「少年時代」


 メフィスト2世は深い深いため息をついた。メシアと百目がこんなに厄介な存在になり得るとは思わなかった。少しばかりからかっただけなのに百目のやつが怒りだし、そこに悪魔くんが割って入り、どういうわけか事態がややこしくなった。最近厄介な事件ばかりで悪魔くんも疲れていたのかもしれない。悪いときには悪いことが重なるもので、怒りで全身を赤くした百目は俺に向かって閃光を放った。百目も悪魔のはしくれ、ときには見境がつかなくなることもある。そこで悪魔くんの怒りの矛先が俺から百目に移り、ざまあみやがれと思っていると今度は目玉が山ほど飛んできて、不意をつかれた俺は仰向けに吹っ飛んだ。
 そしてなんとも他愛のない喧嘩が、だがあのときあの場にいた俺たちにとっては非常に重要で緊張感のある戦いが始まった。

 人気のない森のなかでメフィスト2世はじっと息を殺していた。右斜め前、五十メートルほど先の茂みから激しい閃光が沸き起こる。百目の目くらましだ、ということは悪魔くんも近くに身を潜めているんだろう。相手はメシアとはいえ人間の少年、そして百目の子供だ。俺様に喧嘩で勝てるわけねえだろ。メフィスト2世は高をくくっていた、正直に言うと。だがいまやこの様だ。
 ほんの数分前一瞬悪魔くんと目があったのだが、思いっきり舌を出された。ち、ちくしょう、子供の喧嘩じゃあるまいし……いや、そういや悪魔くんは子供だったな……。そう思うと別に不思議ではないが、あまりに落ち着いた穏やかな面しか普段は見せないので、年相応の子供らしい言動を見るとどうも調子が狂う。

 考えごとをしていたせいで、油断をした。はっと気づいた次の瞬間、右頬に軽い衝撃が走り、べっとりしたなにかが滑り落ちていく。そっと指で触ってみると、泥の塊だった。
「こ、このクソガキども……どっちだ、悪魔くんか? 百目か? いい加減でてこ……」
 最後まで言い切ることはできなかった。今度は泥の塊が顔面をもろに直撃したからだ。もちろんダメージはまったくない。嫌な感じはしなかったし、なぜだかわくわくしてきた。口のなかに入り込んだ泥を吐きだし、ハンカチで顔を丁寧にぬぐってから、メフィスト2世は猫撫で声を出してみた。相手はメシアとはいえまだ子供だ、うまくおびきだせるかもしれない。
「おい、こんな馬鹿げたこともう止めようぜ。俺はぜんっぜん怒ってないからよ。ほんとだぜ、だから出て来いよ。話し合おうぜ」
 しばらくなんの反応もなかった。メフィスト2世はステッキを強く握りしめ、二人の出方を待つ。背後から落ち葉を踏みしめる音が聞こえ、メフィスト2世は素早く振り返った。
「そこかあっ!」
 相手の動きを封じるべく伸びた魔力のロープが灌木を薙ぎ払ったが、それだけだった。

「嘘はいけないよね、メフィスト2世」
 どこからともなく聞こえる真吾の声に、メフィスト2世は素早く辺りを見回した。少年の声は精霊のように森のなかをこだましていて、方角の見当がつかない。もしかすると、なにか魔術を使っているのかもしれない。
「嘘じゃねえよ、戦術だ!」
「同じことじゃないか」
「いいや、なんかとにかく違うんだよ!」
 百目は比較的見つけやすい。魔力を発している状態なら特にそうだ。だが悪魔くんの場合、気配を殺してしまえばどこにでも隠れられる。おまけに悪魔くんが得意とする魔術は主に相手の動きを封じたり浄化をしたり身を隠したり……つまり、いまのこの状況にうってつけの術に長けているのだ。例え相手が敵でも極力傷つけないようにという悪魔くんの優しさがこんな形で俺を窮地に立たせるとは……。

 しかしまさか悪魔くんまで乱闘に加わるとは思ってもみなかったぜ。最近ストレスがたまってたのかもしれないな、そう思うと今回の喧嘩で発散できればお互いすっきり、俺も悪魔くんも百目もめでたし丸くおさまるってもんだ。というより三人にとってこれは既に喧嘩ではなかった。ほとんどかくれんぼで戦闘ごっこ、誰が一番最後まで逃げ切れるか状態だ。最近沈みっぱなしだったメシアが元気に走り回って喧嘩しているのだから、ある意味では喜ばしいことだとメフィスト2世は微笑んだ。

