「メシアと見る夢」


 メフィスト2世は傍らの少年を見た。それがすっかり習慣になっていて、自分でもまったく信じられない。この俺が人間の少年を主人とし、嬉々として指示を待っている。どんなときでもまっさきに頼られるのが嬉しかったし、少年の決定はいつだって正しかった。
「やっちまおうぜ、悪魔くん」
「だめだ。待つんだ」
 ときどき俺はわざと好戦的な言葉を口走っているのかもしれない。満足のいく冷静な答えに、メフィスト2世は心安らかな思いで頷く。俺は無意識のうちにメシアを試し、安心しているのかもな。

 かつてメフィスト2世の望むことといえば、気ままに昼寝をして好物のラーメンを食べ好きなときに好きな場所を飛び、気に入らないやつは容赦なく叩きのめすことだった。だがいまや、それらはたいして重要ではなくなっていた。メフィスト2世は誇りに思っていた、確信を持って感じていた、自分は伝説の一部になりつつあるんだと。すべてが灰燼に帰すまで語り継がれる伝説だ。俺はいま伝説が紡がれていく様をとびっきりの特等席で見ている。埋れ木真吾という人間が生み出している大きな渦に、自分の運命が巻き込まれていく様を喜びを持って観察している。

 真吾の目が素早く四方八方を見渡した。メシアは誰にでも甘いが油断はしない。機敏な動きで大木の根元に片膝をつき息を整えると、少し考えてから言った。
「二手にわかれよう」
 真吾の愉快とは言えない提案に、メフィスト2世は間髪入れずに聞き返した。
「なんのためにだ?」
 ぎくりとするほど澄んだ目がメフィスト2世を捉えた。
「二人まとめてやられないためにだよ」
「けど、どっちが死んでも未来はない。なら離れないほうがいいんじゃないか、悪魔くん」
 真吾は数秒間まったくの無表情になった。意識の奥深くに潜り込み、最善の道を考えているのだ。メフィスト2世はもうひと押ししてみることにした。
「なら、一人は無事逃げ延びたとしよう。やつらは見失ったことに腹を立てて近くの人間を襲うかもしれないぜ。他の使徒は見えない学校を守るので手一杯、いま召喚したら全滅だ。悪魔くん一人じゃやつらを止められないだろ。俺だけ残ったとしても相手は複数、蹴散らせないかもしれない。だけど時間稼ぎはできる。その間に状況が落ち着けば悪魔くんだって他の仲間を召喚できるし、それまで俺ががんばれば済む話だ。俺は召喚はできないんだぜ」
 無関係の者が犠牲になるかもしれない、これは一番効くはずだ。案の定、悪魔くんは辛そうな表情を浮かべている。
「わかった。なら一緒に行こう。正直いうとね、僕もそのほうが心強いよ。二人とも生き延びる道を考えてみる。確認できた限りでは敵は五人、かなり強い。僕は戦力にならないし、君は疲れてる。だからまともに戦うのは絶対に避けるべきだ」
 真吾のこの切り替えの早さと自信に満ちた声が好きだった。
「気が変わってなによりだ。俺たちは運命共同体なんだしさ、ここまで来たらとことんやろうぜ」

 メフィスト2世は実際感心していた。たいしたものだ、仲間の使徒たちは信じようとしないかもしれないが、真吾は意外に白兵戦に向いている。逃亡を続けて十五時間ほどだろうか、疲労困憊、立っているのも辛いはずなのに、気力だけは鬼気迫るものがある。敵に回したくない人間に初めて会った。
 だがそんな冷静沈着、気概に満ちたメシアでも、今日のようにときには不覚を取ることもあるのだ。

