ユートピア「3話 止まない雨」


 あんなことがあった後だから、と一日休むことになった真吾は、危険を知らせるカードを沈んだ面持ちで眺めていた。ろくに眠れなかったせいで瞼が重たかった。朝から大粒の雨が降りしきり、室内はじめじめして心地が悪い。
 髪切り魔。情報屋は確か、こういっていた。
「奪われた髪は、町のあちこちに捨てられていた……」
 母親の目を盗んで(彼女は真吾が小学生らしからぬことにばかり興味を持つのをよしとしなかった)、真吾は事件の情報を整理した。髪の束が捨てられていたのは、三丁目の公民館、中央商店街の裏路地、並木公園の砂場、神社の裏の林、五丁目の繁華街のゴミ捨て場。それぞれの地点にペンで印を付けながら真吾は小さく唸った。打ち捨てられた場所はバラバラでとても何らかの接点があるとは思えなかった。警察の発表通り、ただの変質者の仕業なんだろうかと真吾は思う。溜息をつき最後にもう一度、とぼんやり地図を眺めていた真吾の顔が、見る見るうちに青ざめていった。定規を当て、それぞれの印を慎重な面持ちで繋ぐ。出来上がった図形に、真吾は取り落としたペンが部屋の隅に転がって行くのにも気づかなかった。
 それは北を頂点とした逆五芒星を形作っていた。そしてその中心には、真吾の通う小学校があった。


 夕暮れ時に見る学校はどこか物悲しい。朝から降り続いている雨のせいか、構内は陰気な空気に満ちていた。もう少しだけ自分の力で調べてみてからでも遅くはない。今夜だ。今夜僕の十二使徒を召喚する。真吾はようやく決心を固めた。
 どこかに必ず何かがあるはずだった。黒魔術の中心がこの小学校だったのなら、犯人は何度か校内に入りこんでいたはずだ。だが例の髪切り魔が出始めてからは校内の警備も厳重になっていたし、教師の見回りもかなり頻繁に行われていた。そんな中見慣れぬ人間が何度も侵入できるだろうか。
 考えろ、思い出すんだ。最近何か変わったことを見たり聞いたりしなかったか? 小さなことでいい、何か変化は? 学校裏の林の奇妙な魔法陣、髪切り魔、一瞬だけ見たあの大柄なマスクの男、それから、それから……?
 真吾はあてどもなく校内をずんずん歩きながら推理した。ほとんど駆けるように歩きながら、ふと妙なことに気づいた。静か過ぎる。いつもなら喧騒に包まれているはずの教室や、威勢のいい声が聞こえてくるはずの体育館、放課後大会に向けて練習に励んでいるはずの音楽室、あるはずの音がない。学校中が静寂に満ちていた。
 悪魔くんとしての力なのか、それとも人間が本来僅かながら持っている第六感なのか、ともかく真吾はほとんど直感に従って走り出した。


 照明が落ちているせいで、何が起きているのかとっさに分からなかった。薄暗い体育館の真ん中で、誰かが佇んでいる。じっと目を凝らすとその人物の周りを大量の髪が渦巻いているのが分かった。更にその周りには、ぐったりとした子供たちが折り重なるように倒れている。
 真吾は後ずさった。いつの間にかあんなにうるさかった雨の音が止んでいた。不審に思いちらりと窓に目をやると、相変わらず激しい雨が降りしきっている。おかしいのは音だけじゃない。雨に濡れた土や草木の瑞々しい香り、汗の臭い、普段意識することのない当たり前の音や臭いが何も無い。
 男がゆっくりと振り返り、真吾を見た。大柄な身体、細く切れ長の目、酷薄な笑み。初めて見る顔ではなかった。
 そうだ、急に臨時の先生が来たんだ、情報屋もいっていたじゃないか。そうだった、なぜ気づかなかったんだ、誰も不審に思わない、それどころか……。
 男が口を開き、何かをいいかける。言葉になる前に真吾はくるりと踵を返すと駆け出していた。

 息を切らしながら手近な教室に転がり込むと、そこでも意識を失った子供たちであふれ返っていた。その中に見知った顔を見つけ、真吾は慌てて駆け寄る。
「キリヒトくん!」
 肩を揺さぶり、必死に呼びかけてみたがキリヒトは死んだように瞳を閉ざしたまま動かない。
 喉元まで押し寄せたパニックを、真吾は必死に押さえつけた。大丈夫、僕は大丈夫。鼓動はある、身体も温かい、みんなも気を失っているだけで生きてる。だからまだ大丈夫だ。幸いここは一階だ。真吾は窓に手をかけ一気に開けようとしたが、押せども引けどもびくともしなかった。ドアも、窓も、手当たり次第に試してみたが、まるで出入り口であることを放棄したかのようにぴくりとも動かない。
「みんな、しっかりするんだ、起きて、逃げるんだ!」
 真吾の叫びが辺りに虚しく響いた。
 ああ、僕は見誤ったんだ。遅かった、遅すぎたんだ。真吾は唇をきつく噛み締めながら、結界に囚われた学校を見渡した。痛いほど両の拳を握り締めてからチョークをひったくるように掴むと、真吾は約半年振りに懐かしい魔法陣を描く。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム、我は求め訴えたり。出でよ、第一使徒メフィスト2世!」
 天を指す右の指先から地を指す左の指先まで、びりびりと身体の中を魔力が駆け巡るのが分かった。空間が歪み、契約のもと異界から真吾の忠実な僕たる使徒が召喚されるはずだった。だが、確かに感じたはずの手ごたえがふいに真吾の手の中で消えうせ、辺りは再び静寂に包まれた。