「……だけど、最後に勝つのはこの俺だからな!」
 メフィスト2世は乾いた空に向かって吠えた。その直後、目玉がひとつ飛んできて小馬鹿にするように頭を小突いていった。やってくれたな。辺りを確認すると、狙いすましたかのようにまた泥団子が飛んできて、無防備だった顔面に再び着弾した。目玉は右手から、泥団子は左手から来た。ということは、この泥団子攻撃は悪魔くんの仕業だ。なんでこういうときだけ運動神経がすこぶるよくなるんだ、落ち込んでるよりはいいが元気になりすぎだぜ。顔中ぽたぽたと泥を滴らせながら、メフィスト2世はくつくつと笑った。いいだろう。この俺が決着をつけてやる。ハンカチはさっきの攻撃で泥まみれになったので、メフィスト2世は仕方なくマントの端で顔をぬぐった。
 ゆっくり息を吐き、瞬時に魔力を集中させると、メフィスト2世は地面にステッキを突き刺して大地の精霊に干渉する。ぼこぼこと地面が波打ち、大量の泥が空中に舞い上がった。半径百メートル以内のすべての者に降り注ぐ泥の洗礼だ、四方八方に飛び散る泥を避け切ることなど不可能のはずだ。
「これでも食らえっ! この勝負、俺様の勝ちだあっ!」
 メフィスト2世の勝利の咆哮に、大気がびりびりと震えた。辺り一面泥まみれ、それは真吾も、百目も、術をかけた当人であるメフィスト2世でさえ例外ではなかったが、彼自身はひとまず満足だった。捨て身の戦法だ、おそれいったか。

「なんてことしてくれたんだよメフィスト2世、母さんに怒られちゃうじゃないか!」
「そうだもん、ママさん洗濯が大変なんだもん!」
「けっ、俺だって泥まみれなんだぜ、お互いさまだろ」
「でも悪魔くんがぼくばっかり叱るのもいけないんだもん!」
「必要もないのに人間界で魔力を使っちゃだめだっていつも言ってるだろ」
「まったくだ、だからいつまで経っても百目はガキなんだよ」
「メフィスト2世! 君もそうやってすぐ百目をからかうからいけないんだよ、だいたいいつも――」
 頭から爪先まで全身泥まみれの状態で口喧嘩をしながら帰路につき、玄関のドアを開けたところで真吾が凍りついた。埋れ木家から危険な香りが強烈に漂っている。三十六計逃げるに如かず、メフィスト2世はそろそろと後ずさりしたが、背後の百目に退路を断たれた。
「怒られるときは一緒だもん。ぼくたち仲間なんだもん。ね、メフィスト2世」
「た、戦いで運命を共にするのはいいけどよ、こういうのは俺ちょっと……」
「メフィスト2世……」
 泣きそうな顔で救いを求めてくる真吾に、メフィスト2世は引きつった笑いを浮かべる。どうしよう、助けてよ、エツ子がめちゃくちゃ怒ってるよ、こういう顔してるときのエツ子って母さんより怖いんだよ。小声で耳打ちしてくる真吾に、第一使徒としては助けてやりたいと思うものの、メシアの妹の怒りはどうやら自分にも注がれているらしい。なんでだ、なんで俺まで……そこでメフィスト2世ははたと思い当たった。そういや、喧嘩の始まりは悪魔くんの部屋で、そのとき俺たちはけっこう派手にどたばたやったような気がする、被害の状況を確認する間もなく家を飛び出し森で豪快に喧嘩をすることになったが、ひょっとしなくてもいま悪魔くんの部屋とその周辺は大変な惨状を呈しているのかもしれない。
「俺、ちょっと急用を思い出したような気がするような気がしてきたぜ、そういうわけで、じゃ、またな悪魔く……いや、やっぱり暇だったわ俺、ははは……」
 真吾と百目とエツ子の射抜くような視線に、メフィスト2世は小声で言い直した。

 新たな強敵、メシアの妹の出現で俺たちは再び一致団結、強い絆を取り戻し、その後数時間に渡って掃除に明け暮れることとなった。
「やっぱり、喧嘩なんてするもんじゃないよね。僕たちは仲間なんだしなにより友達だし」
「そうだもん、エっちゃん怖いもん、僕もう疲れたもん……」
「あーあ、仲間って最高だぜまったく……」
 あとどれくらいこんな平和な日々を続けられるだろうという不安がメフィスト2世の心をよぎった。無事生き延びても悪魔くんが大人になってしまったらもう、いまと同じようにはじゃれあえないんじゃないか、そう考えると少し寂しい。でもあと少しだけこうやって馬鹿をやっていたい、メフィスト2世は心底そう思っていた。

戻る
2008/11/9

「真吾と2世と百目がケンカして仲直りする話」という、小林なつみさんからいただいたリクエストです。メフィスト2世がちょっとお兄さんみたいな感じでほのぼの子供の喧嘩をして、最強の存在はメシアの妹だという流れでギャグにいきかけましたが最終的にちょっとしんみり、でも三人なかよしで! 喧嘩するときも戦うときも遊ぶときも怒られるときも一緒、やっぱりこの三人組は基本中の基本ですね!