※注意※ アニメ六話のネタばれがあります。 というよりアニメ未見の方には訳がわからない展開です。 このお話単独でも読めますが「幽霊の子」の続きでもあります。 「狭間の存在」 濁流に飲み込まれる瞬間、水木は安堵していた。そうだ、それでいい。子供は死んじゃいけない。たとえ鬼であろうと、邪であろうと。完全に身体が水中に沈みこみ、瞬く間に肺が水で満たされた。沈む、沈む、現世を切り離し、死の境界線へ。 生暖かい水の底を抜けると、まばらに生える木々の間に出た。「ようこそいらっしゃった」背後からかけられた声に振り向きながら水木は言う。 「僕は死んだのか」 目の前の鬼は呑み込みのいい人だと笑った。いや、鬼ではないかもしれない、人ならざるなにか、死人を導くなにか。なぜとっさに鬼だと思ったのだろう。白い布で全身を覆われていて、顔も見えないというのに。 死人は迷ってはいけない、だから現世でのしがらみや悔恨や愛着はここで捨て去りなさい。そう鬼は語り、促されるまま水木は切り株に腰を降ろした。 「思い残したことならある。僕は幽霊の子供を育てていた……」 水木はぽつぽつと語りはじめた。まず最初に見えてきたのは、鬼太郎が五つのときの出来事、仕事帰りに気まぐれで畦道を通った自分自身の姿だ。 近頃は空気がとんとまずくなった。 小さな波紋がいくつも広がる田んぼを見下ろすと、蛙がすいすい泳いでいた。 もう帰ろう。老いた母と、血は繋がっていないとはいえ小さな息子がいる我が家へ。 もう日暮れだというのに山から吹いてくる風は生暖かく、本格的な夏の到来を告げていた。鬼太郎は今日も泥だらけで帰って来るのだろう。庭にたらいを置いて行水させるのにちょうどいい季節だが、大分大きくなってきたからそれももう卒業かもしれない。 最初は気味が悪かったが、育ててみると鬼太郎にも可愛いところがあった。鬼太郎の善悪の基準は独特だったが、一度約束したことは絶対に破らない。日本男児たるもの、そうでなくては。水木は微笑み、四つ辻に差し掛かったところでスーツの袖を引かれた。驚いて振り返ると、鬼太郎が無表情で立っていた。 「どうした? 迎えに来てくれたのか?」 鬼太郎は感情の読みにくいとろんとした目で水木を見上げる。すっかり慣れきっている水木はやれやれと肩をすくめると、鬼太郎の頭をそっと撫でてやった。鬼太郎はすっと目を細めて口をすぼめる。嫌がられているのか、親密さを感じてくれているのかよくわからないが、振り払われはしないのでよしとしようと思う。 「ここは危ないですよ」 鬼太郎がぽつりと呟いた。なにが、と聞き返す間もなく、空から猛烈なつむじ風が降りてきた。遠くから風に乗って悲鳴が聞こえてくる。まったく、鬼太郎と一緒にいると怪奇現象が絶えない。水木は無意識のうちに鬼太郎の手を取ると、かばうように前に立って辺りを見回す。 「いったいなにがあった?」 水木の問いには答えず、鬼太郎はやや強引に繋いだ手を引っ張って帰路につこうとするので、驚きながらも後に続く。 それにしてもおかしい、鬼太郎らしからぬ行動だ。この騒動、まさか鬼太郎が原因ではと思い問いただしてみるとやはりその通りで、ばつが悪そうに横を向いている。よく見ると口の周りが粉をふいたように汚れていて、それですぐにぴんと来た。また神社の供物を食べたのか。 「どこだ?」 鬼太郎は相変わらず表情の乏しい顔で水木を見上げた。水木は鞄から財布を取り出しながら足を速める。急に歩調を速めた水木についていけなくなった鬼太郎をひょいと抱えあげると、町の中心へと進路を変えた。 「どこの神社だ? このあたりだとあそこか、三丁目の雑木林の向こうの。あそこの神さまは温和だというから、すぐに代わりをお供えして謝れば大丈夫だろう」 事なきを得た後、水木は鬼太郎にこんこんと言い聞かせた。悪戯は度を越しちゃいけない、それから、本当に危ないときはなにを差し置いてでもまず逃げなさいと。すると鬼太郎は、そんなに言うなら逃げます、おじさんが死んだら地獄まで遊びに行くとあっけらかんと言うので、水木は訳がわからないまま肩をすくめた。当時はまだ鬼太郎の実父、目玉の存在も薄々としか感じていなかったし、鬼太郎が自由に地獄を行き来できることも知らなかったのだ。 どの文献を当たっても幽霊族の記述はなかったが、水木は不可思議な確信をもって感じていた。この幽霊の子供は、いつか強大な力を持つ妖になるだろうと。だがなにぶんまだ幼い、戦い方も知らなければ人間の心の機微もわからない、この世に災いをもたらすことも多いだろう。だがいつか、人間と妖怪の狭間を生きる存在になる、いつか種族を問わず必要とされる強い妖になる。その奇妙な予感は水木を慰めたが、自分が生きているうちにはかなわないだろうと思うと寂しくもあった。 慣れ親しんだ日常に紛れこむ怪奇の数々、これもなにかの縁かと水木は思う。 「おじさんのお母さんが外で遊んで来いとうるさいから神社に行ったんです」 小声で弁解をする鬼太郎に水木は苦笑する。 「お祖母さんと呼んであげなさい。頭は固いけど、悪い人ではないんだ」 鬼太郎は聡い子だった、子供を相手にしているという感覚が薄くなるほどに。