 メフィスト2世は危機に直面すると、ほとんど完璧に近い回避、防御を取ることができる。自分一人ならほぼ確実に避けられた攻撃だったのだが、真吾の腕を掴んで草むらに放り投げるのにほんの一瞬手間取った。魔力の塊はメフィスト2世と真吾の間を掠め、瞬く間に地面を沸騰させた。メフィスト2世にはほとんどダメージはない、だが人間の子供に打撃を与えるにはそれで充分だった。続けざまに背後から向かってきた魔力をすべて叩き落し、渾身の力を込めた一撃を放って追手を遠ざけてから、メフィスト2世は振り返った。地面を煮えたぎらせている魔力の炎と黒い煙が森をじわじわと侵食しつつある。

 メフィスト2世は朦朧とした目で見上げる真吾を素早く小脇に抱えると、力を振り絞り木々の隙間をジグザグに飛行した。どうにか追手をまいてから、手近な茂みに真吾を横たえる。
「しっかりしろ、俺はどうすればいい? 教えてくれ」
 なにか言おうとしていることに気づき、息を殺して耳を近づける。途切れ途切れの言葉に、メフィスト2世は頷いた。身を隠す必要がある? なら任せとけ、このメフィスト2世が万事抜かりなくやってのけるさ。

 幸い身を隠す場所は豊富にあった。街から近すぎず遠すぎず、入り組み過ぎていないところがいい。大木のうろのなかを急場しのぎに使うことにした。枯れ葉をかき集めてクッション代わりとし、その上にマントで包んだ真吾を寝かせてやる。そっと服をめくって確認してみたが、かすり傷程度で外傷はそれほどでもない。ショックで一時的に気を失っているだけだろうとメフィスト2世は判断し、真吾の回復を待つことにする。

 寝ずの番をしながら、メフィスト2世はつらつらと考えていた。この少年のことを好ましく思っていた。なにかほしがるようなら与えてやりたかったし、世界を救いたいならそうさせてやりたかったし、休息を取りたいなら外敵から守ってやりたかった。真吾はぴくりとも動かず深い眠りのなかを漂っている。なんの夢を見てるんだろうな。ユートピアの夢か、過去の辛い戦か、他愛もない子供らしいおとぎ話か。

 小さな子供を集めて教育を施す機関にせっせと通っている真吾、その必要はまったくなさそうなのにおかしな話だとメフィスト2世は思っていた、ある日までは。その日の真吾は機嫌がよく、小学校から帰るなり部屋に勢いよく滑りこんできた。壁にもたれかかっているメフィスト2世に目を止めると、なにを思ったのかランドセルのなかから手のひらに収まる程度の緑色の塊を取り出した。不格好だがよく見ると鳥の形をしていて、横に付いている小さな紐を引っ張ると翼が動くのだ。メフィスト2世はそのときまで真吾を完全にメシアとして捉えていた。生真面目で、勉強熱心で、正義感にあふれ、情の厚いメシアだと。その認識はいまでも変わっていないのだが、もう一つ新たな一面、ただの子供としての顔をそこで発見したのだ。そのときメフィスト2世はまずこう考えた。悪魔くんは崇高な目的のために、なにかの象徴としてこれを俺に見せたんだと。とっさにそう思い必死にからくり仕掛けの鳥の意味を考えた、だが実際は違っていた。理由は単純、あってないようなもの、単に子供だからだ。自分の作ったものを披露してみただけなのだ、親兄弟にそうするように。そのときの真吾にとって自分は男兄弟のようなものだったのだろうとメフィスト2世は思った。よくできてんなと言ってやると、満足したのかランドセルを放り出しておやつを食べに走って行った。なんで俺こんなこと思い出してるんだろ。

