「エージェント 12」


「聞こえるか、エージェントNO1。応答せよ」
 メフィスト2世は神妙な顔で頷きかけ、慌てて無線機を口元に近づけた。たとえわずか一メートル先の魔法陣にいようとも、この緊迫した空気を壊してはならない。ごっこ遊びの真髄、鉄則である。僕のことは司令と呼んでくれと念を押されているので、メフィスト2世は律儀に繰り返した。
「悪魔く……じゃなかった……司令。通信は問題ない。そろそろ第七エリアに帰還したい」
 第七もなにもひとつしかないのだが、家を指す暗号なのだ。エージェントNO1、またの名を第一使徒メフィスト2世は神妙な顔を崩さないまま防空壕もとい秘密基地を出た。見上げると、夏の乾いた空を覆う雲の腹から稲妻が小さく走っている。

「エージェントNO1。空から行くのか?」
「ああ」
「じゃあ、秒読み開始だ。十秒前からな」
 ただ魔力で飛ぶだけなのにか? 空想をぶち壊すようなセリフは決して言わない、すっかり人間の子供の遊びに浸りきっているメフィスト2世だった。
「了解、司令。発射用意オーケー。テン、ナイン、エイト、セブン……」
 日本語でカウントすべきかそれとも英語かドイツ語か、一瞬迷ったがこの手の場面ではおそらく英語がポピュラーだろうとメフィスト2世は判断する。これからエージェントNO6、別名第六使徒百目と合流し、第七エリアで一休みだ。

 当面は戦いも調査もなく夏休みとくればやることはひとつ、悪魔くんと百目と俺は生まれたときからずっとそうしてきた兄弟みたいに遊び呆けていた。ちょっと前までは遭難ごっこと忍者ごっこと鉄道模型で駅長ごっこにはまっていたのだが、いまはスパイごっこに熱いのだ。スリーまでカウントした瞬間、雷のごろごろ言う音が地上に響き渡った。
「エージェントNO1から司令へ。雷が近づいているぜ」
「うん、こっちからも見えたよ。稲光から雷鳴まで七秒くらいかかったってことは、二キロちょっとか。僕もすぐ第七エリアに避難する。みんな揃ったらアイス食べよう」
 とはいうものの、幼い少年にとっての雷雨は午後のひと時に涼しさと楽しさを与えてくれるちょっとした添え物で、わずらわしさとは無縁だ。ずぶ濡れになればなったで笑い転げて終わるだけで、身なりやらなにやらを気にして慌てるような歳でもない。

 メシアと十二使徒の命が危険に晒されるのは日常茶飯事なので、子供なりに対処法も確立されている。真吾と百目に挟まれる形で、メフィスト2世は薄暗い回廊の端にしゃがみ込み魔力の回復を待っていた。真夜中の美術館に忍び込み古代の魔術品を探す、それはおおいに好奇心をそそられる冒険でいつものように三人揃って意気揚々と出かけたまではよかったが、予想外の強敵の出現に肝を冷やした。いまこの瞬間も魔の力は辺り一面に充満していて、床に敷き詰められたタイルが浮き上がっては落ち浮き上がっては落ちを繰り返している。がりがりとなにかが噛み砕かれる嫌な音が品よく色褪せた煉瓦の向こうで響いていて、実際なにがなにの口に入っているのかあまり考えたくなかった。
 ひとまず暗がりに身を隠し、どうにか息が整ったところで真吾が囁いた。
「……エージェントNO1、NO6。怪我はないか?」
 しばらくごっこ遊びはなりを潜めていたのだが、時には仮面も必要なのだ。恐怖を笑いに変えるなにかがあれば、血の匂いも薄くなる。得体の知れない強大な魔物を前に辛うじて逃げ切った子供たちという状況は、精神衛生上あまりよろしくなかった。

 だからそんなときはこう思えばいい。真吾は幾多の戦を潜り抜けてきた司令でまだ幼い少年などではない、そしてメフィスト2世と百目も悪魔の子供などではなく百戦錬磨のエージェントなんだと。そんな役柄になりきることで多少なりとも余裕が生まれるのならしめたもの、あとはメシアの魔法が効いてくるのを待てばいい。
 そこまで考えたところでふいに首の後ろに温かい手が触れ、メフィスト2世は思わず安堵の息を洩らす。顔を上げると、いつの間にか立ち上がっていた真吾がメフィスト2世と百目の肩に腕を回しいつもの魔法をかけてくれているところだった。

