「幽霊の子」
※水木視点です。

 赤ん坊の赤茶けた髪を撫でながら、僕は考える。化け物の子だ。布団の中で闇の向こう側を想像するとき、しいんと静まり返った夜道を歩くとき、僕たち人間の理性を奪い取り、恐怖を与える存在だ。だが、あの幽霊の夫婦の子とは思えないほどこの赤ん坊は愛らしい。穏やかな寝息を立て、この世には自分をおびやかすものなど何もないんだというような顔をしている。
 普通の赤ん坊とそう変わらないように見えたし、母も孫ができたようだと喜んでいた。見合いを断り続けてきた僕への当てつけかもしれないが。慣れない手つきでミルクを与え、夜中もかいがいしく赤ん坊の世話を焼く僕をみて、そんなに子供が好きなら早う嫁さんを貰いなさいと母はいう。でも僕は、子供がほしいわけじゃなかった。
 僕には負い目があった。
 潰れた左目を見るたび、よい父親になろうと僕は思う。

 鬼太郎はあっという間に大きくなった。妙な子供だったが、ほんの幼子のころは膝に乗せてそっと揺すってやるとすぐに寝入り、高い高いをしてやると歓声をあげて喜んだ。妻を娶り鬼太郎に母親を与えてやるのもいいかもしれないと僕は思った。いい父子になれそうな気さえした。だが長じるに従って、鬼太郎は闇の住人としての本性をみせるようになる。

 僕は何度か鬼太郎に、おとうさんと呼びなさいといった。だけど鬼太郎は僕のことを決しておとうさんとは呼んでくれなかった。言葉づかいだけは妙にきちんとしていて、静かに僕をおじさんと呼んだ。
 ある晴れた日曜の朝、僕は鬼太郎を呼び寄せて小銭を与えた。
「さあ、これで駄菓子でも買って、外で遊んできなさい。暗くなる前に帰ってくるんだよ」
 鬼太郎は無表情に受け取ると、礼儀正しくありがとうございますといった。
 暗くなる前に帰る? 馬鹿な。夜こそ、人の寝静まった真の闇の中こそ彼らの世界だというのに。でも僕は、まるで鬼太郎がどこにでもいる普通の子供であるかのようにふるまい、ぎりぎりまで彼の奇行から目をそらした。僕は鬼太郎の顔をじっと見つめる。鬼太郎も見つめ返す。血の繋がりがないとはいえ親子として過ごした七年という歳月は鬼太郎にとってなんの意味もないのだろうか。

「お母さん。鬼太郎はかわいそうな子供なんだよ、僕らが正しく育てて守ってあげなければならないんだ……」
 僕はそんなことをもごもごといい、健全な常識人のように振る舞う。母は頭を振って繕いものをはじめる。でも僕は本当は「どこかよそにやるわけにはいかないの、その子」母の言葉に賛同したかった。僕はそんな醜い自分に嫌気がさした。たぶん鬼太郎には、僕の卑しさがわかっているのだ。僕という狭量な人間なりに鬼太郎を慈しんでいるつもりだけれど、それでも鬼太郎は父親として認めてくれないのだ……。

 蝉がうるさく泣きわめいている蒸し暑い夏の昼下がり、僕は蚊帳の中で夢を見た。じっとり汗ばんだ耳の横でつぶし損ねた蚊がうなりをあげている。夢の中では、かたい石で造られた町が広がっていた。人々はみなうつむき加減でせわしなく歩き回り、空は暗くよどんでいた。ぎょっとするほど短いスカートをはいた女性が爪を鬼女のように伸ばし、少女のような白い肌と長い髪を持った青年が不思議な長方形の箱を耳にあてて独り言をいっている。まるで子供のころ読んだSF漫画のようだ。ここはどこなのだろう?
 異様な街の真ん中で立ち尽くす僕の横を、何かが駆け抜けていった。耳に心地よいカラコロという音、聞き慣れた義理の息子の下駄の音だ。
「鬼太郎」
 僕は呼びかけた。だが鬼太郎はすうっと人ごみをすり抜け路地裏へと滑り込む。追いかけたその先で、鬼太郎は異形の者と対峙していた。全長四メートルはあろうかという巨大な化け物、モグラと蛇がごちゃまぜになったような妖だ。
 よく見ると、鬼太郎の背後に誰かがうずくまっているのがわかった。小さな女の子だ。遠目にもはっきりわかるほどがたがたと身体を震わせている少女をかばうように鬼太郎は立っている。僕はふと違和感に気づいた。今朝家を出た時そのままの服装に見えるが、同じではない。下駄の鼻緒の色が違っているし、学童服の色合いも少し濃い。だがそんなことより、僕は鬼太郎の表情に心底驚いていた。ちらりと少女を振り返り安心させるように微笑む穏やかな顔、そして再び化け物に向き直って睨みつけるときのきりりとした顔、どれも初めてみる表情だった。決して整った顔立ちではないのに、うつくしいといってもいいくらい、見る者に安心感を与える不思議な魅力があった。こんな顔、僕は見たことがない。

