ユートピア「37話 試しの呪術」


 女は唐突に語り出した。
「子供のころは一人で家にいるのが怖かった。おばあちゃん子で、よく恐ろしい化け物の話を聞かされてたの。でもいまは平気。どうしてだかわかる?」
「さあ、僕、子供だからわかんないよ……」
 真吾はじりじりとドアに向かって後退した。
 女の薄い唇がゆっくりと動く。
「いまは私がその化け物だからよ」
 朽ちかけた肉のような異臭が辺りを満たし始める。足もとに浮かび上がった逆五芒星を、真吾はどこか投げやりな気分で確認する。
 いつか夢のなかで逆五芒星の男が言い放った言葉が真吾の脳裏に蘇る。日常生活には危険がたくさん潜んでいるからね、いつどこで何が起こるかわからない……。
 そんなことは百も承知だったが、自分の正義を曲げてまでその甘さをなくすことはない。こんな状況のいまでもそれが正しいと思っている、おめでたい僕。

 それにしてもこの女……どんな経緯で逆五芒星の男と関わったのか。知ったところでどうにもならないが、最近僕の出会う人間はみんなこんなやつらばっかりだ。
 いまの真吾の敵は人間だ。十二使徒はもちろんのこと、場合によっては館の悪魔やレラジェといった悪魔たちが味方で、理解者だった。人間よりも悪魔たちのほうが真吾をよく知り、評価し、その思想に興味を抱いてくれている。

 僕はいったいなんのために戦っているんだろう。ユートピアはなんのために、誰のために必要なんだろう。問題は悪魔よりもむしろ人間側のほうにあるんじゃないか? わからない。メフィスト2世、君に聞けば安心できる答えを返してくれるかな? 君なら僕を人間側に引き留めてくれるかな。

 しかし、そもそも真吾は人間だけの味方ではなかった。それを意識しているときもあればそうでないときもあるが、人間も悪魔も同列に考え、愛そうとするのが真吾の常だった。同族である人間がそれを知ったらいい気はしないだろうと真吾はぼんやり考え、すぐにそれを振り払おうとしたが上手くいかなかった。
 僕は必ずしも人間にとって都合のいいメシアではないのかもしれない。そうありたいともいまは思えなかった。

 女の髪が蛇のようにのたうちながら伸び、あっという間にリビングを埋め尽くした。物理の法則を完全に無視してるな。悪魔を呼び出し魔術を散々行使しておきながらなに考えてるんだろう、僕は。まったくありふれた怪談だ、おもしろみもなんにもないよ。今度あの男に会ったら言ってやる。僕が見てきた地獄のほうが数百倍恐ろしいって。
 ぎしぎしと軋みながら這い寄って来た長い髪が真吾を絡めとり、動きを封じた。女の唇からゆるゆると呪が紡ぎだされる。

 真吾はこの呪術を知っていた。子供たちの魂の力を利用したのだろうが、最低限の魔力と正確な知識さえあれば比較的簡単な、知名度の低いマニアックな呪術だ。その代わり術を跳ね返すのも容易で、破られたほうの苦痛も凄まじいのだ。だから真吾はためらった。人間の女に手荒な真似はしたくない。
「ねえ、聞いてほしいんだ。あなたはいいように利用されてるだけなんだよ。僕が苦しくないように術を解いてあげるから、こんなことは止めるんだ。お願いだから僕を信じて」
 女は妖艶に微笑んだ。身体を締め付ける髪の力が強くなる。人間の髪は頑丈にできている、束になればちょっとやそっとじゃ切れないんだよな。真吾はのんきな自分の思考におかしくなった。もしかして、これは結構なピンチじゃないだろうか。

 顔まで伸びてきた髪を右手で振り払うと、女の柔らかい首筋に爪が当たって細長い傷跡を残した。真吾ははっとして手を引っ込める。締めあげる髪の力はますます強くなり、意識が朦朧としてくる。ほとんど無意識のうちに右の太腿を腹まで素早くあげ、その反動を利用して女を思い切り蹴り上げようと構えるが、強いためらいがそれ以上の動きを押しとどめた。
 女を蹴るなんてできない。それにそんなことをしたらますます説得が困難になる。
 たとえ人間が相手でも、敵が男だったなら真吾も力任せに反撃に出ていた。多少荒っぽい手段を使ってでも呪術を跳ね返していただろう。だが、儚げな肢体の女を前にして、真吾はどうしても攻撃に転じることができなかった。
 ぎりぎりまで判断を遅らせ、迷う真吾に、女はほとんど唇を動かさずに言った。
「『悪魔くん』、あなたに渡すものがあるの」
 鋼のような髪は真吾の喉元まで迫り、じわじわと攻撃の手を強めてくる。
 柔らかい皮膚に髪が食い込み、少しずつ、だが着実に締めあげてきた。額に脂汗を浮かべ喘ぐ真吾に、女は呪術の仕上げを口にした。