 遊び友達がメシアに変わる瞬間だった。ひょっとしたらこの戦いであっさり死ぬかもしれない、俺たちみんな心の底に恐怖を山ほど飼ってるけど、俺も悪魔くんも意地っ張りだからなんてことない振りをしてる。どんなにびびっててもこの運命の軌道をそらすことはできない。メフィスト2世は胸のなかで渦巻いている不安を形にしようと口を開きかけたが、うまい具合にまとまらない。
『でも無理すんなよ、悪魔くん。あっちで誰かが溺れてて、こっちでも誰かが崖から落っこちそうになってる。そうなっても悪魔くんは一人しかいない、誰もかれも助けることなんてできないんだぜ。やばかったら逃げちまえ、俺と百目は悪魔だからそう簡単には死なない、死ねないんだからな。でもそのひたむきさと頭の良さが悪魔くんの才能なんだよなあ、悪魔くんは誰も見捨てたりしないってのもよくわかってる。俺がいいたいのは、類まれなその才能を手放すなよってことかもしれない。でも悪魔くんがいまの悪魔くんでいる限り、いつかあっけなく死んじまうかもしれない……俺は悪魔くんに凡人になってほしいのか、いまのままの強烈な天才でいてほしいのか、自分でもよくわかんなくなってきた』
 たぶんこんなことを言いたかったのだが結局、この件に関してメフィスト2世は口を閉ざすことを選んだ。とりあえず、いまのところは。なにか言いかけたメフィスト2世を真吾と百目が見守っているのがわかったので、
「俺たちがここにいるのは偶然じゃねえんだよな」
 当たり障りないと思えた言葉を口にしたのだが、はっとするほど真剣な顔の真吾がその後を継いだ。
「そうだよ。君たちはこの地に引っ張られ、否応なしに僕の戦いに引きずり込まれた。僕に欠けているなにかを満たしてくれる悪魔たち。僕はどうしても手に入れたかった。だからさ。全身全霊を込めて呼び続け、やっと召喚できたんだ」
 どきっとする言葉を不意打ちで放つ、この少年の言動はまっすぐなようで予測がつかない。

 様子をうかがい続けること早三時間、メフィスト2世、真吾、百目の三人はぴったり身を寄せ合いしゃがみ込んだままいまだ動けずにいた。もう少しで夜が明け、ステンドグラス越しに差し込んでくるはずの日の光が邪悪を弱めてくれるだろう。空調の止まった建物は蒸し暑いどころの騒ぎではなく、さすがのメフィスト2世も上着を脱ぎ捨てシャツの袖をまくり上げていた。真吾を見やると同じく限界らしく、汗をだらだら流しながら脱いだシャツを腰に巻きつけている。百目がうらやましい。
「ぼく、お腹空いたんだもん……」
「俺もだ。夕飯なんてもう消化しきっちまったよ」
「僕はもう寝不足だよ……ていうか暑い」
 口々に疲労と空腹を訴え合ったところで、三者三様ため息をつく。
「でももうちょっとの我慢だぜ、エージェントNO6、百目。俺たちが本気を出せばあんな魔物ひと捻りだ、だろ?」
 努めて明るく百目を励ますメフィスト2世だったが、真吾の感謝の眼差しに照れ臭くなり慌てて眼をそらした。俺たち、ほんとの兄弟みたいにいい関係だよな。万事順調とまではいかないかもしれない、でも少なくとも俺たちはまだ生きてる、なら致命的な間違いはないってことだぜ、そうだろ。
 口には出せなかったので、メフィスト2世はわざと乱暴にマントを払って立ち上がる。最後のひと押し、立ち上がる力は悪魔くんからもらった、こそこそ隠れるのは止めていまこそ勝利をもぎ取るときだ。メフィスト2世は、メシア真吾、通称悪魔くん、最近では司令とも呼んでいる少年を振り返った。
「よし、悪魔くん――司令。作戦はあるか? 反撃開始だぜ」


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2009/3/25

スパイごっこ。