ユートピア「36話 主人と下僕」 きっちり約束を果たして帰還した真吾に、館の悪魔は上機嫌だった。そのときのことを思い出し、真吾は重い溜息を洩らした。 五月二日午前五時十七分、再び館の悪魔の領地へ足を踏み入れると、当たり前のように替えのタキシードを手渡された。呪がかけられていたとはいえ、過酷な旅ですっかりぼろぼろになった服を着替えろというのだ。そこまではいい。確かにこんな格好では失礼だろうと真吾も納得した。だが、ちょっとした一軒家なら丸ごと入りそうな大理石の浴室で真吾を待ち構えていたのは館の悪魔の使用人たちで、しかも女の悪魔だった。濃い橙色の縁取りがされた裾の長い白い衣を身にまとい無表情で近づいてくる彼女たちに、真吾はしどろもどろに辞退しようとしたが、あっという間に汚れた服を剥ぎ取られ泡立つ湯に沈められた。恥ずかしいやら情けないやらで顔を赤くしたり青くしたりしていると、仕上げとして香水までつけられた。 というわけで、あれから丸二日経ったいまでも、思い出すたび顔から火が出るほど恥ずかしかった。おまけに魔界の香水は特殊なのかまだ微かに香りが残っていて、それがより一層真吾の気持ちを暗くする。 「なんで助けてくれなかったんだよ」 ちゃっかりひとりだけ魔法で身支度を整えていたメフィスト2世に、真吾は恨めしそうな目を向けた。 「だってよ、館の悪魔んとこに戻るとき、泥だらけで気持ち悪い、早く風呂入りたいって言ってたじゃないか」 「それは家のお風呂の話だよ。メフィスト2世は世話されるのに慣れてるから平気かもしれないけど、僕は違うんだよ。いくら使用人とはいえ知らない女の人……いや、悪魔にお風呂の世話までされたくない!」 真吾の絶叫に、メフィスト2世はぽりぽりとステッキの先で額を掻いた。 「そっか。悪魔くんはいろいろ難しい年ごろなんだな」 「うるさい」 「そんなに怒るなよ」 完全な八つ当たりだとわかってはいたが、真吾はしばらく立ち直れそうになかった。悪魔と死闘を繰り広げていたほうがまだましだった。いくら悪魔とはいえ、単に館の悪魔の命に従って世話をしてくれただけとはいえ……いくら真吾でもそれなりに、いやかなりショッキングな出来事だったのだ、年頃の少年としては。 壁に向かって体育座りをしたまま落ち込んでいる真吾をさすがに見かねたのか、メフィスト2世は話題を変えてきた。 「それより、館の悪魔の提案には驚いたよな。悪魔くんに領地をやるだなんてさ。ちょっとおもしろいよな。あっさり断っちまってよかったのか?」 「そんなの受けられるわけないじゃないか。興味がないと言えば嘘になるけど、これ以上魔界の領土問題に深入りしちゃまずいだろ」 本来ならこちらの問題のほうを思い悩むべきだったのだけど、と真吾は深いため息をついた。 レラジェの言う通り、館の悪魔の本来の狙いは真吾を自分の陣営に引き込むこと、というより周りの悪魔たちにそう思い込ませることだったのだが、いまさらどうしようもない。真吾のほうも見えない学校を守るために館の悪魔を利用したのだからお互い様だ。 前向きに考えると、いまの真吾には館の悪魔の後ろ盾があるのだともいえる。売名目的の悪魔から命を狙われる危険は減ったのだ。館の悪魔の名前を持ち出せば協力的になってくれる悪魔も少なくない。だがその考え方は真吾をさらに憂鬱にさせた。 真吾はその気になれば抜け目のない、感情を排除した冷酷ともいえる合理的な判断、命令を下すこともできるし、老獪ぶりを発揮することも可能だ。だがそれはただ必要ならできるというだけの話であって、実行に移すことは滅多になかった。そこまでしなければならない事態などまずなかったからだ。 