だからはっきり口に出すのが気恥ずかしくて、水木は早口で続けた、僕のこともお父さんと呼びなさいと。そう言うといつも、鬼太郎は口を尖らせて横を向くのだが、この日ばかりはどういうわけか違っていた。鬼太郎は水木の手を強く握ると、もぞもぞと唇を動かした。あのときの一言は、聞き間違いでなかったと信じたい。どんな気まぐれにせよ、僕をお父さんと呼んだことは、鬼太郎にとっても僕にとっても良い前兆だったと信じたい。ひょっとしたらありえたかもしれない未来、たとえば仲睦まじく平穏に本当の親子のように暮らす、そんな世界も無数に広がる未来のどこかにきっとあったはずだ。その道を切り開けなかったこと、鬼太郎に人間の心の機微を教えてやれなかったこと、ただそれだけが無念でならない。この先ひどく遠回りして身に付けていくだろうから。 これも僕の思い出、僕のしがらみ、僕の悔恨の念、僕の人生の一部、僕の愛着だ。単調で質素な生活、そんな中でもひときわ輝いていた数少ない思い出のひとつだ。 もちろん死を望んでいたわけではなかったが、水木はある意味ではこの結末をよしとしていた。荒々しい波に飲み込まれる寸前、水木は願った、頼むから手を差し伸べないでくれと。子供は死んじゃいけない、義理とはいえそれが我が子ならなおのこと強くそう思う。最期の願いは聞き届けられ、水木は満足だったのだ。ひどく手のかかる子だったが、最後の最後で水木の言いつけを守ってくれたのだから。 また記憶が降ってきた。 鬼太郎が小学校に上がりたての頃、担当の教師との面談があって、茶菓子を前に当たり障りのない会話をしたこと。奥さんはご不在ですかと問われとっさに「随分前に亡くしましてね」と答えると教師は形式上の謝罪を口にし、居心地の悪い思いでお気になさらずと呟いたこと。近所の子を泣かせて来た鬼太郎に溜息をつきながら菓子折を持って謝りに行ったこと、お宅の息子さんがと怒り心頭のご婦人に肩を小さくしながらも悪い気はしなかったこと。盆栽に鋏を入れていると背中をつんつんとつつかれ、振り向くと鬼太郎が立っていて、小さな手を差し出したこと。泥だらけの手のひらの上には毛虫が乗っていて、「刺されるぞ」と言うと、鬼太郎はどこか得意そうに、そんなことは絶対にないと言いきったこと。鬼火と戯れている鬼太郎は闇の世界の住人そのもので、力強く灯る鬼火を美しいとすら思えたこと、以前なら考えられない感情が次々と生まれでてきたこと。 なぜその妖を育てていたのかと問われ、水木は両手で顔を覆った。 「わからない。情が湧いたんだと思う。でも正直言って、何度捨てようと思ったかわからない」 「しかし、そうはしなかった」 鬼の言葉に、水木は頷いた。 「ああ、そうはしなかった。僕の人生に多少なりとも意味があったとすれば、それはあの幽霊の子を育てたことだと思う。酷い目にもあったが、鬼太郎を見捨てる気にはなれなかった。自分でも不思議だが、僕はあの子が本当に可愛かった。こうして肉体から解き放たれてみると、自分がなにか大きな流れの歯車のひとつとして動いていたような気がしてくる。鬼太郎もそうだ。いつまでも幼いままの、生意気で残酷な、好奇心と損得だけで動く妖じゃない。僕の生涯は妖に利用されただけの虚しいもので、無駄死にだったのだと思いたくないだけかもしれないが、鬼太郎はいつか人間と妖怪の狭間を繋ぐ強い妖になるんだと思えてならない。僕は預言者じゃないがね。だが人間は生涯に一度、未来を垣間見る瞬間があるように思う、僕はそれを見たような気がするんだ」 こうして言葉にしてみると、胸のつかえがすっと取れたような気がする。水木はいつの間にか固く握りしめていた拳を開いた。肉体はないはずなのに、手のひらに鈍い痛みが走ったような気がする。 「決めた。僕は忘れないことにしよう。あなたは死人をしがらみから断つことが仕事で、僕は喜んでそれを受け入れるべきなんだろうな。でも僕はもう少し地獄をさまようことにするよ」 なんのために、と鬼は言った。水木は確信を持って、ごく当り前の事実を答える。 「なぜって、鬼太郎が来るからだ。幽霊の子を我が子として育てた特権だよ。僕が死んだら地獄まで遊びに来ると言ってくれたからね。それを待ってから旅立っても遅くはないだろう」 衣擦れの音に顔を上げると、鬼の衣が地面に落ちるところだった。鬼の顔は水木そのものだったが、たいして驚きはしなかった。ただ地獄の入り口で自問自答をしていただけだ、鬼太郎が来るまでの短い間。 戻る 2008/6/25 水木さんを幸せにしたくてあれこれ捏造してみました! こんな可能性もちょっとはあったかも、絶対にないとは言い切れないしということで墓場鬼太郎ちゃんとゲゲゲの鬼太郎くんを繋げてしまいました。水木さんの独白になっちゃいましたが、個人的にはこれでハッピーエンドです! 「幽霊の子」では一度もお父さんと呼ばれたことがない。となっていて、このお話ではぼそっと呟いたような気がする、になってて矛盾してます。別になにも意味はないんですがただ全部書いたあと矛盾に気づき、でも直すとこのお話がおかしくなるし以前書いたものを直すのもなんだしでこのままにしておきます……。突っ込まれる前に自分でいってみた! |