ユートピア「34話 地底の悪魔 4」


 鋭い爪がうなじをかすめたような気がしたが、恐怖による錯覚だったのかもしれない。森の中に滑り込み大木の頂を見上げると、地底の悪魔が背を丸めて立っていた。ばりばりと枝を掻きむしりながら吠える悪魔を注視しながら、真吾は待った。剥ぎ取られた木の皮がぱらぱらと降ってくる。きっと大丈夫だ、上手くいく。この森はプライドが高いんだ、メフィスト2世のように。あのメフィスト2世でさえこの森には敬意を払っていた。つまり、この意思を持つ森はそれだけ厄介だということだ。そうであってほしい、そのはずだ。害のない森の機嫌を取るために、館の悪魔がわざわざ遠回りをさせるはずがない。

 真吾は横ばいにじりじりと移動すると、最初に触れた木にしがみ付いた。滑らかな木の幹に汗ばんだ額を押し付け呼吸を整えていると、雷鳴のような咆哮が近づいてくる。自分の考えが正しいことを信じて祈るしかなかった。
 でもなにに祈りを捧げているんだろう、僕は。悪魔と契約し、世界を変えようとしているこの僕はいったいなにに祈ればいいんだ?

 上下に大きく地面が波打ち、木々の根元に細かな亀裂が走りはじめる。固い地盤を突き破り、ねじくれた木の根が激しくのたうちながら姿を現した。太い根を引き抜き、意思を持って動き出した木々が一斉に地底の悪魔に飛びかかって行く。
 お願いだ、上手くいってくれ。僕にはもう反撃する手段も力もないんだ。
 大気が震えるような恐ろしい音を立てながら、ねじくれた木々は地底の悪魔を容赦なく絡め取る。悪魔を根に絡めたまま大きく伸びをするように痙攣すると、再び地面にその身を滑り込ませた。

 すべてを見届けた真吾は、緊張でこわばる身体からゆっくりと力を抜いた。思い出したように激痛が戻ってきたので、震える両腕で自分自身の身体をかき抱くと乾いた地面に横たわる。途端に強烈な孤独感が押し寄せてきて、真吾は年齢にそぐわない深いため息をついた。これから先の自分の運命、過酷な日々の繰り返し、憂鬱な未来が脳裏をかすめ、真吾は暗澹たる思いで目を閉じる。自分は勝ったんだ、たったひとりでこの危機を乗り切ったんだという喜びも同時に胸に押し寄せてきて、頭の中はごちゃごちゃだった。

 いまだけでいい、少しの間だけ自分を憐れんで自分のために涙を流したかった。身体を丸くしてすすり泣いていると、頭上からするすると細い枝が伸びてきて、真吾の頭を撫でるようにかすめていった。真吾は弱々しく微笑むと、すとんと意識を失った。

 はっと目を開けると、辺りは薄闇に包まれていた。大きな月が木々の隙間から真吾を照らしている。睡眠を取ったことで、体力も多少は回復したようだった。真吾は森を出ると、月明かりの下で不思議な光を放っている砂漠を眺めた。
「そうだ、メフィスト2世の剣……」
 砂漠に突き刺さったままの剣を取りに歩いて戻ると、どういうわけか元のステッキの姿に戻っていた。真吾は丁寧に埃を払ってから、金色にうねる月の光の中、ステッキの先端で魔法陣を描いた。円陣の前で大きく両手を開き、真吾は少しだけためらった。もし召喚できなかったら、それはなにを意味するんだろう。元のステッキの形に戻っていた意味は? 不安をねじ伏せ、真吾は朗々と呪文を唱えた。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。いでよ、第一使徒メフィスト2世」
 もうもうと立ちこめる薄紫色の煙は、すぐに砂漠の乾いた風に吹き消された。多少くたびれた様子ではあるものの、いつもと変わらぬメフィスト2世の姿に、真吾は泣き笑いのような表情を浮かべた。離れ離れになってからたった数時間なのに、もう何年も会っていないような気がする。
「この馬鹿、町に戻ってろって言っただろ!」
 意識はなかったはずだが、事情はあらかた察したらしい。魔法陣から飛び出すなり掴みかかってきたメフィスト2世に、すぐさま真吾は言い返した。
「馬鹿はメフィスト2世のほうだろ、離せよ!」
 真吾はメフィスト2世の両手首を掴んで力任せに引き剥がすと、至近距離から左頬を殴りつけた。体力気力ともに消耗しきっている真吾の拳など普通ならほとんど効かないはずだが、メフィスト2世も相当弱っているらしく大きくよろめいて後ろに下がった。
「やりやがったな!」
 すぐに拳が返ってきたが、真吾はあえて避けずに正面から受け止めた。勢いとしてはそれほど強くなかったが、それでも真吾のほうも体力的に限界だったので、よろよろとその場に尻もちをつく。だがすぐに起き上がると、殴られた頬を一瞬手の甲でこすってからメフィスト2世に向き直った。
「だからなんだよ、僕だって怒ってるんだからな! 気に入らなきゃ殴れって言ったのはメフィスト2世だろ!」
 真吾はそう怒鳴り返すと、今度はメフィスト2世の下腹に体重を乗せた拳を叩きこむ。砂煙をあげながら倒れたメフィスト2世を見下ろし、真吾は両の拳を固く握りしめた。
「くそっ、なんだよ、気に入らないのは俺のほうだ。のこのこ戻ってきやがって、生きてるのが不思議だぜ」
 腹を押えながら立ち上がりかけたメフィスト2世の顔に真吾は右フックを食らわせ、言った。
「生きてるのが不思議だって? いい加減にしろよ、僕をなんだと思ってるんだ」
「メシアが死んじまったら意味ねえだろうが」
 ひっくり返ったまま呻くメフィスト2世の上にかがみこんで胸倉を掴むと、仕立ての良いシャツが軽く避ける音がした。真吾は気にも留めずに低い声で囁く。
「いままで僕たちは、いや、僕はなんのために闘ってきたと思ってるんだ。友達を、使徒を見捨てて生き延びるためじゃない。そんな未来の延長線上に僕の願う理想郷を造ることなんてできないんだ。メフィスト2世は僕を一番の友達だと言ってくれたね。僕だって同じ気持ちだ。だから許せないんだ、君のことも、あっさり逃げた自分自身も。今度こんなふざけた真似したら承知しないからな。文句があるならやり返せよ」

