ユートピア「33話 地底の悪魔 3」


 深呼吸を繰り返し、苦痛の波をやり過ごしながら、真吾はくらくらする頭で考える。取りうる道はみっつある。
 まずひとつめ、メフィスト2世の回復を待つ。だが真吾の第一使徒はすでに一度敗れている、この地底の悪魔とは相性が悪い。ふたつめ、隙を見て逃走する。これが一番だが、あの悪魔の馬鹿げた身体能力を考えるとやはり望みは薄そうだ。気付かれた次の瞬間にはもう追いつかれる。みっつめ、投げやりな選択、このまま仲良くふたりで死ぬか。さすがにこれはパスだな。
 よっつめの選択肢もある。どんな手段を使ってでもいい、僕があの地底の悪魔を倒せばいい。そこで真吾は苦笑する。僕は正気か? メフィスト2世でさえ敗れた相手を、人間の子供でしかない僕がたった一人で倒す? だが方向性としては間違ってはいない。倒す必要はない、ほんの一時、行動不能にできればいい。逃げる時間さえ作れれば。

 地底の悪魔がのそのそと戻ってきたとき、真吾は唇を歪めて笑みのような形を作った。来るなよ、あっちへ行ってろ……。僕の強運もここまでなのか? なんだか現実感がないな。こんなところで自分が死ぬわけないという甘い考えが心のどこかにあったのかもしれない。これがゲームなら主人公は死なないし正義は必ず勝つじゃないか。こんな、黴臭くてよどんだ空気の充満する陰気な場所でなにもかも呆気なく失われるなんて理不尽だと真吾は思った。でも僕はそんな世界に生きている。家に帰りたい。

 真吾ひとりならくじけてしまいそうな状況だったが、メフィスト2世の存在が辛うじて歯止めをかけてくれていた。そうとも、あっさり死ぬわけにはいかない。最後まであがいてみせる。
 地底の悪魔はごきごきと不快な音を立てて首を傾げた。真吾は悪魔から目を離さないよう注意を払いながらソロモンの笛を唇に押し当てる。

 真吾はたったひとりで、いままさに死を覚悟していた。いまこの場には真吾を守ってくれる仲間は誰もいなかった、援軍が来る望みもない。
 美しい、だが不安と恐怖の入り混じった笛の音が洞窟を満たすと、悪魔はごろごろと喉を鳴らして身体を揺すりはじめた。ソロモンの笛は強く清らかな精神で吹くものだ、恐怖が心に巣食っていては本来の力を発揮できない。

 でも、僕は怖い。いまミスを犯せばふたりとも死んでしまう。僕のやることはみんな裏目に出ている。東嶽大帝と闘っていたあの頃は死について考えてもそんなに怖くなかった。無知ゆえの蛮勇だったんだと思う。なにがあってもみんなが守ってくれるから絶対に大丈夫、試練だって潜り抜けられるに決まってると心のどこかで高をくくっていたからだ、失敗なんて怖くなかった。取り返しのつかない過ちもあるんだということをあの頃の僕は今ほどよくわかっていなかった。失敗したらまた次がんばればいいんだと思っていて、いい悪魔が死んでしまって百目が悲しんだときも僕は冷静に、その思い出をずっと忘れないでいればいいんだよと言い聞かせ、なにもかも達観したような気になって慰めていた。でも次なんて永遠に来ないとき、僕はどうすればいいんだろう。どう言えばいいんだろう。

 あの頃は自分の考えに絶対の自信を持っていて、十二の悪魔を従え、その強大な力を意のままに操ることになんのためらいもなかった。僕が中心で、僕が正義で、僕の思惑がすべてだった。
 真吾は愕然とした。
 いったい僕のどこがメシアなんだ?

