ユートピア「31話 地底の悪魔 1」


 狭く曲がりくねった穴をおぼつかない足取りで進み、真吾は感嘆のため息を漏らした。メフィスト2世の言葉通り、窮屈な通路はほどなく終わりを迎えた。黄緑色の不気味な光を放つ苔が壁一面をびっしり覆っている。光は一定の、呼吸をしているようなリズムで点滅を繰り返し、洞窟内を照らしていた。
 先にその存在に気づいたのは真吾のほうだった。どこか人工的な、広々とした空間の向こうには再び狭い穴が続いていて、先に進むにはそこを通るしかなさそうだった。だがその穴の手前でなにかが蠢いている。
 あれはなんだろう?
 真吾は警告を発するのも忘れて、もぞもぞと動く黒い塊を見つめる。動きは緩慢でいかにも気だるそうだった。真吾はメフィスト2世を振り返り、黒い塊を指差した。
「ねえ、あれなにかな?」
 急に手首を強く掴まれ、真吾は驚いてメフィスト2世を見る。もともと色の薄い第一使徒の顔は、蝋のように蒼白だった。
「戻れ。さっきの町で待ってろ」
 メフィスト2世はぽそりと呟いた。
「え……なんでだよ」
「いいから、四の五の言わずとっとと逃げろ。俺のほうが魔界をよく知ってる。たまには黙って俺の言うことを聞いてくれよ」
 メフィスト2世は、真吾が見たこともない、どきりとするほど静かな目で諭すように言った。冗談を言っているようには見えない。真吾は勢いに押されるように頷く。
「わかったよ。でも、危険な相手なら一緒に戻って対策を考えようよ」
「いや、もう遅い。あれは俺たちの存在にとっくに気づいてる。いまこうしていられるのは、奴の腹がそれほど切迫してないからだ」
 僕だけ逃げるわけにはいかない。そんな真吾の心を読んだかのように、メフィスト2世は鋭く付け足した。
「いいか、はっきり言うとな、俺ひとりならなんとかなるんだよ。だけど悪魔くんを守りながら戦うのは無理だ、わかるな? ただの喧嘩とは訳が違う」
 メフィスト2世はそこで一度言葉を切ってから付け加えた。
「悪魔くんは俺の一番の友達で、いい主人だったよ。だから頼むよ」
 そこまで言われて、真吾はそれ以上食い下がることができなかった。
「わかった、先に行ってるよ。また後でね」

 ざらざらとした壁に手をつきながらそろそろといま来た道を戻る、べったりとした暗闇とひとりぼっちであるという状況は真吾の心を沈ませる。メフィスト2世の言葉は理にかなっている、この手の戦闘では僕はまったくの無力だ。湿った土がぱらぱらと壁から剥がれ落ち、真吾はむせかえった。自分自身の心臓の鼓動がやけに大きく耳の奥で響いている。
 振り向いたら、上を見上げたらなにかいるんじゃないか、そんな原始的な恐怖を紛らわせるために、真吾は可能な限り楽しいことを思い出してみた。父さんと母さんとエツ子、みんなで冬休みにキャンプに行ったこととか。澄んだ湖に向かって石切りをしたけどすぐに水の中に沈んでしまいエツ子に馬鹿にされたこととか。悪魔は平気なのに、お化けが怖いだなんて馬鹿みたいだ。

 真吾はまったく唐突に足を止めた。
「メフィスト2世は……」
 囁き声でしかないのに、びっくりするほど大きく辺りに反響した。真吾ははっとして手で口を覆う。
 メフィスト2世は逃げろと言った。隠れろ、ではなく。そしてメフィスト2世は、僕のことを一番の友達で、いい主人だったと言った。過去形で。考えすぎなのか? 真吾を主人として扱ったことは、これが初めてではない。似たような状況ならあった、だが胸を焦がす不安はますます大きくなるばかりだ。
 また後でね。真吾は去り際に自分が投げかけた言葉が怖くなった。後っていつだ?
 真吾は霊能者でもなんでもなかった、だがメシアとしてなんらかの第六感、超常的ななにかを持っているとしたら、いま感じているこの感覚がまさにそうだった。これは予感というレベルではなく、予言に近かった。
 戻らなければならない。いますぐ、脇目も振らずに行かなければならない。でないと僕は親友を、第一使徒を永久に失うことになる。
 真吾は肩越しに後ろを振り返り、目の前に横たわる闇を凝視した。
 僕は馬鹿なことをしようとしている。戻ってどうなるっていうんだ。メフィスト2世の手にも負えないなにかがあるなら、僕が行ったところで墓がひとつ増えるだけだ。でも僕は行かなくちゃならない。
 真吾はいま来た道を戻りはじめた。他の十二使徒を召喚することも考えたが、ここでは無理だ。魔法陣を描くのに適した平らな場所もないし、この闇の中では正確に描くこと自体難しい。ほんの少し図形が歪んだだけでとんでもない悪魔を召喚してしまうかもしれない。
 ごつごつした岩に手をつきながら手探りで進み、爆発しそうな恐怖を押さえ続ける。ようやく辿り着いたときには、安堵の余り泣き笑いのような顔になっていた。何時間も歩き続けていたような気がするが、実際はほんの十数分程度だったのだろう。
「メフィスト2世……どこにいるの?」
 静かだった。あの黒い悪魔もいない。ひょっとしたらなにもかも片付いた後で、メフィスト2世はとっくに町に向かっているのかもしれない。でも僕はそんなおめでたい考えにしがみつくほど馬鹿じゃないはずだ。
 黄緑色に光る苔は、光源としては不十分だった。おぼつかない足取りで奥へ奥へと進み続け、ぐらつく岩に右足をのせたところで視界がひっくり返った。
 高い天井を見上げながら、真吾は不思議だった。予想していた痛みはまったくなく、柔らかいなにかが真吾の身体を受け止めてくれていた。
 くそ、なんでこんなに怖いんだ。立ち上がって、確認するのが怖い、現実を見るのが怖い。勇気を奮い起して上体を起こし、身体の下の柔らかい……これは獣の毛皮か? なにかを指先でそっと押した。一度ぎゅっと両目をつぶってから、覚悟を決めて真吾は目を凝らした。猪と熊を掛け合わせたような獣や、蛇の鱗のようなものに身体中をびっしり覆われた獣、初めてみる生物だった。ぴくりとも動かない獣たちは、既に息絶えて久しいようだった。何層も積み重なってできた獣の墓場、いや、墓場というよりもむしろ……。餌場という単語が頭をよぎり、真吾はぞっとした。だめだ、パニックを起こすなよ。この餌場の主の口に入りたくなければ、冷静さを欠くな。
「メフィスト2世……」
 真吾はかすれた声でどこへともなく呼びかけた。あの黒い地底の悪魔はどこだろう。メフィスト2世は場所を移して戦っているんだろうか。
 どこか近くで水の流れる音が聞こえる、ここは湿気で地盤が緩んでいるんだ。真吾はそろそろと四つん這いになると、頭を低くして獣たちの死骸の間を用心深く這い進んだ。


30話へ  戻る  32話へ
2008/6/12

大親友だけどメシアと使徒でもあるので、お互い相手のことを思いやるあまりすれ違ってしまうこともあるんじゃないかな、と想像しちゃいました! すれ違い的友情も燃える。戦うのが辛くても、十二使徒と離れ離れよりは一緒に冒険できたほうが真吾くんも幸せなんじゃないかなと思いました。