ユートピア「46話 ここより先、楽園 7」


 魔法のマントを翻し、うまく攻撃を受け流すことに成功したものの、全身を蝕む強烈な痺れに真吾はがっくりと両膝をつく。疲労と苦痛にもつれる足は腹立たしいまでにいうことをきかない。
 振り返った真吾の目に映る世界は絶望に彩られていた。力尽きた真吾の使徒はぼろぼろで、町の人間たちには助けが必要で、真吾にはどこまで行ってもメシアという肩書がついて回るのだ。

 ずきずき痛む腹を押えながら、真吾はかすれた笑いを洩らす。
「もしかすると僕は、このまま死んじゃうかもな……くそ、こんなの予定外だよ。一年前の僕の青写真にはこんなのなかった。貧太くんも、情報屋も、キリヒトくんも、エツ子も、みんないまごろ安全な場所でなにもかも正常に過ごしてるんだろうな……こんなの不公平だよ、なんで僕ばっかりって思うときもあるよ、ほんとのこと言うとさ」
 真吾は遠くに鎮座する霧に包まれた山と小さな町を見た。生涯最後の光景かもしれない。十一歳で死ぬのはいやだな。揺らめく闇の向こう側から悪魔たちを招き寄せたことを、僕は後悔してるんだろうか。まさか、それだけはあり得ない。十二使徒に出会えなければ僕は、あの逆五芒星の男のようになっていたかもしれない。

「なあ、第一使徒……聞こえてるか? この際だから白状するよ。最近の僕は、いろいろ悪いことを考えてた。この僕の手で魔界に新興勢力を起こしたらおもしろいんじゃないかって、そんな誘惑にも取りつかれてた。館の悪魔の後ろ盾もあることだしさ。そしてちょっとした王国を造る。そのための力も、場所もあるんだよ。館の悪魔に領地をもらっちゃったしね。正直に言うとね、世界を変えるなんてぜったい無理だと思うときもあるんだよ。でも自分の国を自分の色に染めることくらいならできそうだ。束の間のユートピア、僕の支配下にある限りは……。どう思う、メフィスト2世。僕のちょっとした野望、ちゃんと聞いてるか?」
 返事はなかった。真吾はほっとした。そのまま気絶していてくれ。少し考え、ついでとばかりに真吾は付け加えた。
「僕は……僕はさ、命令するよりも、友達としてお願いしたほうが楽だったんだよ、メフィスト2世。メシアとして命令すれば責任が生まれる。僕はそんな重荷が嫌だった」
 誰も聞く者のいない空間で本音を口にし、真吾は幾分すっきりした気分で軽く頭を振った。

 マントを羽織り直した真吾の心は久方ぶりにひとつにまとまろうとしていた。地に倒れ伏す三使徒から怪物たちの注意をそらすため、真吾はじりじりと横に移動する。眼前で魔力が膨れ上がるのがわかったが、真吾の選択肢に逃亡は含まれていない。来るなら来い、何度でも立ち上がってやる。僕のしぶとさは魔界中に響き渡ってる、伝説的なんだぞ。

 こちらの様子をうかがっているのか、怪物たちは束の間おとなしくなった。メフィスト2世、ユルグ、鳥乙女、町の人々の命運はいまや真吾の手に委ねられているのだ。
 真吾はかつてないほど穏やかな気持ちで怪物たちを見た。僕の命と引き換えに町を救ったとしよう。町の人々はその事実を知ることなく終わるだろう。でもそれがなんだっていうんだ? (あいつらを救う価値はあるのか?)我を忘れてメフィスト2世にぶつけた言葉が脳裏に蘇る。価値があるかどうか決めるのは僕自身で、僕が価値を見出せばそれはすべて僕にとっての正義になる。いったいなにが僕の正義だ? 僕は英雄になりたいわけじゃない、栄光がほしいならメシアなんてとっくの昔に止めている。メシアほど栄光に無縁の存在はない。

