ユートピア「32話 地底の悪魔 2」


 手探りで辺りを確認していると、滑らかな手触りの布を見つけた。手繰り寄せようとしたが上手くいかないのでおそるおそる近づき、正体を確かめようと岩陰を覗き込む。探し求めていた人物の姿に、真吾ははっと息を飲んで唇を噛みしめた。滑らかなマントの持ち主、メフィスト2世は満身創痍だった。目を凝らすとステッキはいつもの杖の形ではなく、剣に姿を変えていた。
 メフィスト2世の瞼は固く閉じられたままで、意識を取り戻す気配はない。魔法ではなく、直接攻撃による傷だった。
 情報が少なすぎる。剣の形を取ったステッキから推測すると、あの地底の黒い悪魔には魔法が通じないのかもしれない。
 真吾はメフィスト2世の耳元に口を近づけて囁いた。
「しっかりしろメフィスト2世、大丈夫か?」
 完全に血の気が失せている頬を軽く叩いてみたが、なんの反応もなかった。左腕、右腿、あちこちに傷を負っていたが、こうして見ている間にもみるみるうちに癒えていく。すさまじいまでの生命力だった。あの黒い、地底の悪魔はいまはいない。いまのうちにメフィスト2世を連れて逃げ、体勢を立て直す必要があった。

 真吾はサスペンダーの隙間に剣を通すと、メフィスト2世を苦労して背負った。武器はあったほうがいいが、僕に剣なんて使えるのか? でもメフィスト2世のステッキをこんなところに置いていくわけにはいかない、せいぜい自分の足を切らないように気をつけないとな。
 戦う理由も倒す必要もない、このまま何事もなく逃げ切れれば……。
「心配しないで、僕がなんとかするから」
 なにがあっても絶対に見捨てたりなんかしないから。
 気を失っているせいか、途方もなく重たく感じるメフィスト2世を背負い直し、真吾は両足に力を込める。
 そのまま数歩歩いたところでなにかの息遣いを感じ、真吾は足を止めた。ゆっくりと、機械仕掛けの人形のようなぎこちない動作で振り返る。とっさにメフィスト2世を背中から滑り落とし、獣たちの隙間へ押しやったのは我ながらよくやったと思う。地底の悪魔の目から当面の間だけでも隠せたのはたいしたものだ。

 それからものの一分足らずの間に起きた出来事はよく覚えていない。黒く長い毛皮に全身を覆われた地底の悪魔は、身をかがめて鼻をくんくんいわせていた。それからすうっと悪魔の姿がぼやけ、気がつくと真吾はかたい岩の上にうつ伏せに倒れていた。一瞬まばたきをした、次の瞬間にはもう、すぐ目の前にいたのだ。驚異的な身体能力だった。嘘だろ、これじゃ逃げることも難しいじゃないか。さっきはあんなにのろそうだったのに。
 真吾の身長ほどもある大きな黒い手が伸びてきたが、まるでその場に根が生えたように動けなかった。ぎゅっと鷲掴みにされ、ゆっくり身体が持ち上げられる。次第に遠くなっていく地面に、真吾は場違いな、乾いた笑みを浮かべた。僕はそんなに馬鹿じゃないと思っていたけど間違いだったみたいだ。
 どこかすぐ近くで子供が悲鳴を上げている。たいへんだ、助けにいかなければと思ったところで気づいた。悲鳴の主は真吾自身だった。巨大な手で全身を締めあげられ、自分でも耳を覆いたくなるような甲高い悲鳴が喉の奥から湧きあがり、長く尾を引いて洞窟内に響き渡っていた。

 絶対絶命の状況だったが、真吾は実際かなりの強運に恵まれていた。
 真吾のほうが先に地底の悪魔に気づいていたら、あるいはもう命はなかったかもしれない。無防備に佇んでいた人間の子供に対して、地底の悪魔はまず好奇心を覚えた。人間を目にしたのは初めてだったのだ。それがひとつめの幸運だった。 ふたつめの幸運は、真吾がすぐに意識を失ったことだ。生命力の強い生物なら、抵抗を続けるうちになぶり殺しにされていただろう。みっつめの幸運、この餌場の主たる地底の悪魔は食事を終えたばかりだった。
 ぐったりと動かなくなった真吾に、さしあたって腹が膨れている悪魔はすぐに興味を失った。乱暴に岩に投げ出され、その衝撃で真吾の意識は激痛と共に一気に覚醒した。これも幸運だった。柔らかい死骸の上にでも落されていたらしばらく意識は戻らなかっただろうし、目覚めたときにはなにもかも手遅れになっていただろう。
 目だけをそろそろと動かしてみると、こめかみがずきりと痛む。地底の悪魔は、真吾から見て右手、洞窟の奥へと続く通路を塞ぐようにしゃがみ込んでいた。不運にも迷いこんで来たなにかを両手でいたぶっているようだった。そのまま奥の通路へのそのそと消えて行った。逃げるならいましかない。