 メフィスト2世はしばらく無言で真吾を見上げていた。
「文句は……ねえけど、なんか気に入らねえよ!」
 真吾の手を振りほどいて立ち上がったメフィスト2世は、先程よりも勢いをつけて殴りかかってきた。強烈な一撃を腹に食らい、真吾は仰向けに転倒した。メフィスト2世は真吾の腹の上に右足を乗せると、いつもの不敵な、自信に満ちた顔で宣言する。
「文句はないが最後に勝つのは俺様だぜ、まいったか」
 真吾はメフィスト2世を鋭く一瞥し、叫んだ。
「まいらないよ!」
 真吾は両手でメフィスト2世の右足首を掴むと、思いっきり横に引っ張った。不意をつかれて倒れ込んだメフィスト2世の左脇腹に真吾はすかさず膝蹴りを放つ。すぐに大振りの拳が返ってきて、左の頬骨がじんじんと痛み出す。

 しばらく無言で殴る蹴るの取っ組み合いを続けていたが、全身くまなく砂まみれになったところでどちらからともなく動きを止めた。
「な、なあ……一時休戦にしようぜ……。さすがに疲れた」
「いいよ、この……続きはまた……あ、あとでね……」
 喉がくっつきそうにひりひりしていた。真吾はぜいぜいと肩で息をつきながら答える。膝を抱えて座り込むと、メフィスト2世も同じように真吾の背後に腰を降ろした。その場に背中合わせでへたり込み、呼吸を整える。荒い息遣いだけが砂漠の夜に流れていく。
「くそっ、またこの森に逆戻りかよ……」
 メフィスト2世のぼやきに、真吾は薄く微笑んだ。
「言っとくが、あの悪魔に不覚を取っただけで、悪魔くんのパンチなんてぜんっぜん痛くねえよ」
「僕だってそうだよ。いまはちょっと疲れてるだけで、メフィスト2世のパンチなんてぜんっぜん効いてないからね」
 それだけ言い合うと、また静寂が辺りを支配した。ややあって、メフィスト2世が呟いた。
「なあ……」
「うん」
「俺ら、かなり馬鹿だよな」
「うん、僕もそう思ってたとこ」
 一瞬ためらうような間を置いてから、メフィスト2世は早口に言った。
「……俺が悪かったよ」
「僕のほうこそ、ごめん。やり過ぎた」
「ほんとにな。悪魔くんにぶちのめされるとは思わなかったぜ。でもけっこう楽しかったよな」
「そうだね、メフィスト2世と殴り合いっていうのも新鮮でおもしろかったよ。なんか生きてるって感じがした」
 それに、どんなことがあっても揺らぐことのない一番の親友、対等の友達だという感じがしてうれしかった。こんなむちゃくちゃな殴り合いでこんな風に感じる自分がいることにも驚いた。
 真吾はしいんと静まり返った森へ目を向けた。
「勝手に地底の悪魔の棲みかに入り込んだのは僕らなのに、かわいそうなことをしちゃったな……」
「あの森が地中に引きずり込んだんだろ?」
「うん……僕が誘い込んだんだ」
「だったら別に気にすることないぜ、死にはしないからさ。あの森は肉食じゃねえし、飽きたらそのうち放り出すからよ」
「そうなの?」
「ああ」
 嘘かもしれない。でもいまはその優しさに素直に甘えたかった。


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2008/7/23

これで地底の悪魔はおしまいです。真吾くんとメフィスト2世のめっちゃ熱い友情ってやっぱりいいな! ってことで喧嘩するほど仲がいいふたりで! 思いっきり取っ組み合いしちゃってますが、ときには熱血なくらい怒って、ちょっと不器用なくらいまっすぐに正義を通そうとする真吾くんって可愛いしかっこいいなあと思います! 地底の悪魔を誘い込んだ森は、26話で真吾くんとメフィスト2世が徒歩で通り抜けた意思を持つ森です。