 だめだ、雑念が多すぎる、これじゃソロモンの笛の意味がない。
 笛の音が大きく乱れたその瞬間、地底の悪魔は大きく跳躍し、真吾に飛びかかってきた。
 地底の悪魔の巨大な手に鷲掴みにされても真吾はソロモンの笛を奏で続けた、だが固い地面の奥底に引きづり込まれたときには、さすがの真吾もそれ以上続けることはできなかった。悪魔は真吾を両腕の間に挟んだまま猛烈な勢いで固い地盤を破り地中を突き進んでいる、どこに向かおうとしているのか見当もつかなかった。なにか目的地でもあるのか、それともソロモンの笛に混乱して滅茶苦茶に移動しているのか。岩を打ち砕きながら突き進む悪魔の腕の中で真吾はただ震えていた。思考を研ぎ澄ませようと儚い努力をしてみたが、はっきりまとまる前に散り散りに消えていく。

 あれからどれくらい経ったのか、耳を聾する轟音と共に地底の悪魔は真吾を抱えたまま地上へ飛び出した。悪魔は真吾をどさりと地面に落とすと、しばらく呆けたように棒立ちになった。陽光の下で眺めると、可愛らしいと言えなくもない。ふさふさした長い毛並みと愛嬌のある顔立ち、チャウチャウを巨大化させたような外見だった。
 なにもかも方が付いてからわかったことだが、地底に棲息する悪魔は陽光の下では極端に動きが鈍くなり、魔力も減退する。だがもちろんいまこの時点での真吾にはそんな知識はない。

 あまりの暑さと激しい光の奔流に吐き気が込み上げてくる。疲労と苦痛に喘ぐ身体を起こした真吾の目に最初に飛び込んで来たのは森だった。砂漠の町の手前に位置する森、真吾とメフィスト2世が一番初めに通り抜けた意思を持つ森だった。あれからほんの半日程度しか経っていないのに、随分長い間旅をしてきたような気がする。背後から唸り声が聞こえてきた。四方八方砂漠で、隠れる場所などどこにもない。前方、目測でははっきりとした距離はわからないが、ともかくあの森があるくらいだ。
 振り返ると、地底の悪魔は思いのほか日の光に弱いらしく、ぶるぶると震えながら喉をぐるぐる鳴らしている。
 どうにかして動きを止められればいいんだ。
 真吾はどう行動すべきか瞬時に理解していた。運命的な強運は、いまこの瞬間も真吾を守ってくれている。

 束の間、真吾の身体から痛みがすっかり消え失せ、瞳孔が大きく開く。アドレナリンが身体中を走り抜け、強烈な高揚感が込み上げてくる。真吾は弾かれたように立ち上がると、サスペンダーからメフィスト2世の剣を引き抜いた。渾身の力を込めて槍のように投げつけると、悪魔の両脚の間に勢いよく突き刺さる。日の光に咆哮を上げてよろめいた悪魔は剣に足を取られて派手に転倒した。

 思いがけない成功に驚きながらも真吾はすぐさま悪魔に背を向け、なにもかもを後ろに置き去りにするつもりで全速力で駆け出した。強烈な太陽をさえぎるものはなにもなく、絶え間なく噴き出してくる汗は流れ落ちる前に蒸発していく。背後から憤怒の唸りが迫ってくるのを感じたが、真吾は決して振り向かなかった。歌うように大きな枝を揺らしている森を目指して、ただひたすら力の限り走った。


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2008/7/13

いろいろ葛藤する真吾くんにすごい魅力を感じちゃいます! 十二使徒と再会して、何気ない日常や戦いのなかであれこれ迷ったり、かつての自分といま現在の自分をふとした瞬間に比較しては葛藤しちゃったり。かわゆいです。


流れ的におかしくなったので推敲前に削った文章です。ちょっと載せてみました。
「でも、もし十二使徒のうち誰かひとりでも欠けたら、そしてそうなったとき誰かが僕に、その思い出を胸にしまっておけばいいじゃないかと言ったらどうする? 確かに正論だし悪くない慰め方だ、それでいいんだ。でも僕は百目の辛さをわかった上で慰めたわけじゃなく、ただその場に適した慰め方をしただけなんだ、それがいまになって引っかかっている。あのとき僕は死んでしまった悪魔を可哀そうだと思ったし、悲しんでいる仲間を見るのはすごく辛かった。でも僕は悪魔くんで、常人より高い知能を持っているという自負があったせいか、感情に流されないことをよしとしていた。
 あの頃より少し大人になったいまは、より複雑な感情が、余計な執着が増え過ぎていて、前は平気だったものが怖くてたまらない。