ユートピア「30話 通過儀礼 3」


 あまた存在する悪魔のなか、メフィストは特別だった。ごく普通の少年が野球やサッカーに熱中するように、真吾は悪魔メフィストに憧れていた。彼はずっと真吾のスーパースターだったのだ。誰かに話したらあの出来事が色あせてしまうような気がしたのかもしれない。メフィスト2世を失望させたりしない、それはメフィストに釘を刺されるまでもなかったが、それと同じくらい、真吾はメフィストを失望させたくなかった。力弱い人間の子供でしかなかったかつての真吾のヒーローは、いまでも変わらず憧憬の的だった。

 真吾は逃げ回るのを止め、二本角の少年の懐を目指して弾丸のように駆けた。突然の反撃に少年の動きが乱れ、身体が傾ぐ。真吾はそれを見逃さなかった。まさか小柄な真吾がわざわざ自分の不利になるような掴み合いに持ち込むとは思ってもみなかったのだろう、少年の顔に戸惑いが浮かんだ。こいつ、さっきまでちょろちょろ逃げてたくせに急にどうしたんだ?
 体勢を整える隙を与えるのはまずい。真吾は覚悟を決めると、全体重を込めて体当たりをかける。あらかじめ決まっていた台本のようにきれいに決まった。ほらね、僕は運がいいんだ。かなりの勢いで後頭部を地面に打ち付けたらしく、少年は顔を歪めて小さく呻いた。そのまま少年の肩を押さえつけて馬乗りになると、さすがにそう簡単には払いのけられないらしく、悔しそうな舌打ちが聞こえてきた。自分のなかの動物的な本能に驚きながらも、真吾はその感覚に従うことにする。悪いけど、僕が勝つよ。拳を固めかけて思い直し、手のひらの付け根部分を少年の顎先に叩きつける。軽い脳震盪を起こしたのか、少年は焦点の定まらない目で真吾を見た。勝機は逃さないのが基本だ。真吾は少年の胸倉を掴み立ち上がると、そのままぽんと円の外に押し出した。二本角の少年の身体がゆっくりと傾き、鈍い音と共に仰向けに倒れる。その一瞬一瞬の動きがスローモーションのように真吾の目に焼きついていく。
 大きく肩を上下させながらどこか夢見心地でメフィスト2世を振り返り、驚いた。メフィスト2世は三人の少年と一緒にげらげら笑っていて、真吾には理解のできない言葉が飛び交っている。おそらくスラングなのだろうが、少し疎外感を感じてしまう。
「けっこうやるじゃないか。腑抜けは追い返すけどよ、骨のあるやつなら歓迎してやってもいいぜ」
 仰向けに倒れ、両手両足を投げ出したままけたけた笑う二本角の少年に、真吾は右手を差し出した。少年はなんのためらいもなくつかまると、真吾に引っ張られるまま立ち上がる。真吾はどう反応すべきか迷ったが、こんな自分もたまには悪くないかと思う。
「君もけっこう強かったよ。機会があったらまた遊ぼうか」

 すっかり友達になった少年たちに見送られ町を抜けると、メフィスト2世が興奮した様子で喋りはじめた。
「すっげえよな! 俺ほんと見直したぜ! 負けたのは癪に障るけどさ、悪魔くんが代わりにのしてくれるなんて、俺すげえ感動した!」
 メフィスト2世の屈託のない笑顔と賞賛に、真吾は喉元まで出かかった文句を飲み込んだ。
 まあ、いいか。あの子たちが僕を仲間だといってくれたおかげで、町外れの検問も難なく突破できたんだしな。なにがどう幸運に繋がるのかわからないものだなと真吾は思い、メフィスト2世の賛辞を素直に受け取ることにする。
「実をいうとさあ、さっきの喧嘩、悪魔くんが逃げたらどうしようかと思ってたんだ。俺は逃げろとしかいえねえけど、悪魔くんはそんなやつじゃないもんな」
 真吾は少し複雑な気持ちで頷いた。方法としては穏やかじゃないんだけどな。悪魔のコミュニケーションってこういうものなんだろうか。
 メフィスト2世、あの少年たち、その他大多数の悪魔たち、彼らには共通点があった。純粋に強い者、立ち塞がるなにかに立ち向かえる者を好む傾向がある。力こそすべて。方法の是非はどうあれ。