 僕にとっての一番はなんだ? 僕の決断は? 真吾はほんの一瞬だけ目を閉ざし、それから静かに見開いた。
「僕の言葉が理解できるか? わかるならいますぐ引いてほしい。さもないと……」
 怪物たちから目をそらさぬまま、真吾は一歩足を踏み出した。靄が晴れるように、真吾の心に巣食っていた恐れや迷いが消えていく。

 真吾はちらりと振り返り、三使徒と、その背後に広がる小さな町を見た。大丈夫だよ、メフィスト2世、ユルグ、鳥乙女。僕が食い止めるから、ぜったいに君たちを守って見せる。あの女の子も、町の人たちも、誰も犠牲になんかしない、みんな一緒に帰るんだ。前方の異形のものたちに注意を戻し、真吾は声を張り上げた。
「……さもないと、僕は君たちを攻撃する。僕の使徒にも、町の人にも、指一本触れさせない。いるかどうか知らないけど、神に誓ったっていい。……いや、やっぱりだめだ。みんなの命を、あやふやななにかに賭けるわけにはいかない。来るかどうかわからない助けを震えながら待ってるなんてごめんだ。僕は僕の力でみんなを助けてみせる、そのためなら死んでもいい。命を賭けてるんだ、お前たちなんかに負けるもんか。埋れ木真吾という僕の名に賭けて誓ってやる」
 シャツは血でぐっしょり黒ずみ腹にぴたりとはりついているが、少なくともいまの所は命にかかわる傷ではないので放っておくことにした。痛がるのは後でいくらでもできる。

 逆五芒星の男、やつは僕の町を戦場に変えた。やつは僕の友達から魂を吸い取った。ただの暇つぶしの快楽のために町の人々をもてあそんだ。なのに呪術に負けた僕は膝を抱えてぐずぐずしてる。
 真吾のなかで爆発的に膨れ上がったのは純粋な怒りだった。こんなこと、あっていいはずがない。間違いは正さなきゃならない、誰もできないならこの僕がやってやる。それが僕の正義だ。真吾の身体を駆け巡る血潮がぐんと熱くなり、首の後ろがちりちりとざわめき始めた。一呼吸ごとに心拍数が跳ね上がり、前髪がふわりと浮き上がる。真吾のなかでなにかが決定的に変わろうとしていた、ただそれだけははっきりわかっていた。
 呪術に精神を蝕まれていても、僕は僕で、僕の本質が変わったわけじゃない。負の感情が増幅されたからといって、僕の正義が、信念が消されたわけじゃない。僕が僕でなくなったわけじゃない。そうだ、だって、僕は……。
「僕は、悪魔くんなんだ」

 刹那、すさまじい力が爪先から頭のてっぺんまで走り抜けた。硬い殻を一気に突き破ったような、圧倒的な力の奔流に真吾はびくりと身体を震わせる。反射的に固く閉ざしていた目をそろそろ開き、真吾は世界がすっかり変わっていることに気づいた。

 胸元を見下ろすと、ソロモンの笛が淡い光を放ち、一定のリズムで脈動していた。光の源はソロモンの笛だけではなかった。いまや真吾の身体全体がまばゆい白光に包まれていて、閉ざされた町を照らし始めている。真吾から放たれた光の粒子ひと粒ひと粒が薄暗い世界一面に漂い、地に倒れ伏した使徒たちに輝きを分け与えていた。