真吾はおもむろに立ち上がると、壁に向かって、 「学校行ってくる」 と宣言したが、答えてくれたのはやはり背後のメフィスト2世だった。 「じゃ、俺昼寝してるわ。なんかあったら呼べよ」 「うん、じゃあね」 ランドセルにせっせと教科書を詰め込んでいる百目の姿に心を和ませてから、真吾も大急ぎでパジャマを脱ぎ捨てる。 「そういやさ、年中サシペレレに身代りさせてて怪しまれないのか?」 壁にもたれかかり、思いついたように言うメフィスト2世に、真吾は意味ありげに微笑んで見せた。シャツの袖に腕を通しながらドアを勢いよく開けると、階下の母親に向かって声を張り上げる。 「ママ! 僕の体操着もう乾いてる?」 目を瞬かせているメフィスト2世を振り返りながら真吾は得意げに言った。 「これで大丈夫! 最近は僕もときどきパパママって呼ぶようにしてるから、サシペレレがちょっとくらい変なことをしてもごまかせるよ」 メフィスト2世は、人差し指でシルクハットをくるりと一回転させてから真吾を見上げた。 「悪魔くんってさ……すげえ天才だけど、退屈する暇ないくらいおもしろいやつだよな」 「どういう意味だよ」 「いや、別に。当たり前といや当たり前だけど悪魔くんはやっぱガキなんだよな」 「なんだよ、こないだの続きでもやるつもりか?」 朝の清々しい空気に誘われ、元気の有り余った言葉を口走ると、メフィスト2世はくつくつと笑った。 「いいぜ、表にでるかあ?」 メフィスト2世とふたり、にやりと笑みを交わしていると、百目にしがみつかれたので、 「大丈夫だよ百目、喧嘩なんてしてないって。冗談だよ、冗談」 真吾はできるだけ穏やかな口調でやんわり説明する。 いつもと変わらない、正常で幸福な朝だった。驚異的な早さで朝食を平らげて記録を更新し、百目と一緒に始業時間ぎりぎりに教室へ滑り込む。メフィスト2世も気が向くと空から真吾を追いかけてきて、教室の傍の桑の木に腰を掛け、大きく欠伸をして人間界の空を眺める。 ユートピアとはなんだろう、その疑問に対する答えとして提出してもいいくらい、いつまでも続いてほしい穏やかな一日の始まりだった。 体育が二時間、道徳が一時間、今日はランドセルが軽い。百目は貧太くんと一緒に図工の居残り組だし、ひとりで帰るのも久しぶりだ。小石を蹴りながらうららかな気分でのんびり歩いていると、足に何かがまとわりついてきた。ふくらはぎに小さな頭をこすりつけてくる柴犬に、真吾は歓声をあげた。 「かわいいな、どこから来たの?」 首輪はあるが、飼い主らしき人物は見当たらない。平らな頭のてっぺんを掻いてやると、千切れんばかりに尾を振って足を舐めてきた。くすぐったさに目を細め、しゃがみ込んで犬を押さえようとすると、急にズボンに噛みついてきた。正確には、ズボンのポケットからはみ出していたキーホルダーにだ。 失くしたら叱られる。鍵をくわえたまま走り去っていく柴犬を真吾は慌てて追いかけた。 生垣の隙間をくぐり抜け、見ず知らずの家の庭先をごめんなさいと呟きながら突っ切り、真吾は走る。柴犬は時々速度を落としては真吾を振り返り、追いつきそうになるとまた駆け出した。 「なんなんだよ、いったい」 大幅に通学路から外れ、散々駆けずり回され、ようやく犬が立ち止まった。勝手に入ったらまずいよなと思いながらも、仕方がないのでそろそろと足音を忍ばせて門をくぐる。 「どなた?」 ぎくりと肩を震わせ振り返ると、長い髪を無造作に腰の辺りまで垂らした女が微笑んでいた。柴犬がくわえているものに目をとめ、すぐに状況を把握したようだった。 「ごめんなさいね、この子ったらいつもこうなの」 女のほっそりとした指が柴犬の口から鍵を外した。