 床全体が灰褐色の波に包まれ、逆五芒星の放つ光が強くなる。結界のなかをなにかが満たし、じわじわと真吾の意識を包囲しつつあった。
 いま真吾が感じているのは怒りでも恐怖でもなく、自分を含めた人間すべてに対する強い憐憫だった。脆く儚い人間たちが、楽園への片道切符を求めてさまよっている。ときには道をそれて自ら地に落ちようとする者もいる、あの逆五芒星の男のように、目の前にいるその手下の女のように。目を背けたくなるほど弱々しい生き物への哀れみが大きな隙を作ってしまったこともよくわかっていた。

 歪んだ鋳型に無理やり押し付けられたような違和感と息苦しさに、真吾は意識を集中させ精一杯の抵抗を試みたがもう手遅れだった。逆五芒星から迫りくるなにかが真吾を覆い尽くし、塗りこめようとしているのがわかった。
 これは僕の魂を蝕み、闇へと誘う危険な呪術だ。なにかが侵食しようとしている、これは僕じゃないのに……。

 逆五芒星の中心に横たわったまま何時間経ったのか、真吾はふっと意識を取り戻した。見慣れないリビングをかすむ目で見渡す。ここ、どこだっけ……。そういえばあの女に呪術をかけられたんだった。真吾は両腕を上げて大きく伸びをした。胸が躍るような最高の気分だと心の一部は感じていて、それがいま現在の真吾を支配していた。だが精神の奥深くにぽつんと取り残されているいつもの真吾はそうは思わなかった。
 おかしいぞ、僕はどうしちゃったんだろう。ガラス越しに世界を見ているような、手を伸ばせば触れられそうなのに後一歩のところで届かない、そんなもどかしさでいっぱいだ。

 ゆっくりと片足ずつ立ち上がり、真吾は顔をしかめる。身体中が痛い、あの女のせいだ。腹立ちまぎれに邪魔な椅子を蹴倒してから、ランドセルを漁って画用紙とハサミを取り出す。図工の授業の余りだが、ちょうどいい。真吾は唇の端を持ち上げたが微笑んではいなかった。大雑把に人の形に切り抜いてから、左腕に絡みついていた女の髪を取る。呪を唱えながら紙人形にしっかりと巻きつけ、真吾は満足そうに出来栄えを眺めた。
 僕には力がある。いままで自分のために使ったことはなかったけど。
 紙人形を右の指先でつまみ、真吾はリビングを後にした。ドアを開けてすぐ左隣、庭へと通じるテラスに女の後姿を発見し、真吾は両足をぴたりと揃えて立ち止まる。
「ねえ、お姉さん」
 女はぎょっとしたように振り向いた。真吾を実際の年齢より幼く見せている、いつもの無邪気な笑顔に、女は怪訝そうに眉をひそめる。女としっかり目を合わせてから、真吾は魔力を込めた紙人形を力いっぱい握りつぶした。その途端、女の顎ががくんと下がり、喉の奥からかすれた悲鳴が漏れ始める。徐々にボリュームが上がってきた苦痛の叫びを、真吾は無表情で聞いていた。
 女の身体からなにかがぞろりと這い出て来た。おそらくあの逆五芒星の男が与えた力、歪められた子供たちの魂の一部だろうと真吾は冷めた目で考える。
 冷酷で無意味な復讐を淡々とこなす自分自身に、真吾の心の一部は焦っていた。ちょっと待てよ、僕はなにをしているんだ? だが激しく渦巻く負の感情に吹き消されてその冷静な声はすぐに沈黙した。
「僕の魔術は一味違うんだよ、お姉さん。だから言っただろ、あの男に利用されてるだけで、ただの捨て駒なんだって。あとであの男を問いただしてみるといい。その元気があればね」
 うずくまって震える女に、真吾は付け加える。
「これはさっきのお返しだよ。だいじょうぶ、死ぬほど苦しいけど死にはしないから。たぶんね。じゃあ、僕もう帰るね。ばいばい、お姉さん」