 真吾が身じろぎをしたので、メフィスト2世は慌てて傍に這って行って顔を覗き込む。
「具合はどうだ?」
 真吾は一瞬ためらう素振りを見せてから口を開いた。
「身体中ずきずきする……でもたいしたことない。話してるとちょっと落ち着く。痛みがまぎれるよ」
 メフィスト2世は真吾の青ざめた顔を観察し、その言葉が真実かどうか見極めてからほっと息をついた。弱音を吐かないのは場合によってはありがたいが、限界を見極めにくいのが弱る。意志の力では補えないほどダメージを受けてから物も言わずに倒れるのがいつものパターンだ。だいたい悪魔くんは甘すぎる。散々悪行を重ねた悪魔をあっさり許して逃がしてやるのはいつものことだが、今回そいつらは恩を仇で返してきたわけだ。
「心配するなよ。このくらいじゃくたばらないよ、僕」
 メフィスト2世の沈黙を不安に思ったのか、真吾は明るく言った。
「いつまでも悪魔くんの強運が続くとは限らないぜ。この程度の怪我じゃすまないときがきたらどうすんだよ。俺は回復魔法なんて使えねえし」
「それについては僕けっこう楽観してるんだよ。これが運命なら、本当に僕がメシアなら、必ずおさまるべきところにおさまるって」
「そうなりゃいいけどさ……」
「そうなるよ。僕はそう信じてる。だからメフィスト2世も信じてくれるとうれしい。例えばね、十年経ったとするよ。そのときはメフィスト2世とお酒でも飲みかわしてるかもしれない。僕はきっとね、お酒に強いと思うよ。そんな気がするだけだけどさ。飲み比べをして、君を負かして、そうして笑いながら十年前のこと、つまりいまの僕たちのことを思い出してる。僕らはどんなに勇敢に戦ったか、どんなに無鉄砲で、むちゃくちゃで、苦しい思いをしたか。それと同じように、ちょっと泣けてくるくらい底抜けに幸せで、なんにもないのに笑いだしたくなるくらいで、楽しかったことを思い出してる」
 メフィスト2世はシルクハットをかぶり直す振りをしながら熱くなった目頭をこすった。
「そうだな。そうなるといいよな」
「うん。何十年経っても、僕は君のこと忘れないよ。二十年、三十年……五十年でも。もっと長い時間が過ぎて、そうだな、百年後には僕はいないだろうけど、でも僕らは確かにここにいて、一緒に闘って、笑って、同じ時間を過ごしたんだって覚えていてくれたらうれしいよ。そうすれば君の記憶のなかで僕は生きていられるから。僕はね、メシアとして歴史に名を残そうなんて気はぜんぜんないんだ。ただ、僕っていう仲間がいたことを君たちが忘れないでいてくれたならそれが一番しあわせだよ」

 メフィスト2世はしみじみ思う。悪魔くんのすごいところは、なにかをとことん信じきる強さを持っているところだ。疑いを抱かないわけではないだろうけど、それでも自分の信じたものを最後まで大切にする強さがあった。だからみんなついていく。
 悪魔くんに任せておけば大丈夫だ、万事問題なし、世はなべて平穏なり、そんな気持ちにさせてくれる、不思議な少年だった。
 俺はぜったいに悪魔くんのこと忘れない、ずっと一番の友達だ、そう言おうと思ったのだが、それだけでは言い尽くせない気がして困ってしまった。
「俺、悪魔くんのこと好きだよ。だからさ、あんまり無茶すんなよ」
「うん、ありがとう。僕も君のこと好きだよ。僕だって痛いのが好きなわけじゃないし、できるだけ長く君たちとこうしていたい。だから無茶なんてしないよ」
 危機に瀕したときその言葉を思い出してほしいとメフィスト2世は願ったが、約束しろよと言いたかったが、あえて念を押したりはしなかった。


戻る
2008/11/9

大神いつきさんからいただいたリクエスト「10年後、50年後、100年後を想像して語り合う真吾くんとメフィスト2世」です。はっきり口に出すときもあれば、ただ黙って願うときもある、メフィスト2世ってきっとすごく優しいだろうなとあれこれ想像しちゃいました! 真吾くんにとってもメフィスト2世は一番の友達で、相棒で、その気持は生涯変わらないだろうなと思います。メシアとかユートピアとか関係なしに、ただの少年の真吾くんがある日ふとした瞬間にメフィスト2世を召喚してしまったとします。その場合でも最終的にはすごく仲良くなったんじゃないかな、そうだったらいいなと想像しちゃいました。