 思った以上に強力な結界に真吾は一瞬ひるんだがすぐに気持ちを奮い起こし、今度は防御と浄化の魔法陣を描き始めた。僕は大丈夫、まだやれる。そうしている間にも瘴気はますます濃くなり、腹の底まで響くような地鳴りに頑丈なはずの学校が激しく揺れ動いた。真吾は詠唱中の呪文を一瞬途切れさせそうになるが何とか踏み止まり必死に続ける。
「我はこの円を描き悪を束縛せんとす。いかなる邪悪もこの円に入ることは叶わず――」
 諦めてたまるもんか。例えソロモンの笛がなくても、十二使徒がこの場にいなくても、僕は悪魔くんなんだ。細かな汗の粒を額に浮かび上がらせ、真吾は歯を食いしばった。真吾が魔法陣を完成させるのと、耳をつんざくような叫びが辺りにこだましたのはほぼ同時だった。


 鈍い痛みに真吾は目を覚ました。久しぶりに大きな魔術を使ったせいで身体が鉛のように重たかった。どれくらい気を失っていたんだろう。召喚に失敗した魔法陣からいまだうっすらと煙が立ち昇っていることからみると、さほど時間は経っていないようだ。この教室内は辛うじて真吾の結界が効果を発揮してくれたことだろう。だが、他の生徒たちは……。
 真吾は悲鳴を上げる身体をなだめて無理やり立ち上がった。教室の外では無数の悪魔たちが跋扈していた。いや、悪魔というよりは悪霊、魔物に近い、と真吾は思い直す。男の黒魔術がどんな効果を及ぼしたのか今はまだ分からない。一ついえるのは、自分が大きな判断ミスを犯したということだ。
 僕のせいだ。防げたのに、変な意地を張ってみんなをこんな目に合わせてしまった。地上を楽園にすると決めたのに。争いのない、平和な世界にしたいと願い、僕を信頼してくれたみんなと力を合わせてやっとひと時の平穏を手にしたのに。
 こらえきれずに流れた涙を真吾は乱暴に手の甲で拭った。
 嫌な視線を感じ、真吾ははっと身を硬くする。一匹の魔物が教室をひょいと覗き、中央にいる真吾に目をとめた。蜥蜴のような顔をした魔物だった。真吾は慌てて魔法陣に向き直ったが、呪文が完成する前に魔物は真吾を円から弾き飛ばし壁に押し付けた。
 強い衝撃で肺から一気に空気が搾り出されたのは真吾にとって幸いだった。悲鳴を上げることができなかったからだ。少年の叫び声は他の魔物たちを呼び寄せる格好の餌になっただろうから。身を護る魔法のマントもなく、ソロモンの笛もない。何より、大切な十二使徒、仲間がいなかった。真吾はくじけそうになる心を叱咤した。怖くなんかない、もっと恐ろしいことだって沢山乗り越えてきたんだ。
 それはぎょろりとした目玉で真吾を品定めするように見ると、ざらざらとした長い舌で彼を舐め回した。ぞっとする臭気に真吾は顔を背ける。
 力一杯身をよじってみるが、少年の力ではどうすることもできない。鋭い爪が真吾の頬を掠めた。うっすらと滲んだ血を、その蜥蜴の顔をした魔物はさも美味そうに舐め取っている。
 僕、食べられちゃうのかな。十二使徒よ、ソロモンの笛よ、今まで僕に力を貸してくれた総てのものたちよ。ごめんよ。僕の力が、考えが足りなかったばっかりに、こんなことになってしまったんだ。
 一瞬浮かんだ弱々しい思いに、真吾は自分自身を恥じた。
 負けてたまるもんか。今まで僕を信じて助けてくれたみんなを裏切るような真似は絶対にできない。
 真吾の唇から漏れ出た守護の呪文に魔物はすっと目を細めると、真吾の首をぎりりと押さえつけた。みるみるうちに真吾の顔が朱に染まり、切れ切れに続いていた呪文もついには途絶えた。真吾の意識は、ゆっくりと闇に落ちていこうとしていた。


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2007/10/08

情報屋の臨時の先生がどうこうの台詞は伏線のつもりだったんですが、あまり生かされないまま終了! だらだらするのも何なのでさくっと進めちゃったです。本当はここで他の使徒の名も呼ぶ予定だったけど展開の都合上メフィスト2世だけ。