 人間にはとても処理しきれないほどの膨大な力が小さな笛と真吾の間を行きつ戻りつしている。真吾はぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていた。なにがどうなったのか理屈はさっぱりだが呪術を打ち破れたことだけは確かだった、だが突如湧き出てきたこの力をどう動かせばいいのかわからない。こんなときゲームなら効果音が高らかに鳴り響き技の名前と効能と使い方を知らせてくれるのに、現実世界で勇者をやるのも楽じゃないよな。思わずくすくす笑ってしまったことで、真吾の心に少し余裕が生まれた。
「ぼーっとしてる場合じゃなかった。僕は戦うんだ」
 とはいうものの、眼前に迫る怪物たちが繰り出す攻撃はすべて、真吾を取り巻く光の粒子に弾き飛ばされていた。はっと気づいてシャツをめくり上げると、幾つもあったはずの傷はすっかり治癒していて、跡一つ残っていない。背後の三使徒に視線を走らせると、青ざめた頬に生気が戻り始めている。豹頭の怪物が真吾目がけて飛びかかってきたのでとっさに手をかざすと、すさまじい勢いで吹き飛びその巨体で地面を大きく削った。形勢は完全に逆転し、いまや真吾が完全にこの場を支配していた。

 怪物たちを退け、歪んだ空間を破るためにはただ力があるだけでは不十分だった。暴れまわる力に方向性を持たせた上で操らなければならない、そのために必要なものはすでに真吾の手のなかにある。真吾はソロモンの笛を両手で包みこみ、静かに息を吹き込んだ。久しぶりに奏でる笛の音色はかつてないほど澄み渡り、町の隅々まで浸透していく。僕は勝ったよ、メフィスト2世、ユルグ、鳥乙女。いますぐ帰るからね、百目、ヨナルデパズトーリ、幽子、ピクシー、妖虎、家獣、象人、サシペレレ、こうもり猫、ファウスト博士、エツ子、母さん、父さん、みんな……。

 真吾からまっすぐ放たれた光はすべてを切り裂きながら空高く突き進み、巨大な裂け目を作り出した。耳をつんざく轟音と共に大気が震え出し、すべてが急速にぼやけ始める。堅牢な建物ものどかな田園もなにもかも形を失い、上空にぽっかり空いた裂け目に吸い込まれていく。裂け目は刻々と色を変え、艶やかな紺青から茜色、濃緑、視認できるすべての色が入り混じった渦を巻きながら灰色の世界を塗り替えている。これはひとつの世界の終焉とそれに続く夜明けなんだと、真吾はごく自然に理解した。こんなにきれいだなんて思ってもみなかった。
 真吾が意識を保っていられたのはそこまでだった。爆発的に広がった力の波が真吾と三使徒と楽園の町、すべてを飲み込み、そして静寂が訪れた。

 意識を取り戻した真吾がまずはじめに目にしたのは見慣れた自室の天井で、楽園の町を脱出してから丸一日以上経っていた。呪術の件を含め、ぽつぽつと事情を説明する真吾にメフィスト2世は呆れ顔で呟いた。
「無茶ばっかりしやがって、回復したら一発殴らせろ」
「いいよ、楽しみにしとく。最近はまともに喧嘩もできなかったもんな、うれしいよ」
 メフィスト2世はお手上げだと言わんばかりに大げさにため息をついてみせた。
「ま、なにはともあれ、すっきりしたぜ。悪魔くん、ずーっと様子がおかしかったもんな、なにか訳があるにしろ変だと思ってたんだ」
「ぼく、すごく心配してたんだもん!」
 耳元で叫ぶ百目に、真吾は額を押さえて頭痛をやり過ごす。
「やあ、百目。ありがとう、すごく喉が渇いてたんだ」
 小さな手で差し出されたジュースを一気に喉に流し込んでから、真吾は改めて室内を見渡した。学習机の上にはピクシーがいて、悪魔くんが目を覚ました! と飛び跳ねながら薬を調合してくれている。気のせいか胃の辺りが重くなってきた。

