ユートピア「28話 通過儀礼 1」


 赤茶色の裂け目から、蜂の羽音のようなくぐもった唸りが漏れ出てきた。と同時になにかが素早く這い出てきて、メフィスト2世を目指して一直線に飛びかかる。ぎらつく牙を覗かせ襲いかかってくる正体不明の黒い物体に、メフィスト2世は慌てた様子で後ろに飛んだ。固い鱗に全身を覆われている蛇のような生き物は、たった今までメフィスト2世がいた空間をがちりと噛んでから再び地中に潜り込む。どんよりと濁った形ばかりの小さな目、どうやら太陽の光が苦手らしい。魔力に反応したんだ、頭の片隅にちらりと浮かんだ考えを、いまさらわかっても遅いよと押しやった。
 メフィスト2世は怪物の攻撃をかわし、それからとっさに飛ぼうとしたようだった。飛行には魔力が必要、だがこの町では、この喧嘩のルールでは魔力はご法度、その一瞬の逡巡が勝敗を決した。ところどころ亀裂の入った円の外側で、メフィスト2世は拳を小さく震わせながら呆然と立ちすくんでいた。
 円の内側で、二本角の少年は勝ち誇った顔で言った。
「俺の勝ちだ。約束は覚えてるよな」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 真吾は慌てて叫んだ。
 いきなり攻撃をしかけたのはメフィスト2世のほうなんだから勝負の公平さについてあまり強く文句は言えなかった。とはいえ、ここでいつまでも足止めを食らうわけにもいかない。こうなったら仕方がない。真吾はひとつ、冒険をしてみることにした。
「なんだ、逃げるのか? 別にいいぜ、最初っからお坊ちゃんたちに期待なんてしてねえから」
 からかうように口笛を吹く褐色の肌の少年に、真吾は静かに答えた。
「違う、まだ勝負は終わってない。ぼ……俺が相手になる。次で決着をつけよう」
 俺という一人称を使ったのは初めてかもしれないなと真吾は人事のように思う。なにかを演じているような妙な感じがするが、郷に入っては郷に従うまでだ。確かに彼らからすれば、場違いな正装姿で自分たちの町を練り歩く奴らなんていけすかないだろう。ここは彼らの住む世界、歩み寄るべきなのは真吾のほうだった。
 それにこれはただの喧嘩だ。ここでいつもの平和的な説得を始めるのも、なにか違う気がする。
「なに考えてんだよ悪魔くん。空から町を抜ければなんとかなるから俺に任せとけよ」
 いつの間にかすぐ傍まで来ていたメフィスト2世が小声で耳打ちしてきた。
「それは僕のセリフだよ。メフィスト2世がそうしたいっていうならそれでもいいよ。君が始めた喧嘩だ、君が決めればいい。でも一度この形で勝負を始めた以上、筋は通すべきだと僕は思うけどね」
 痛いところを突かれ、メフィスト2世はばつが悪そうに目をそらした。
「そりゃ俺が悪かったけどよ……でもいくらなんでも無茶だろ。もしかして悪魔くんは見かけによらずガキ大将で通ってて喧嘩慣れしてるのか? それか俺たちと別れた後なんか武術でもやってたのか?」
「そんなわけないじゃないか。でも、どんな状況でもやるだけやってみるのが僕の信条なんだ」
「その信条はいまは忘れとけよ……」
「大丈夫、無理はしないから。それに僕は運がいいんだよ。これ持ってて」
 窮屈な上着と蝶タイをメフィスト2世に預け、真吾は悪魔の少年たちに向き直った。リーダーと思しき二本角の少年は、意外そうな顔で真吾を見て、それから屈託のない笑みを浮かべた。糊のきいたドレスシャツの袖を肘までまくり上げながら真吾も笑い返す。いつのもの少しませた、どこか老成した微笑ではなく、年相応の笑顔だった。真吾はすんなりと状況を飲み込んでいた。