 軽快な足取りで真吾は女の家を後にした。途中、柴犬が真吾に走り寄ってきたが、ぴくりと耳を震わせると慌てたように縁の下に潜り込んだ。真吾は横目でちらりと見やり、すぐに興味を失った。

 真吾はどこか遠い場所、分厚い壁の隙間から自分自身を眺めていた。言葉を発し、手足を動かしているのは確かに真吾自身で、自覚はあるのに取る行動はことごとく普段の自分からかけ離れたものばかりだった。
 ようやく我に返ったとき真吾は自室のベッドに服を着たまま横たわっていて、とんでもないことをしでかしたという記憶だけが残っていた。

 夢のなかの出来事のようだったが、間違いなく真吾自身がしたことだった。あのあと真吾は館の悪魔のもとへ単身乗り込んでいき、開口一番、
「あのときのお申し出はまだ有効ですか」
 と尋ね、館の悪魔と再び手を組んだ。今度は見せかけではなく本当にだ。
 そのときの真吾にとってはそれが最高に楽しそうで心躍る完璧な計画に思えたのだ。操られていた、というのとは少し違う。

 くそ、僕はなんて迂闊だったんだ、女への攻撃をためらったばっかりに、厄介な呪術をかけられた。あの逆五芒星の男、なんでこんなにマイナーな呪術を知ってるんだ、悪魔の入れ知恵でもあったのか?
 他者を操る呪術は数多いが、これは一味違う。正確には、操っているわけではないのだ。
「この呪術の本当に恐ろしいところは……」
 真吾は頭を抱えて呟いた。
 本当に恐ろしいのは、術をかけられた者にその自覚があることなのだ。深層意識に眠る、普段意識することもないような負の感情や欲望、凶暴性を極限まで増幅して引き出す。だから厳密には操られているわけではないのだ。そしてかけられた本人もそれを理解しているから、単純に意識を奪われ傀儡にされるより苦痛は激しい。

 この呪術を僕にかけた女……逆五芒星を作った男の手下……。思考が形作られるたびに、ほんのわずかによぎった砂粒ほどの負の感情が胸の奥で暴れまわる。
「……仕返ししてやってすっとした」
 真吾はぞっとして両腕で自分自身の身体を掻き抱く。
 これだ、これがこの呪術の最も厄介で怖い部分だ。本当にごくわずかとはいえ確かに自分のなかに息づく感情だということを、嫌というほど思い知らされる。
 その性質上、試しの呪術とも呼ばれている。

「随分遅かったんだな、悪魔くん。道草食ってたのか?」
 ベランダからひょいと現れたメフィスト2世に、真吾はとっさに答える。
「貧太くんと遊んでたんだ」
 必要に迫られて出た嘘だった。この呪術にはもうひとつ途方もなく厄介な性質があるからだ。呪術の存在を他者に悟られてはならない、さもなくば永遠に解けなくなる。ただでさえ頭の痛くなる事態に加えて、真吾はたったひとり、自分だけの力で呪術を跳ね返さなければならないのだ。それまで弁解もできない。そして……。

 考えたくない。だが真吾は止められなかった。
 メフィスト2世は気位が高く、彼自ら主君だと認めた真吾に対しても従順とはとてもいえない。いままで気にならなかった、むしろ好ましく感じていた第一使徒の勝手気ままな言動が急に鼻につきはじめ、そのすぐあとで真吾はそんな自分自身を激しく嫌悪した。


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2008/8/29

やっと魔界のおつかいも終わってほっとしたのも束の間、ものすごい勢いで大ピンチな真吾くんでした! 呪術のせいとはいえ、冷たくぶち切れた真吾くんってなにより恐ろしいと思います……。厭世的になっちゃった天才って怖いです。真吾くんの甘さ、弱さ、メフィスト2世との友情、ユートピアへの迷い、あれこれ考えると燃えちゃいますよね! もちろんこの呪術は、自分で勝手に考えた都合のいい呪術です。そしてとうとう原稿用紙300枚突破してしまった……いままで一緒に燃えてくれたかたありがとうございます! ひとりだったらここまで続かなかったんじゃないかなって思います! さっき微妙に矛盾に気づいたけど気にしない方向で……!