 真吾は自分の状況を確認してみた。岩に叩きつけられたとき左腕をねじったまま下敷きにしたらしく、少し動かしただけで焼けつくような痛みが脳天を突き抜けた。ぎこちない動作で曲げ伸ばしするとちゃんと動いたので折れてはいない、そうであってほしい、ここを抜けだすまでは。右手は大丈夫、利き腕は擦り傷程度で済んでラッキーだった。次は足だ。感覚がないのは衝撃で一時的に痺れているだけだと思いたい、落ち着けば動く、そうでないと困る。いまこの状況でメフィスト2世を救い出せるのは真吾しかいないのだから。

 くそ、このままじゃメフィスト2世が死んじゃうよ。それどころか共倒れだ。さらに悪いことに、ひどい耳鳴りがして意識が遠のきかけてきた。真吾はとっさに右の拳を握ると、鈍痛の走る左腕に叩きつける。激痛に涙がにじんだが意識ははっきりしてきた。
「く……くそっ、ちくしょう、この、動けよ、いつまでも寝てるわけにはいかないんだよ!」
 真吾は思いつく限りの悪態をついた。口に出すにははばかられるものは心の中だけに留めておいた。少し痛みが紛れた気がする。両足もなんとか恐怖の呪縛から抜け出せたらしく、ようやく自分の役目を思い出してくれたようだった。

 辺りを見回すと、岩の隙間をさらさらと水が流れているのが見えた。そこまで這い進み、澄んだ水に両手を浸して一口すすってみると少し気分がよくなった。冷水が喉を通るたびにひりひりと沁みたが、むせないよう用心しながら少しずつ流し込むと頭がすっきりしてきた。最後に涙と埃で汚れた顔をきれいにすすいでから、真吾は立ち上がろうとした。少なくとも、その努力はしたが、力の入らない足は上手くいうことを聞いてくれなかった。
 ほんとに悪夢だな。悪夢がぎっしりつまった一日だ、いつになったら今日という悪夢が終わるんだろう。永遠に終わらないような気にさせられる、すごく怖いよ。

 もう少しだ、これが終わればとりあえずは一区切りつく、逆五芒星の件はひとまず後回しだ。だが真吾にはわかっていた。本当の平穏は自分の人生からはるか遠く離れたところにあり、安全な場所なんて世界のどこにもないんだという事実を。たとえメシアであることを諦め、責務を放棄したとしても、悪魔たちは真吾の存在を忘れない。ここまで魔の世界に身を浸してしまった以上、最後までこの道を生き抜くしかないのだ。
 魔界の辺境の地、強大な悪魔の棲む地底の奥深くで、真吾はどうしようもなく自分自身を憐れんでいた。どんなに思い悩もうとも事実上、真吾には選択肢なんてなかったのだ。
 ――わしは君を可哀そうに思うよ。
 なるべく考えないようにしていたメフィストの言葉が頭をよぎり、真吾は疲れた微笑を浮かべた。なんだよ、僕ってけっこう可哀そうじゃないか。

 それにしても、だ。メフィスト2世のばかやろう。ひとりで勝手に無茶して死ぬ気で突撃なんて真似、僕は二度と許さないぞ。こんなときこそ怒るべきだな、生還できたら一発殴ってやる。気に入らなきゃ殴れって言ったのはメフィスト2世、君なんだからな。それになにより、あっさり逃げた自分自身が一番許せない、だからメフィスト2世、そのときは力いっぱい殴り返してくれ。


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2008/7/5

人称どうしようかなと迷ったので2パターン書いてみました。

「疲労と憂鬱の波のなか、真吾の心にもうひとつ別の感情が生まれた。それは怒りだった。相談もせず無謀な突撃をした第一使徒メフィスト2世と、よく考えもせずに逃げた自分自身に対する怒りだった。生還したら一発殴ってやりたかった、そのあと力いっぱい殴り返してほしい。そうすればなにもかも正常に戻る気がするのだ。」

こんな感じのも書いてみましたが、迷ったのでひとまず一番初めに書いたものを残してみました!

基本は穏やかだけど、いざという時には男の子らしくがんばる真吾くんが好きです! こんなときなのに、というよりこんなときだからこそメフィストの言葉やその他あれこれを思い出してちょっと憂鬱になっちゃう真吾くん、悩めるメシアが好きです。メフィストの言葉は29話から。