鍵を受け取りながら、真吾は行儀よく答える。 「僕のほうこそ勝手に入ってごめんなさい」 柴犬が再び真吾にまとわりついてきた。顔中を舐められ、涎でべたべたにされるが鍵だけは死守しながら後ずさる。 「拭いたほうがいいわ、いらっしゃい」 真吾はためらったが、強く断る理由も見つからなかったので大人しく後についていくことにする。ちょっとだけなら大丈夫かな。 ほとんど装飾のない実用一辺倒のリビングは寒々としていて、モデルハウスのほうがまだ温かみがあった。手入れの行き届きすぎた傷ひとつないフローリング、指紋ひとつないガラス、皺ひとつないテーブルクロス、アンテナ線がむき出しのまま接続されていないテレビ。生身の人間の存在が希薄すぎた。 閃光のような不安がちかっと胸をよぎったが、柔和な女の顔を見て考えすぎだと打ち消した。僕はこんな生活をしているからどんなことにも危険の臭いを探し出そうとするんだ、疑心暗鬼は人間不信のもとだ。引っ越してきたばかりなのかもしれない。 重たいでしょうと促され、真吾はランドセルを降ろした。蒸しタオルで優しく顔を拭われ、なんとなく落ち着かない気分で女から目をそらす。 女はタオルを離すと、不自然すぎるほどにこやかに微笑んだ。なんの前触れもなくだしぬけに全身の筋肉がこわばり、鼓動が速くなるのがわかる。お馴染みの危険のシグナルだ、部屋の温度が一気に下がったかのような感覚に肌が粟立ってくる。素早く意識を集中すると、始めは気付かなかった禍々しい呪術の痕跡が渦巻いているのが見えた。真吾もその気になれば本来不可視であるはずの魔力の残り香を察知できるが、ここまで巧妙に隠されていてはよほど意識を凝らさないと難しい。 よくわかってる。レラジェの言った通り僕はろくに自分の立場をわきまえてない。僕は結局甘いんだ、あらゆる相手に何度も忠告されてきたように。問題点なら箇条書きでいくらでもだせる。まず、ふらふらひとりで出歩くべきじゃなかったし、関係がぎくしゃくすることを恐れて十二使徒への、特にメフィスト2世への命令をためらうのは愚の骨頂だ。 メフィスト2世は親友だが、ひとつの厳然たる事実として真吾の下僕でもある。血の気の多いメフィスト2世を叱責することもときには必要で、そのためには主人という立場を強調せざるを得ない。館の悪魔をはじめ、強大な悪魔と関わることへのメリットとデメリットの計算も甘い。 でも十二使徒である前に、みんな僕の友達なんだ……。 だけどそれは結局十二使徒を信用しきっていないことに繋がるのかもしれないと真吾は自嘲交じりに考える。その程度で亀裂が入るような絆しかないのだったら、真吾の願うユートピアなど実現できるはずがなかった。 メフィスト2世はどんな状況でも最後まで僕を信じてくれていたのに、僕のほうは彼の信頼と友情を失うことを恐れ、妥協すべきでないところで妥協し、主人としてふるまうべき場面で中途半端な態度を取っている。その程度で揺らぐような友情じゃないのに、それでも僕は情けない恐れを心のどこかに抱いている。 こう考えると、僕ってけっこう嫌なやつなのかもしれないな。というより、とんだ臆病者じゃないか。 35話へ 戻る 37話へ 2008/8/17 真吾くんとメフィスト2世は大親友だけど主人と下僕でもあるので、ふとした瞬間に悩んじゃったりすることもあるんじゃないかなーと思います! 真吾くんが犬を追いかけるとは限らないし、鍵を諦めてあっさり帰ったらどうするんだとか大雑把すぎる罠だとかそんな突っ込みはOKです。なんだか最近の真吾くんには女難の相が……! 真吾くんには結構天然に子供っぽい可愛いところがあるといいなって思います! |