ユートピア「16話 血の誓い」


 カーテンの隙間から入り込んできた朝日が真吾の頬を暖めてくれていた。その平和な心地よさに真吾は思う。夢だったんだろうか。僕の迷いが生んだ、悪夢の一つだったんだろうか。だが両腕に残る傷跡をなかったことにはできなかった。早くシーツを洗わないと落ちなくなるな、いやそれより先に傷を治さないと。とりとめのない思考の渦の中、真吾は温かい布団の中で身体をまるめた。もう血と臭気と憎悪のたち込める戦場は嫌だった。大好きな両親に守られながらかわいい妹と一緒に石鹸の香りがする安全な世界でまどろみたい。ここにいれば誰も真吾を傷つけることはできない。だが同時に、真吾のほうから世界に働きかけることもできなかった。世界を変えたければ、ベッドから出るしかないのだ。だから真吾は布団をはねのけた。

 幸いメフィスト2世と百目はまだ眠っている。幽霊のような身のこなしで部屋を後にすると、いつもの場所でピクシーを召喚した。彼らの薬草ならこの程度の傷、すぐに跡形もなく癒してくれるはずだった。
 こんなに雄大で美しい太陽を背に、僕は朝食前に悪魔を召喚する。精密で芸術的な魔法陣、知の結晶を前にして僕は惚れ惚れする。それからランドセルを背負って数の掛け方や図形の面積の求め方を教わりに小学校に行くんだ。改めてそう思うと真吾は何だかおかしくて、声を上げて笑いたくなったがぐっと堪えた。ここで笑ったら、取り返しのつかない闇の狭間に滑り落ちてしまいそうな気がしたからだ。
 頭もまだはっきりしていなかったし、身体の疲れも取れていなかったが、それでもピクシーへの口止めだけは忘れなかった。
「誰にもいっちゃ駄目だよ、僕たちだけの秘密だからね」


 それから幾日かは平穏だった。小雨が降りしきるある日の放課後、真吾はとうとう親友に白状した。夢の中での宣戦布告、そして夢で負った傷が現実となったこと。シルクハットについた水滴を丁寧に拭い、メフィスト2世は特に怒った様子もなく真吾の言葉に耳を傾けた。
「誰も争わない、誰も傷つかない、人間と悪魔が手を取り合って暮らしていける、そんな平和な世界を僕は望んでいたはずだった。だけど最近思うんだ。誰もがしあわせになれる理想郷なんてないのかもしれないって。でも僕はまだ納得できないんだ、それじゃ嫌なんだ。だから僕は戦う。答えが出せるまで僕はもう少しだけ考えて、迷っていたいんだ」
 真吾はそこで言葉を切り、少し考えてから再び話し始めた。
「魔の力は精神力が大きな鍵だ。僕の心に迷いがあれば、僕らの切り札、究極の六芒星の力も弱くなる。そうだよね」
 メフィスト2世の返事を待たずに真吾は続けた。これは自分の考えを整理するためだ。僕はただ聞いてもらいたかった。そしてメフィスト2世も、それを分かってくれているように思う。
「ときどき、本当に僕がメシアでいいのかと迷うし、僕に十二使徒を指揮する器があるのかどうかも疑問だ。そして、ファウスト博士。どうして博士は僕と君たち十二使徒に距離を置かせたんだと思う? 今思うと腑に落ちない。だって、ユートピア実現を目指すなら当面の大きな敵がいなくなったあの時こそがチャンスだったはずだ。たぶん、ファウスト博士には分かっていたんだと思う。僕がこうして迷うことを。そして、僕が克服しなければならないことが、まだたくさんあるんだってことを」
 真吾が話し終えたのを確認してから、メフィスト2世は口を開いた。
「悪魔くん」
 シルクハットを被りなおし、マントの裾を払い、どこか改まった様子のメフィスト2世に、真吾は少し緊張する。
「迷うなとはいわない、それは無理だろう。だがな、迷わない奴なんていないだろ、そんなことで負い目を感じるなんて悪魔くんらしくないぜ。悪魔くん自身が幸せになれない世界なんてユートピアじゃないだろ、違うか? 真吾は間違いなくメシアで、悪魔くんだ。このメフィスト家のメフィスト2世がいうんだから間違いない。何があっても、自分の十二使徒と自分自身だけは最後まで信じろ。これだけは絶対に忘れるな」
「……うん」
「悪魔との約束は絶対だからな。破ると怖いぜ」
 凄んで見せるメフィスト2世に、ぜんぜん迫力ないよ! と真吾はくすくす笑った。
「じゃあ、約束しようか。男同士の誓いだ」
 普段鉛筆を削るのに使っている小振りのナイフを引き出しから取り出し、真吾は右の手の平をほんの少し刻んだ。一度刃をしまってからメフィスト2世に向かって放り投げる。心得たように宙で掴み、メフィスト2世は面白そうに唇の端を持ち上げた。
「よく知ってるじゃないか。親父もガキの頃、こうやって遊んでたって聞いたことあるぜ」
「僕のは遊びじゃないよ」
「分かってるさ」
 メフィスト2世は真吾と同じ位置に小さく傷をつけてから右手を差し出した。真吾は軽く勢いを付けてその手を叩いた。力強く握り締めた手の間で、お互いの血が交じり合うのが分かった。
「いつだったかな、何かの本で読んだことがあるんだ。いつか悪魔の友達ができたらやってみようと思ってたんだよ」
「そうか、奇遇だな。俺も人間の友達ができたらやってみようと思ってたのさ」
 少しの間、真剣を装ってお互いの顔を見つめあった。だがすぐに堪えきれなくなり、二人で声を上げてげらげら笑った。人間と悪魔、本来なら交わることのない子供たちの笑い声が空高く響き、澄みきった空気に溶けていった。真吾はうれしかった、曇り続きの胸の中にようやく太陽を見つけた気分だった。お腹が痛くなるほど笑ったのは久しぶりだ。


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2007/12/26

どうして十二使徒と離れたのかむりやり理由をつけてみた。そしてメフィスト2世との熱い友情も好きです! 男の子だし、こんな感じで友情とか冒険とか遊びとか楽しそうだなという妄想が! 一回この手のシーンを入れてみたかったのでした。サイトはじめて三ヶ月くらいですが、何とか無事ここまで来てよかったです。今年の更新はこれが最後になるかもしれないですが、(めっちゃ気まぐれ更新なので分からないですがたぶん)何かの縁でこのサイトまで辿り着いてここまで読んでくれた方ありがとうございました! 悪魔くん好きな方々ばかりかと思いますが、来年こそ! 悪魔くんのDVDでるといいですね!