 赤茶けた岩肌に沿ってしばらく歩くと、ぽっかり開いた黒い穴が見えてきた。
「行くよ、メフィスト2世」
「この洞窟に入るのか?」
「だって、使者がそう言ってたじゃないか。聞いてなかったの?」
「ああ。俺そういうの苦手なんだよな」
 あっさり肯定され、真吾はメフィスト2世のその無邪気さが羨ましくなった。僕には足りないものだし、許されないことでもある。もう戦いなんて嫌だといったら、僕にはメシアなんて無理だよといったら、みんなはどうするだろう? 幸いその小さな不満は、膨れ上がる前に消えてくれた。

 湿った風が静かに流れてくる洞窟の入り口で一瞬すっと目を細め、真吾は足を踏み出した。どこか遠くから水滴のしたたる音が聞こえてくる。
「辛気臭い所だな。黴臭いし、狭いし、じめじめして気持ち悪いし、俺こういうの嫌いだ」
 うんざりした様子で話すメフィスト2世に相槌をうちながら、真吾はそろそろと手探りで進む。こういうところがけっこうお坊ちゃんなんだよな。
「それより、こんな真っ暗じゃなにをするにも困るよ。もう外の明かりも届かないしさ」
 先導してくれていたメフィスト2世がだしぬけに足を止めたので、真吾は危うく彼の背中にぶつかりそうになった。多少は闇に目が馴染んできたとはいえ、光源から大分離れたいま、薄ぼんやりした影としてしか認識できない。
「なんでだ? なんで暗いと困るんだ?」
「なんでって……。こう暗くちゃ、なにか起きてもすぐ対処できないじゃないか」
 メフィスト2世はそれでもまだ納得できない様子で重ねて問いかけてきた。
「だから、なんで暗いと対処に困るんだ?」
 真吾は困惑した。なんでって……。
「だって、こう真っ暗じゃほんの数歩先も見えないだろ」
 メフィスト2世は少しのあいだ無言だった。ややあって、
「もしかして、悪魔くんはいま、この洞窟のなかの様子がわからないのか? 見えないのか?」
「そうだけど……」
 メフィスト2世は再び黙り込み、すぐにまた口を開く。
「なら、この先で道が広がってんのも見えてなかったのか?」
 頷きながら真吾はメフィスト2世の言わんとしていることがわかってきた。ああ、そうか、メフィスト2世は悪魔だものな。
「逆に聞くけど、つまりメフィスト2世はこの暗闇の中でなんの差し障りもなく物が見えてるってことか。そっか、なるほどね。人間は光がないと水晶体を通って網膜に……いや、細かい仕組みは置いといて、とにかく光がないとなにも見えないんだよ」
 メフィスト2世は無言だった。真吾は頭を掻き、もう少し説明したほうがいいかと口を開きかけたところで眩い光に目を細める。ステッキの先に光を灯らせたメフィスト2世は、呆れた様子で言った。
「あのな、だったら先に言えよな。俺てっきり、悪魔くんは……まあいいや、おかしいと思ったんだよ、遠くに道が開けてんのになにも言わないんだもんな」
「ごめん、悪魔も人間もその辺は大差ないのかと思ってたんだよ。後学のために聞きたいんだけど、どんな風に見えてるの? 自然光と暗闇の中とでは、見え方の質も違ってくるわけだろ?」
「どんな風って言われてもなあ……。別に普通だけどな。暗闇では多少、物の色は暗くなるけど、それだけだ」
「へえ……すごいな」
 真吾はしげしげと、まるで初めてみるかのように眼前の悪魔の少年を眺めた。こんなとき、種族の違いを強く意識させられる。


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2008/6/1

これで通過儀礼はおしまいです。度胸と運で意地でも勝つ、ここぞというときは頼りになる真吾くんって燃えちゃいますね! なんで僕こんなに苦労してるんだろうとふと我に返って悩んでしまう真吾くん、というような葛藤も個人的に欠かせないのでした。森を抜け、砂漠の町を通り、次は洞窟のなかで冒険です。やっぱり冒険する悪魔くんって好きです!