手前、初対面を押し通すしかないし、形だけは情報を集める振りをしなきゃならない。
 そんなことを冷淡に考えている乾いた自分は心底嫌だったし悲しかったが、そう感じられる心に安堵してもいた。


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2008/9/12

一周年のリクエスト募集は終了しました、ありがとうございました!
突然ですが9月22日でサイト一周年ということに気づいたので、リクエストを募集したいと思います! 開設当初の予定では、長編が終わるまでサイトやるつもりだったので、一年くらいかなあと予想してました。でも、ものすっごく長くなってきて当分ぜんぜん終わりそうにないし、なんだか予定は未定な感じになってきました。ということでせっかくここまで果てしない妄想が続いたことだし、一回くらい企画をやってみたいと思います。よっぽど無理難題でなければOKです。こんなの書けというのがあったらお名前とリク内容をお願いします!(超マイペースなので気長に待ってくれるかた限定です! ただ恋愛ものは閲覧専門で自分では普段想像しないので難しいかも……手を繋ぐくらいならできるかもです。色気がなくてもいいならOKです

呪術に囚われてる真っ最中なので、かなり高圧的で生意気な真吾くんになっちゃってます。メフィスト2世のほうがいまは落ち着いてる感じです。これが普通の状態だったらものすごい喧嘩になりそうだけど、ここまで真吾くんの雰囲気ががらっと変わっちゃった場合、メフィスト2世はまず様子をみてから行動してくれそう。一番の親友らしくそうしてくれたらいいなあ。さすがにちょっとむっとしちゃってますが、でもお兄さん的な余裕を見せてくれるメフィスト2世ってかっこいいなって思います!