「でもなんかおかしくねえか? 呪術のせいだっていうけどさ、悪魔くんから力が消えた感じはしなかったぜ。それにソロモンの笛だけで怪物の大軍をどうにかできるんなら、いままでの戦いはいったいなんだったんだ? 悪魔くんを責めてるわけじゃねえけど」
 力が消えた感じはしなかった、か……その点についてはおぼろげだけど考えはある。これは仮説だけど、と前置きしてから真吾は語り始める。
「真実僕がメシアなら、メシアとしての力は僕自身にも宿っているはずだ、ソロモンの笛だけじゃなく。ソロモンの笛は力を効率よく引き出し、増幅させ、コントロールするための媒体でもあるんだ。もちろん、ソロモンの笛そのものも大きな魔力を持っていて、メシアの証でもあるけど、メシアそのものじゃない。僕はずっと思い違いをしてた。呪術のせいで、ソロモンの笛の力を引き出せないんだとばかり思ってたんだ。でもソロモンの笛の力も、僕のなかにある力も消えていたわけじゃなかった。僕はソロモンの笛を吹く。それと同時にソロモンの笛は、僕の魂の力を音色として奏でていたんだと思う。呪術のせいで僕の心は曇りきってた。だからソロモンの笛がいくらがんばっても僕から音色を引き出せなかったんだ。大雑把な仮説だけど、たぶんな。ソロモンの笛は吹けなくなっていたわけじゃない。僕という楽器を奏でられなかっただけなんじゃないかな。一方通行じゃソロモンの笛は吹けないんだ」

 疑問の半分に対する仮説を説明してから、真吾は一呼吸ついた。両腕を組み考え込んでいるメフィスト2世に、真吾は更に続ける。
「ソロモンの笛だけでどうやって怪物たちを退けられたのか。さっきの仮説と被るけど、楽園の町ではソロモンの笛の力だけじゃなく、僕自身の力も引き出せたからだ。だからあれだけのことができたんだ」
「じゃあ、悪魔くんが本気出せば魔物の大軍が来ても一網打尽、最強じゃねえか」
「ところが、そうでもないんだ。いまの僕の状態を見てみろよ。僕自身とソロモンの笛に潜在していた力を引きだせたまではいいけど、反動がものすごいんだ。丸一日以上眠り続けた挙句、目覚めたいまもとても動ける状態じゃない。頭はずきずきするし身体は重くて動かないしあちこち痛むし……。ピクシーが看病してくれていたにも関わらずまだこの有様だ。やってみてわかったけど、精神力と体力の消耗が激し過ぎて人間の僕の身体では耐えきれないんだ。いつもは僕に負担がかからない程度に笛が力を制御してくれていたんだと思う。それに実を言うと、あのときどうやって力を引き出せたのかわからないんだ。いまやれって言われてもたぶんできないと思う」
「なんだ……そんなうまい話はやっぱないよな。でも悪魔くんが最強ってことになっちまったら俺たち十二使徒の出番がなくなるもんな、かえってそのほうがいいか」
「はは、ほんとだな。一年前のいまごろ、僕ひとりの力じゃできないことをするために、君たち十二使徒が集まってくれたんだ。これからもよろしくね」

 ひとしきり使徒たちと笑い合った後、真吾はふと窓の外に目をやった。
「町の人たちはどうなったんだろう。僕は結局、誰ひとり救えなかったのかな……」
「なあ、悪魔くん。俺が気づいたときには、一番最初の道に戻ってた。でも嫌な気配はぜんぜんしなかったぜ。負の感情に敏感な俺たち悪魔がなにも感じないってことは、町のやつらの向かった先はそう悪いもんじゃないってことだ」
「メフィスト2世はいいやつだな」
 真吾の率直な感想に、第一使徒はそっぽを向いた。俺は事実を言っただけなんだぜ!
 真吾は胸中でそっと呟く。はじめは好きじゃなかったあの不思議な楽園の町が、いまではたまらなく懐かしい。君たちに会えてよかったよ。いまは心からそう思える。君たちの向かった先にはなにがあるのかな。さよなら、楽園に囚われていた人たち。


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2009/4/8

第一部おしまい。
やっと楽園の町終わりました! 「そうだ、僕は悪魔くんなんだ」はアニメ19話のイメージです。呪術を跳ね返し、メシアとしてレベルアップな感じですv一区切りついたので残りはメモであれこれ語ります。