 僕が呆然としている間に、事態はあっという間に終結した。鬼太郎が頭を少し下げる妙な構えをすると、赤茶色の髪がぴんと立ちあがり無数の針となって化け物に飛びかかっていった。髪の毛の針に身体中を攻撃された化け物は、悲鳴をあげながらぐずぐずと溶けていく。
「もう大丈夫だよ、怪我はないかい?」
 冷たいアスファルトの上でしゃくりあげている少女に鬼太郎は優しく微笑みかけ、少女は「ありがとう鬼太郎さん、手紙を読んでくれたのね」といっている。
 これはいったいどういうことなんだ?
 薄気味悪く笑い、湿った暗い場所を好み、同年代の子供たちに疎まれ、一人ぼっちで壁に向かってぶつぶつと何事かを呟いている陰気な少年の面影はかけらもなかった。これは間違いなく鬼太郎だ、だが僕の知っている鬼太郎ではない。すりむいた少女の膝をそっと拭いてやり、表情豊かに笑うその姿は一枚のきれいな絵のようだった。いま誰か別の人間がこの場を通りかかったなら、鬼太郎のことを優しく世話好きな好ましい少年だと思うことだろう。
 鬼太郎が振り向いた。その動きに合わせて少し長めの髪が揺れた。目が合ったような気がして、僕はぎくりと身体を震わせる。だが鬼太郎は何かを思い出すような、どこか遠くをみるような目で夕焼けを見ただけだった。僕の姿は鬼太郎の目には映っていない。
「どうした鬼太郎」
 鬼太郎の髪の間から目玉が飛び出し、心配そうに語りかけている。あの目玉の化け物には見覚えがある。鬼太郎が赤ん坊のころ、よく部屋の隅を駆け回っていた異形の者だ。最近は隠れるのが上手くなったのかあまり見かけない。
「知っている人の気配がしたような気がしたんです。でも、そんなはずないな……。もうこの世にはいない人です」
 目玉はくりくりと身体を揺すった。
「人間はもろく儚い生き物じゃからのう。人の世の変化はめまぐるしい」
 僕はまるで宇宙のはるか彼方から彼らをみているような不思議な感覚にとらわれていた。鬼太郎は一瞬ためらうような素振りを見せたあと、再び口を開いた。
「実は、おとうさんの気配がしたんです」
「わしならずっとここにおるぞ」
 目玉は鬼太郎の頭の上をごそごそと移動しながらいった。どういうわけか僕の心臓はどくりと跳ね上がった。
「いいえ、……とうさんのことじゃないんです。ほら、ぼくが本当に子供だったころ、ぼくのおとうさんになってくれた人のことです。おかしいですよね、そんなはずないのに」
 急に頬がむずがゆくなり、手の甲で乱暴にこすった。口の中が塩辛い。僕は泣いているのだ、不思議に満ちたこの世界で。ああ、これは鬼太郎だ。僕の知っている鬼太郎よりもずっと年を重ねた、だが外見はほとんど変わっていない幽霊の子なのだ。鬼太郎は僕が墓の底で眠りについたあとも無事に成長を続け、遥か未来の日本で人間を守っているのだ。あの、鬼太郎が。長い年月を経てもなお、鬼太郎のなかで僕は生き続け、父と呼ばれている。
 僕は声を上げて泣いた。


 身体中が汗でべとついていた。少し昼寝をするつもりが、本格的に寝入ってしまっていたようだった。鬼太郎は帰ってきただろうか。僕は気だるい夏の空気にうんざりしながら身を起こした。
 おかしな夢をみたような気がした。起きた途端に散り散りに消えてしまいよく覚えていないのだけれど、胸の奥が小さく痛むのだ。それはしあわせな痛みだった。
 そうだ、今日は鬼太郎と一緒に縁側に座って西瓜でも食べよう、日が暮れてから。たまには鬼太郎の好きな夜の闇を共に過ごすのも悪くはない。


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2008/1/15

なんだか無性に義理の父親である水木と鬼太郎の関係が書きたくなり妄想しました! 墓場鬼太郎とゲゲゲの鬼太郎との間に直接的な繋がりはないかもしれないけど、あくまで私個人の妄想ってことで! 仮に繋がってたとしたら、こういう感じで実は家族としての愛情も芽生えていたらいいなって思いました。