ユートピア「29話 通過儀礼 2」


 真吾は額にびっしり浮かんだ汗を乱暴に拭う。炎天下のなか予想以上に早く体力を削られ、もう一か八か掴みかかってみるしかなかった。くそ、知識なんてほとんど無意味だったな。
 荒い息をつきながら、どういうわけか真吾はメフィストのことを思い出していた。あれはいつだったか、確かドイツに行く直前だった。

 第一使徒の父親であり、幼いころから強い憧れを抱き続けてきた悪魔メフィストがなんの前触れもなく訪れたとき、真吾は自宅の裏手にある墓地で雑草をちぎっては投げちぎっては投げしていたところだった。ときどき真吾は人気のない場所で物思いにふける。墓地の隙間で膝を抱え、ひとりぽつんと座り込んでいた真吾の前に立ち、メフィストは言った。悪魔くん、息子を失望させないでくれと。真吾にはいま一つその真意がわからなかった。
「悪魔くん、君は誰からも愛される子だ。思慮深く、思いやりがあり、種族を問わず相手を惹きつけるなにかがある。だが……」
 メフィストはそこで言葉を切った。風もないのにマントが大きく揺れ、墓石に黒い波紋を描いている。真吾は草をむしり続けながら続きを待った。
「君の主義主張を否定するつもりはないがね、災厄を防ぐだけでは勝てん。一見するとくだらない、君の嫌悪するものの中でしか見つけられないことも確かにある。言葉のやり取りなどなんの意味もない場面もあるのだよ。いままで君が戦って和解した悪魔たちなんかがそうだ。だから頼むから悪魔くん、息子を失望させないでくれ。君は賢い子だ、そして君は決して弱くはない。息子は君を高く買っている。人間の弱さや儚さを知っていてもなお、君を生涯の友と思っている。目の前に障害があったなら払いのけろ、君の善悪の判断が許す限りな。荒っぽい奴ら、度しがたい愚か者、血と権力を好む者に君は眉をひそめるかもしれん。だが正義とは普遍的なものではなく、流動的なものだということを心にとどめておいてくれ。そんな奴らにはそんな奴らなりの正義があるんだとな」
 真吾は小さく頷いた。わかったよ、メフィスト。いきなり来たからびっくりしたけど嬉しいよ。メフィスト2世のことは大好きだよ、僕の大切な親友だから。だから彼を悲しませたりしないよ、僕の力の及ぶ限りは。
 その後メフィストが言った言葉、
「悪魔くんは望むと望まざるとにかかわらず、戦いと混沌の海に飲み込まれ続けるだろう。わしは君を可哀そうに思うよ。年端もいかない子供に運命というやつは随分と酷なことをする」
 これに関してはいまは深く考えないことにしようと思う……。

 僕の望みは、あの逆五芒星の男を打ち負かし、館の悪魔を出し抜き、そしてこの喧嘩に勝つことだ。
 それはなんのためだ? みんなを助けるため、狡猾な悪魔に利用されないため、そして先に進むため?
 僕は強くなりたかった。でもあの逆五芒星の男に勝っても僕の強さの証明にはならない。館の悪魔を出し抜くことができても、賢明であることの証明にはならない。じゃあどうして僕はこんなことをしているんだろう。

 メフィストは言った。荒っぽい奴ら、度しがたい愚か者、血と権力を好む者にうんざりしたとしても、そんな奴らなりの正義をまず推し量ってやれと。あの逆五芒星の男、その手下の男、いままで倒してきた悪魔たち。いまになって、僕が潜り抜けてきた戦いは間違いだったと言うつもりはない。逆五芒星の男、僕はあいつが嫌いだ。でも、彼を傷めつけたいわけじゃない。
 僕はメシアと呼ばれ、自分でもそうなのかもしれない、そうだったらいいなと思っている。だけど仮にも人々に救いと安らぎをもたらすメシアを自称するなら、相手の表面だけでなく、内面を見てから物事の善し悪しを判断すべきじゃないのか。確かにあの男はそのふざけた行為通りのふざけた奴かもしれない。
 でも、僕は怒りに目がくらんでいないか?
 非難するだけなら別にメシアでなくてもできる。殺すだけなら簡単だ、力さえあれば誰だってできる。僕にしか、メシアにしかできないことがあるからこそ、僕はこうしてここにいるんじゃないのか? あの男とはいずれ対決するだろうし、最悪の場合、僕は人殺しになるのかもしれない。でもやむを得ずそうなったとき僕は、怒りに歪んだ目でなく、メシアとしての目で相手を見ていたい。本当に僕が、メシアでいいのなら。
 それは真吾のプライドの問題でもあるし、相手への礼儀でもあった。
 だが、そこまで悟った判断ができるかどうかいまはまだ自信がなかった。

 真吾にはなんとなくメフィストの言葉の意味がわかってきた。以前の真吾なら、館の悪魔やレラジェに対して今ほど親しみや好意を感じることはなかっただろう。それはなぜかというと、真吾はいい子で純粋な正義の味方だったからだ。
 いまの僕はそうじゃないのかな?
 それは違う、単に前よりも考え方が柔軟になっただけだと心のどこかで声がしたので、当面はその前向きな考えを採用したかった。

 それにしてもこの喧嘩、どうして僕はこんなにむきになってるんだ? メフィスト2世の言うように、逃げちゃえばいいじゃないか。半年前の僕ならたぶんそうしていただろう。他にも方法はいくらでもある。くだらない、ほんと馬鹿だよ。こんなにぼろぼろになって、つまらない言い争いをして。僕らにも、あの子たちにも、得することなんかなんにもないのに。でも、そんな意地の張り合いも悪くはなかった。喧嘩っ早いメフィスト2世の気持ちが少しわかったような気がした。彼もこの高揚感が好きなのかもしれない。

 この悪魔の少年たちなりのやり方で自分たちの町を守り、愛してきたというのなら、それに従おうじゃないかと真吾は思うのだ。それにこの子たちは愚か者なんかじゃない。ただちょっと、歩いている道が僕とは違うだけだ。だから真吾はメフィスト2世の後を引き継ぎ、こうして慣れない喧嘩に挑もうという気になったのだ。メフィスト2世は驚いていたけれど。そういえばメフィストが来たこと、結局メフィスト2世には言わずじまいだったな。別に秘密というわけではなかったのだけど……。


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2008/5/18

わたしにしては連続更新。喧嘩の続きですが、なぜかメフィストとの会話シーン回想です。真吾くんとメフィストの組み合わせっていうのもなんかいいなって思います。時折ふっと、長い年月を生きてきた者特有の表情を見せたり、どきりとするようなことを言って真吾くんをはっとさせたりとか! 喧嘩っ早いメフィスト2世の影響をちょっと受けて、男の子っぽい一面を見せる真吾くんとかもかわいい。