 そうだ、これは遊びなんだ。僕にとっては種族が、メフィスト2世にとっては住む環境が違うけど、子供同士の通過儀礼みたいなものじゃないか、そんなに怖がることはない。
 ゆっくりと雲が流れ、ぎらつく太陽を隠した。それだけで気温がぐんと下がったような気がする。
 腕力は人間の少年とそう変わりはしない、問題は体格差と経験だ。僕のほうがずっと小柄だし、喧嘩なんてしたこともない。でもこれは戦闘じゃない、ルールのあるスポーツみたいなものだ、勝算は十分ある。後は……そうだな、僕の度胸と運次第かな。
 先手必勝だとばかりに足払いをかけてみたが、簡単にかわされたので真吾は慌てて二本角の少年から距離を取った。
 冷静に対処すれば勝算も上がる、相手よりも勝っていること、それは知識だ。僕のほうが戦術を知っている、いままでは指示する側だったけれど、実践する側になっただけの話だ。いつもの戦闘と今回みたいな喧嘩じゃちょっと勝手が違うかもしれないけど、基本は同じはず。魔力抜きで考えればいいんだ。

 まずいきなり突撃して殴りかかった場合について考えてみる。
 無闇に殴っても自分の拳を痛めるだけだって読んだことがある、掌底を使ったほうが力が逃げないし、手も傷めないって。これは身をもって知ってるはずだ、僕は一度だけだけど人を殴ったことがあるじゃないか、あれは自分の手と心が痛いだけだった。それに僕みたいに場慣れしてない人間は下手に攻撃するとバランスを崩したところを狙われる。ああだけど、これはただの喧嘩だってことを忘れるな。メフィスト2世はこっちの胃まで痛くなるような顔で見守ってくれてるけど、余計緊張しちゃうよ。

 二本角の少年がものすごいスピードで突進してきた。掴みかかってきた手を払いのけ、真吾は円の内側ぎりぎりで踏み止まる。ふくらはぎの筋肉がぴんと張り詰め、悲鳴を上げていた。
 がんばってはみるけど、負けたらごめんねメフィスト2世!
 ひとまず真吾は、二本角の少年悪魔の攻撃をかわすことに全力を注ぐことにする。それでも全てを避けきることはできず危ういところまでいった、横から右足をきれいに払われ、もう少しで円から転がり出るところだった。だが真吾はこらえた。そうしながら考えていた。
 そうだな、一対一での普通の喧嘩は初めてだけど、ゾンビみたいな下級悪魔やミイラなんかがうじゃうじゃ蠢く中、十二使徒の態勢が整うまで時間稼ぎをしたことはあるし攻撃を食らったことも結構ある、考えてみると僕はそれなりに場慣れしているといえるかもしれない、そう考えるとちょっとは余裕みたいなものを感じるな。とにかく、そろそろ隙を見て反撃しないと僕の体力が持たないや。

 ほとんど無意識のうちに真吾はさっと身体を右にひねった。空気を切り裂くひゅうっという音が左耳のすぐ傍を通り過ぎ、それから胃の辺りがじいんと熱くなる。最初の拳は辛うじて避けたが、続く一撃をまともに食らってしまった。真吾は顔をしかめ、手のひらで腹を押さえて痛みをやり過ごす。
「こうなったらとことんやれ!」
「そのつもりだよ!」
 メフィスト2世の声援に、真吾は怒鳴り返した。そんな余裕は本当はなかったのだけど。
 メフィスト2世は右に飛べとかそこで反撃しろとかあれこれ言ってくれるけど、気が散る上にぜんっぜん参考にならないよ!
 これまで十二使徒に防御から攻撃、退却、その方法まで事細かく指示を出してきたけれど、実践する側に回るとなるとこうも大変なのか。
 僕の命令、心ひとつで百八十度戦い方を変更せざるを得ない、その困難さの片鱗くらいはわかった気がするよ。
 真吾はふらつく足をなだめ、大地をしっかり踏みしめる。殴られたところは痛むし、埃の入った目はひりひりするし、二本角の少年はまだまだ余裕たっぷりに見えた。
 でもそれでも、僕は勝つ。兵法は忘れる、いまは役に立たない。こうなったら、なにがなんでも意地でも絶対にこの喧嘩、勝ってみせる。


27話へ  戻る  29話へ
2008/5/14

自分のことを俺って言う真吾くん、というのもなんかちょっと新鮮でいいなあってことで、一回だけ俺で。かっこいいけど、真吾くんが言うとどこか可愛い感じがしちゃいますね! 同じ年頃の男の子たちと爽やかに喧嘩しちゃってる真吾くんというのも個人的に燃えちゃいます。